第19話 度胸と無謀と信頼を混同しないようにしよう
麻衣子の包丁を止めるだけなら簡単だ。しかし、俺がやるべきは、そんなことではない。
麻衣子の本音、心の叫びを吐き出させた上で黒影を祓わないといけない。
山崎の予想どおりならば、麻衣子の本音は『健くんのことが今でも好き』となる。
未だに信じきれないが、現状から考えると当たっているとしか思えない。果たして麻衣子は、俺に向かってそんなことを言えるだろうか。
「あの、危ないですよ。まずはそれをしまいませんか?」
「黙って」
普段よりも声を低くして、麻衣子は山崎の言葉を遮る。包丁を腰だめに構え、先端を山崎に向けた。
俺は慌てて、二人の間を遮った。正面に麻衣子、背中側に山崎という位置取りだ。
「健くん、どいて」
「いや、どけない」
「そうよね、若くて可愛いもんね」
「今は関係ないだろ」
「そうやって、またごまかすのね」
こうなってしまえば、口先の説得には意味がない。黒影の影響でまともな判断ができなくなっているからだ。
「山崎、念の為に魔法で守るからな。イラッとしても我慢しろよ」
「は、はい」
今日は魔法を使いすぎている。報告書地獄が目に浮かんだ。よし、助手に手伝わせよう。助手とはそうあるべきだ。
「麻衣子、目的はなんだ?」
「なにって?」
「それを、こっちに向けている理由だよ」
「健くんには関係ない。どいてくれればそれでいいから」
説得のためではなく、本音を引き出すための会話だ。普段の気の置けないやりとりが懐かしくなってしまう。
もしかしたら、そう感じていたのは俺だけだったかもしれない。麻衣子は、苦しみや後悔を抱えながら過ごしていたのではないだろうか。
「どいたら、どうするつもりだ?」
「お願い、健くんには嫌われたくないの」
言動が支離滅裂になっている。
黒影により歪められた欲求と自制心、そしてその奥にある本当の気持ち。それらがせめぎ合い、心を蝕む。様子を見る限り、麻衣子の精神は限界に近い。
ここまでくると、無理矢理に祓うことも視野入れなければならない。あくまでも最後の手段として。
「健司おじさん」
「なんだ?」
「私、魔法で守られてるんですよね?」
「うん」
「じゃあ、前に出ます」
「なに言ってるんだ? 危ないだろ」
背中越しに聞こえたのは、あまりにも無茶な提案だった。見えない障壁で守ってはいるが、完璧とは言えない。万が一ということもあるから、山崎を危険に晒すの避けたい。
「このままだと元カノさんは本心を言いませんよ。だから私が受け止めます」
「危険だろ」
「大丈夫ですよ。健司おじさんと健司おじさんの魔法を信じてますから」
「いや、だめだって」
「なにを話してるのよ!」
麻衣子は金切り声をあげる。この絶叫を聞いたのは二回目だった。思わず胸が締め付けられる気分になる。
「やっぱり、だめです。後で怒ってくださいね」
気を逸らしてしまった一瞬で、山崎は俺をすり抜け麻衣子に向かって走っていった。
「あら、いい子」
唇を吊り上げ、麻衣子は包丁を突き出した。
「山崎!」
山崎の背中で見えないが、ちょうど腹のあたりが狙われていた。自分の顔から血の気が引く感覚がした。
「ほら、大丈夫ですよ」
いつもと同じ、少し高くて甘い声。
それを聞いた俺は、足に力が入らなくなって、膝から崩れ落ちてしまいそうになった。
「なんで止まるのよ! なんで!」
「えっと、佐藤さん」
慌てふためく麻衣子を落ち着かせるように、山崎はその肩に手を置いて語り始めた。俺の位置から二人の顔は見えない。
「前も言いましたけど、私も健司おじさんのこと好きなんです」
「知ってるわよ! だから、邪魔なのよ!」
「私も同じですよ。佐藤さんが、元カノさんが邪魔です。それはもう、すっごく」
「なんでよ?」
「あなたは健司おじさんの過去をたくさん知っています。それは、今でもあの人の心に焼き付いているんです。私がいくら頑張っても、絶対に消すことはできないんですよ」
「じゃあ、あなたが消えなさいよ!」
麻衣子が山崎の頬を張ったように見える。その拍子に包丁が地面に落ちた。
当然、魔法で守られている山崎にはその平手打ちは届かない。
「なんなのよ! なんで、なんであなただけ!」
「私は幸運にも、あの人の近くにいられるからですよ」
「なら、私だって!」
「それがですね、あの人最悪なんです。自分への好意に鈍感過ぎるんです。ご存知でしょ?」
「そ、そうだけど……」
なんか、いつの間にか俺への誹謗中傷になっていないだろうか。
「だからあの人、気付いていませんよ」
「そんなはずは……」
「本当です。無視してたわけじゃなくて、なぁなぁにしてたわけじゃなくて、佐藤さんの気持ちに気付いていなかっただけなんです」
凄く酷いことを言われているのは、気のせいではないと思う。
「まぁ、そこも魅力のひとつではあります。なので私は気持ちを隠しません。健司おじさんが好きです」
「う……」
「佐藤さんは? このままだと私が口説き落としてしまいますよ」
「わ、私も……」
「私も?」
言いかけた麻衣子が山崎を押しのけた。ようやく立ち上がれた俺を、真っ直ぐに見つめている。
「健くんのことが好きなの!」
「うおっ」
ボサボサの髪、ラフな服装の元恋人が必死に叫んでいる。大きく開いた口から、黒いものが見え始めた。
しかし、完全に出てはこない。麻衣子の本心はまだ続くということだ。
「別れたことや他の人とお付き合いしたことを今でも後悔してる。秘密があってもいいから、寂しくても我慢するから、また私のことを見てほしい! 上の空でもいいから好きって言ってほしい!」
「麻衣子……」
あの日、麻衣子に寄り添えていたら、こんなことにはならなかったのだろうか。俺は魔法使いになんてならなくても特別だったのではないか。付き合っていた頃の笑顔が脳裏をよぎる。
でも、もう戻れない。
「麻衣子、ごめんな」
飛び出した黒影に、掌を向けた。
「消えろ」
俺は、副業で魔法使いをしているおじさんになってしまったから。
そして、もうひとつの理由は……。
「健司おじさんー、腰が抜けましたー」
「バカ、あとでお説教だ」
罰として報告書は丸投げにすることを決めた。
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