捨て犬の居場所

桜楽

第一話 初桜の雨

 間も無く正午を迎える空にはどんよりと雲が広がり、行き交う人々はみな足早に過ぎ去っていく。

 本来は待ち合わせで賑わう公園外周の低い石垣に腰掛け、そんな様子をただぼんやりと眺めながら、明るい栗色の髪の青年は浅い溜め息をいた。


 まだ肌寒い初桜はつざくらの頃には些か薄着の身体は、どれくらいの間そこに在ったのだろう。

 冷たく血色を無くした自らを気遣うでも無く、雨雲の成り行きにすら関心を持たず。青年はその場を動こうとはしない。


「いつまでも……何やってんだろうな。」


 続けたところで、恐らく意味など無い。

 そんな成果も期待できぬ行為を終わらせるべく呟いたつもりだったが、まったく諦めきれない様子で。泣き顔にも近い顔を髪で隠し深く俯いた。


「ねぇ、キミ。僕と遊ばない?」


 不意に目の前で立ち止まった男が、頭上から低く穏やかな声で言う。

 青年にとっては聞き覚えの無い声だったのだろう、男へは何も返さずに怪訝けげんな表情を浮かべた。


 サラリと風に揺れる髪の隙から覗く、中性的で整った顔立ち。男女関わらず声を掛けられては聞こえぬふりでかわすのも毎度のことで、今だってそれを貫こうとしていたのに…

 男は躊躇ためらうでも無く、そっと俯いたままの頭を撫でる。

 突然の思いもよらぬ行動に驚き、何の反応もできずにいるのを幸いに。男は青年の右頬に触れつつ髪をよけ、一つに束ねた長い髪を揺らし顔を覗き込んだ。


「キミに言ったんだよ?ね、僕と遊ぼ?」


 ナンパと言うよりは、およそ承知の上で声を掛けたのだろう。向けられた半ば拒絶するような視線も、聞き分けのない子供をたしなめるかの如き笑みでかわし迫る。


「じき雨が降る、ここにいたって濡れるだけだし。悪いようにはしないから、ね?」


 穏やかな声に反した強引な振る舞いに青年はあっさりと押し負け、気付けば男に手を引かれ歩き出していた。


 予報では、午後から雷雨とのことだった。

 傘も無い二人は、人通りの多い賑やかな街中を足早に進む。


「…遊ぶって、どこ行くつもりだよ。そっちに……ホテルなんて無いだろ。」


 あくまで平静を装い言ったつもりだったが、男にはそれが可笑おかしくて仕方なかった。

 一見経験ありげな派手な容姿を、見事なまでに裏切る純粋な瞳。ゆらゆらと不安げに揺れ、無理をしているのは手に取るようにわかる。


「まぁ、どこか雨をしのげる場所にしようとは思っていたけど。そういう遊びがご希望なのかな?」


「っ!…ち、ちが……」


 極力好意的に振る舞うつもりでいたのに、青年の動揺する様子に加虐心をくすぐられ、ついつい余計な一言を加えてしまう。

 己の性質を理解しながらも、言葉を交わして早々欲求を抑えきれなかったことを少しばかり反省しつつ、頬に感じた降り始めの雨から守るように青年の身体を引き寄せた。


「ごめんね。出会いを印象付けておきたくて、あんな風に声を掛けてしまったけど…。僕は天人あまと大比良おおひら天人あまとだよ。よろしくね、春来はるきくん。」


 人気の店が並ぶショッピングモールに入り、無事に雨から逃れたところで男が言う。


大比良おおひら……?」


 間違いなく初対面だったが、その苗字には聞き覚えがあった。

 春来はるきの自宅近くに建つそれはそれは立派なイギリス風の豪邸に、大比良おおひらという名の医者が住んでいる。たまに顔を合わせれば挨拶を交わす程度。家族構成までは知らなかったから、その医者と雰囲気が何処と無く似た天人あまとは、きっと兄弟なのだろうと思った。

 が、天人あまとはすぐさまその予想を否定する。


春来はるきくんの家の近所に住んでるあの医者は、僕の従兄弟なんだ。僅かでも血の繋がりがあるなんて、まったく不本意な話だけどね…」


 天人あまとがその医者を良く思っていないことは明らかだった。とは言え、その理由まで察せる程、春来はるきは他人の感情に敏感では無い。

 ただ、今のところは天人あまとの簡単な素性が知れ、ほんの少しだけ緊張は解れたようだった。


 幾分落ち着いてきた頭で春来はるきは考える。天人あまとがこの状況へと導いた理由を。

 ゆっくり話しをしようとカフェスペースへ連れて行かれ、デートみたいだねと浮かれる様子も当然のことながら疑いの目で見ていた。自分に好意を持つなんてこと、春来はるきには微塵みじんも信じられなかったからだ。

