第86話 勇者とは
母上と孤児院組たちとの再会を喜び合い、私物が俺の部屋に運び込まれるのを見届けてから俺は父上の書斎に向かった。
「アル、やってくれたな……誤解を解くのに大変な思いをしたぞ」
「エルさんへの仕返しのつもりだったのですが、まさか父上に被弾するとは……ごめんなさい」
「…まぁいいだろう。……もうやるなよ?」
「はいっ!」
「はぁ、とりあえず座りなさい」
一応のお叱りを受けてからソファに座る。
沈み具合、革の肌触り、そのすべてが懐かしく感じられた。
「帰ってきましたねぇ」
「たかが2か月で大げさなやつだな」
「俺にとってはその2か月が長かったんです」
「そうか」
俺は今5歳と1か月。
人生の約3%を王都で過ごしたことになるので十分に長かったと言えるのだ。
いきなり本題に入ることはせず馬車移動の3週間のちょっとした出来事を父上に話していると侍女長のゼルマが紅茶を淹れてくれた。
「ありがとうゼルマ」
「若様、下々の者にそう易々と礼を言ってはいけません」
「わかってる、それでもだよ」
「…恐悦至極でございます」
ゼルマは髪の毛をお団子にした初老のおば様といった表現が似合う、なかなかに手厳しい人物だ。
でも侍女たちには慕われている。彼女が怒るときは必ず相手への思いやりがあるからな。現に俺も怒られたけど全然いやな感じはしない。
みんなの厳しいお母さんと言ったところだ。
そんなゼルマが退室し、再び父上と俺の二人になる。
お互い、淹れたての紅茶で唇を湿らせようやく本題に入る雰囲気が漂い始めた。
先に口を開いたのは父上だった。
「はじめに私がいち早く領地に戻ってきた原因を言ってしまおう」
「はい」
「―――アマネセル国が勇者召喚に成功した。我らヴァンティエールの壁を突破するためのものだと思われる。つまり私はアマネセルの野望を阻止すべく急ぎ戻った、ということだ」
(やっぱりいたのか、勇者)
―――『勇者』
その単語を父上から聞いた時。
俺は鼓動の高鳴りを確かに感じながらもどこか納得したような気持でいた。
転生者である俺がその勇者に限りなく近い存在だからだ。
転生者がいるのに転移者はいない、なんて都合のいいことは起こらない。
「…勇者、ですか」
「知らないか?」
「はい。少なくとも聞いたことはありませんし、本でも見たことがありませんね」
しかし、俺はすっ呆ける。
本で見たことがないのは事実だし、まず第一に俺が知っている勇者と父上の言う勇者が同じだという確証はどこにもないからな。
あぁ、勇者ねと言ってなぜ知ってると言われでもしたらどうする。
「あぁ、そうか。アルの手が届く範囲には置かれていなかったな。王都での会議の気分が抜けていないな…」
(あれ?)
前言撤回。あぁ、勇者ねって言っても何の問題もなかったな。
まぁいいや。とっとと勇者について聞いてしまおう。
「そうですか、お疲れ様です父上。で、『勇者』というのは何なのですか?父上の言い方的に相当に危険なものであると判断したのですが……」
「そうだな、伝承によると『勇者』というのはここ超大陸テラとは異なる世界に住んでいた者たちのことを指す。そして召喚された『勇者』たちは一人一人が非常に高い適正値を有している……らしい」
「らしい……ですか。曖昧ですね……」
「あくまでも伝承だからな……」
父上は頷き、紅茶を入れて一息つく。
そして「ただ…」と声色を少し変えた。
(緊張感が混ざったか?)
「曖昧な中にも確かなものはある」
「それは?」
「―――勇者召喚には1万の命が使われる、ということだ」
「……は?」
思いもよらぬまさかの言葉に間抜けな声が漏れる。
え、ちょっと何言ってるのかわからないんですけど。
一万?一十百千万の一万だよね?
それに命?
「父上、命と言いますと……」
「……人の命だ」
「そう、ですよね……ちなみに何故その部分だけはっきりとわかっているのですか?」
1万人が虐殺される―――。
与り知らぬところで起きたとしても大きなショックを受けるであろう事件が隣国で行われた。
その事実から目を背けるため、新たにできた少しの疑問に話題を変えた。
意表を突かれた父上もそちらに流れる。
「あぁ、それはな…アイゼンベルク城の地下に収められた王家秘蔵の書物の一つ、確か『創世記』といったか。その本に書かれているのだ――『万の命、捧げられる時、異界の門より強き光、顕現す』――と」
何だかより曖昧な代物が出てきたな。
というかなんで王家秘蔵の書物を父上は知っているんだ?
「……なんで父上が王家秘蔵の書物の内容知ってるんですか?忍び込みました?」
「馬鹿者、なぜそうなる。上位貴族の嫡男は人々の上に立つ者としての教養を身に着けるべくひと月の間だけアイゼンベルク城の地下にある書庫へ入ることを許されるのだ。その時絶対に読んでおくようにと言われた書物の中に『創世記』が入っている。ただそれだけだ。アル、お前もいずれ目に入れることになるだろう」
「へぇ~」
(上に立つ者としての教養、ね…)
ひと月で読める書物の数なんてたかが知れている。
王家秘蔵の書物がどれくらいあるか分からないけどアルトアイゼン王国は577年の歴史があるんだ。少ないってことはないと思う。
だから上に立つ者としての教養に必要な最低限の本を事前に知らされるのか。
(最も、それらが本当に王家にとっての秘蔵ではないと思うが……本当の秘蔵っていうのはそれこそ勇者召喚の具体的な方法とかだろ……はぁ)
なんて、勇者召喚とは全く別のことを考え逃げていたはずなのに結局、勇者関連のことに戻ってきてしまった俺。
ふざけたと思えば途端に項垂れる変な息子を見た父上が口を開く。
「……というよりアル。気にするところが違わないか?」
「気にしているから避けてたんですよ……。そりゃ思うところ大ありです。たかだか敵国の貴族家の一つを潰すために1万もの命を先払いするなんて正気の沙汰ではない」
アマネセルは長年のうちとの戦いの中で数えきれないほどの戦死者を出したに違いない。しかし、だからと言って1万の犠牲を軽んじるのは違うと思うんだよなぁ。
現実逃避を行って幾分かマシになった思考の中、俺は父上に思ったままのことを伝える。
「全くもってその通りだと私も考えている。しかし、それをアマネセル側に説いても仕方ない。奴らはすでに人の道を踏み外した」
「だからと言って攻め込むのも躊躇われる。相手には一万の犠牲を引き換えに召喚した未知の化け物がいるから」
「あぁ、その通りだ」
未知ってのは人の持つ好奇心をくすぐるものであると同時に人の恐怖心を刺激するものでもある。
ましてや今回の未知は一万もの犠牲と引き換えに召喚された異世界の化け物『勇者』―――。
下手に手を出すと取り返しのつかないことになりかねない。
「―――そこで、だ」
少々、いや、だいぶ陰鬱な雰囲気になった書斎の空気を打ち払うべく父上が比較的明るい声で切り出す。
「ヴァンティエールは王都より援軍を引き入れることにした」
「援軍、ですか……」
「―――奴らが化け物を差し向けてくるのならば、我々は同じ化け物で迎え撃つ」
「…化け物」
「―――あぁ……」
夕焼けが差し込む部屋の中、赤く染まった父上の顔はどこか楽しそうだった。
(うわぁ、戦闘狂だぁ……)
俺はまた父上の新しい顔を見た気がした。
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