 構うのはただの暇つぶし。相手が誰であろうと、どんな言葉を並べようと、結論はいつも同じ。

 それにしたって物好きだなと、いっそ哀れに思えてしまうのだ。


 ―――俺なんて…


 暇つぶしの相手として選ぶにしても、相応ふさわしいとは思えない。自分なんかより魅力的な人間は、その辺を見渡しただけでも幾らだって居るのにと。

 考える程に眉を寄せ、睨み付ける先では堪えきれぬといった様子で天人あまとが笑う。


 天人あまとは、独自に得た情報から予測される枠内で動く春来はるきの姿に、ひたすら優越感を覚えていた。まさに掌の上で転がしているかのような、そんな感覚。

 とは言え、すぐに自分のものにならぬ事も理解していたから。クリアしなければならない問題をイメージしてみても、心は踊るばかり。


「珈琲は飲める?」


 首を横に振るのも当然リサーチ済み。聞くまでも無く欲しいものは熟知していて、そのまま席を外せばカウンターへと向かった。

 身長180センチ程、モデルのような容姿なだけに少なからず視線は集まり。伴って自分も見られていることになどは気付きもせず、春来はるきは複雑な顔でテーブルに伏せる。

 ここ数日、まともに食べたり寝たりといった記憶はあやふやで、珈琲に混じり漂うクッキーやケーキの甘い香りに反応したのか途端に空腹感が押し寄せた。


「財布くらい、持ってくればよかった…」


 ポケットに唯一入っていた自宅の鍵を弄りながら、窓越しに土砂降りとなった景色を眺め息をく。

 天人あまとの目的など、もうどうでもよくなっていた。




 どれくらい経ったのだろう。飲み物を買うにしては随分と遅く、居眠りしていたところに眩い雷光を受け目を覚ます。すぐさま地響きのような雷鳴が轟いた。

 ふと頭を上げれば、カフェスペースのどこにも天人あまとの姿は無い。所詮は気紛れ。置いて帰られたのだと一人納得し、己への嘲笑を浮かべる。


「ま、当たり前…か。」


 生気の失せた顔で、諦めたように呟いた。

 放り出すにしても、せめて場所を考えて欲しかったなどと思いつつ、注文も無しに居眠りで占拠してしまったテーブルから離れるタイミングを見計らう。


「お待たせ。」


 立ち上がろうとした瞬間、背後から耳元に吐息混じりの声をかけられ、反射的に身体を強張らせた。

 じわり振り返るなり買ったばかりのカーディガンが肩を覆い、ホットココアと洋菓子がテーブルいっぱいに並ぶ。

 まさかの状況に春来はるきは唖然とするばかりだ。


「僕、普段はとある社長のお宅で執事をやってるんだ。日常的に主人の要望を先読みして動いているせいか、何でも事前に用意するクセがついてしまってね。」


 わざとらしい言い訳のようでもあったが、事実執事という仕事をこなす天人あまとにとっては容易なサプライズだった。

 この場所を選んだのすら実は計画のうち。自身を印象付ける手段としては十分と考えたのだ。

 甘いものに釣られたと言えなくもなかったが、案の定春来はるきは安易に心を許してしまい。一先ずは天人あまとの思い通りに運んでいく。

 ありがとうと、いただきます。を恥ずかしげに言い食べ始める姿を見つめ、いつになく香り立つ珈琲をゆっくりと楽しんだ。




 春来はるきが重度の甘いもの好きと聞いてはいたが、正直見ているだけでも胸焼けする程だった。

 カフェスペースでの他愛もない会話の後スイーツショップの並ぶフロアへ行ってみれば、ショーケースの中を見つめ物欲しげな素振り。けれど強請ったりする程図々しくもなれない春来はるきのため、視線の向く先を追っては片っ端から買い与えた。

 すぐに口に入れるものもあれば、持ち帰りたいと言うものもあり。そこそこの重さとなった袋は天人あまとが持つ。


「なぁ、こんだけ買わせといて今更かもだけど。あんた、いったいどういうつもりだよ。」


 自分のために易々と金を出し、荷物持ちまで買って出る意味がどうしても理解できず、カーディガンの裾を握り俯きながら聞く。


「ん?どういう?」


「だから!なんで、こんな奢ってくれるのかって…」


 春来はるきの知りたいことは解っていたけれど、敢えてトボけて返した。そうする度に少し不機嫌になって眉をひそめるところが、可愛くて仕方なかったのだ。


「遊ぼうって誘ったのは僕なんだし、お金くらい出して当然でしょ。」


「あんた…、わかってやってるだろ。」


 同じようなやり取りを繰り返すものだから、流石に鈍感な春来はるきも自分の反応を見て楽しんでいるのだと気付き、一層不機嫌になる。といって、天人あまとの余裕の笑みが消えるわけでは無い。

 休憩用に置かれたベンチに腰掛け春来はるきの手首を掴み引き寄せると、恋人のように密着して座らせた。

 腰に回した手で逃げ出すのを阻止すれば、居心地悪げに春来はるきが身をよじる。


「これくらいは許して欲しいな。ほら…こんなに買ってあげたんだからさ。」


 スイーツがいっぱいに入った袋を指に掛け揺らして見せ、おとなしくなったのを見計らい耳に触れる位置まで唇を寄せた。


「一目惚れなんだ、キミが欲しい。」


「っひぅ…⁉︎」


 過敏な反応。羞恥に抗い構えた手を振り下ろすまでも無く、かっこつけて言った自分に耐え切れず笑いだす天人あまと

 全く理解できない行動や言動に春来はるきはイライラを募らせる。


「ごめんごめん。わかってる、一目惚れなんて信用できないんだろう?」


 大半、誠意を欠いた態度でいたかと思えば一変、公園で出会った時のように優しく頭を撫でた。


「そうだな…君のような人間に興味があると言えば、わかってもらえるかな。その生態をどうしても追究したい、言うなれば研究対象だね。」


 当人を前にして失礼な言い回しながら、春来はるきにとっては至極わかり易い理由だった。

 自分が好意を向けられるような人間では無いと思い込んでいる分、その人間性を追究したいという考えは少しだけわかる気がする。

 欠陥があるから、そうで無い人間にしてみれば物珍しくて仕方ないのだろうと。


「それで?俺みたいなのの研究に勤しんで、本番に活かしたい…とか?」


「あー?うん。まぁ、そうだね。そういうことにしておこうかな♪」


 金銭的なことは勿論、物や時間。恋愛に対し全てを注ぎ込んでしまう気持ちは春来はるきにもよくわかったから、例えばとても魅力的だけど、どこか自分と似た部分のある人を天人あまとが好きになったのだとしたら…

 普通ならば、とんでもなく強引な考え方だ。しかし春来はるきは何の価値も見出せない自分を、ただの練習台と受け取り納得した。


春来はるきくんはいつも通り、自由にしていて構わないよ?僕が勝手に付き纏って、お金をかけて、触れて…」


「ストーカーかよ。」


「へぇ…。そういう返しもできるんだね。気を許してくれた証拠かな。」


 不意に目が合い、突き出した両手が天人あまとの目を覆う。そのまま密着を押し剥がし、一人分程の間隔を空け座り直した。


 元より春来はるきは人と目を合わせるのが苦手で、一瞬でもこんなに間近で見つめ合うことなど、もう何年も経験していなかった。

 仕事で飛び回り留守がちな両親とも何となく距離を置いていたし、過去に付き合った相手とだって……

 緊張で胃の辺りが締め付けられる感覚を覚えながら、天人あまとの手にある袋を奪い取り菓子を食べ始める。


「おや、何か悪いことしたかな?んー…なかなか難しいねぇ。」


 新しい反応を受け嬉しそうに距離を詰めれば、汚れた口のまわりを拭ってやったり、皿代わりに手を差し出したりと世話を焼く。


「幸いスキンシップに嫌悪感は無いようだし、既成事実さえ作ってしまえば…」


「アホか。」


 一刀両断するも、春来はるきもどこか楽しんでいるように見えた。

 目さえ合わせずにいれば天人あまととのやり取りにもだいぶ慣れたし、自分にも執事がついたとでも思えばなかなかに快適な生活が送れるかもしれない。

 精一杯のプラス思考で、天人あまとと上手く付き合っていく選択をかろうじて受け入れたのだった。


 一方、冗談とあしらわれている発言の大半が本気の天人あまとは、道程みちのりの険しさを感じていた。が、諦めるつもりは毛頭無く、険しき道もまた恋愛の醍醐味と前向きな姿勢は揺るがない。

 退屈な日常、退屈な恋愛。そんなものには飽き飽きしていたから、春来はるきが予想に反したことをする度に好意が強まっていくのを感じた。


「ヒドイな。僕は正直者だよ?思ったことをそのまま口にしているだけなのに、アホだなんて。」


「じゃあ正直なアホだな。…あ、そうだ。さっきの話だけど、俺があんたの研究だか何だかに協力することになるわけだろ?で、その報酬として多少の我儘には応える、と。」


「そうだね。何か要望でも?」


 春来はるきが何を言い出すのか、おおよそ予想はついたが一応聞いてみる。


「だったら、からかうのはやめ」


「それは無理だね。」


 予想していたから、言い終える前にキッパリと答えた。

 できるわけがない。人を食ったような態度をとるのはそもそもの性質。理性でもって抑えたとしても、かくも弄り甲斐のある生き物相手では、せいぜい嫌われない程度に収めるのが限度なのだ。


「そこの反応も込みで知りたいんだよ。要望に応えられない分は、他で尽くすから。」


 渋々といった様子の春来はるきの頭を撫でて宥め、尽くす証にと自分の連絡先を書いたメモを差し出した。


「スマホ、持って来てないんだよね?帰ったら登録しておいて。昼夜問わず、いつでも好きな時に連絡してくれて構わないから。」


 たまに会って今日のように過ごすだけかと思いきや、まさかの24時間体制。現役執事の計り知れないキャパシティに感心していると、天人あまとのポケットで篭った着信音が鳴る。

 鬱陶しそうにスマホを取り出し画面を見るなり、あからさまに不機嫌な溜め息をいた。


「もしかして、仕事の呼び出しとか…」


 怖々こわごわ尋ねる春来はるきの声でふと我に帰り、まだ不機嫌さの抜けきれない笑顔で肩をすくめる。

 メッセージの送信者は執事として天人あまとが仕える雇い主。詳しい内容は伏せていたが、直ぐに戻れとの指示と説明した。

 それならば早く戻るべきだと春来はるきは言う。その意見自体は正論なのだが、戻って主人のために働かねばならぬのだと考えただけで、八つ当たりに春来はるきを傷付けてしまいそうだった。


「夜、電話してもいいんだよな?特に俺から話題は無いんだけど。その…愚痴くらいなら、聞けると思うし。」


 春来はるきは何気無く掛けた言葉でも、受け取る方には思いのほかに嬉しく、すっかりテンションは回復。いったん仕舞ったスマホをもう一度取り出し片手で操作する。


「ありがとう。タクシーを呼ぶから乗るといいよ。お金は気にしなくていい、契約会社だからね。経費で落とせる。」


 雨は降り続き、ぶ厚い雲に覆われた空は既に夜と変わらない。長身の美女とも見紛う春来はるきの容姿では、本人に自覚が無い分一人で帰すのは危険との判断だった。


「経費って…。プライベートなのに駄目だろ普通。」


「いいんだよ。四六時中我が儘に付き合ってやってるんだから、これくらい…」


「マジでストレス溜まってんだな。」


 タクシーを二台手配し車が寄せられる側にまで移動しながら、二人で過ごした時間を振り返るだけで、天人あまとの胸には愛しさが込み上げてくる。

 衝動的にまた頭を撫でれば、心地よさげに目を細める春来はるき。その姿が、天人あまとの目には甘えたの犬っころのように映った。


「尻尾があれば、もっと…」


「は?」


 垂れた犬耳に、フワフワの尻尾を振り甘える春来はるきの姿。

 天人あまとの脳内はそんな妄想にまで至り、いつか実現するためのモチベーションも向上する。


「今日は本当にありがとう、とても楽しかったよ。」


「…俺も、いろいろありがと。」


 先に礼を言われてしまい、同じ台詞を返すのも気恥ずかしく気弱に告げた。

 タクシーに乗せられ見送られて、やがて天人あまとの姿が見えなくなると、何かが背中を押し潰すような感覚に襲われる。

 春来はるきが常に感じるこの重苦しい寂しさを一時でも紛らわしてくれたことに、もっと感謝すべきだったと思い返す。


「電話したいのは、本当は俺の方かもな…」


 呟きは雨音と車の走行音にかき消され―――


 天人あまとに渡されたメモをしっかりと握り締め、窓に当たる雨を憂い顔で見つめていた。

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