第76話 紅の策士

「―――あら、お気に召さないようね」


 店の商品に対してマイナスな印象を抱いた俺を咎めるような発言だが、本当に咎めているわけではないように思える。

 フィリグラン伯爵の声色にいくら剣呑な雰囲気が混ざりこもうとも、伯爵の眼光は何かを探るような色をしていたからだ。

 この発言はほんわかした日常から貴族の会談へ移るためのきっかけでしかない。


(何を探られているのかわからない以上無難な返答しかできないなぁ)


『ショコラーデ』に対するマイナスな感情を持っていることがばれてしまった以上、手放しに褒めちぎるのはよろしくないので慎重に言葉を選ぶ。


「ええ、まぁ。口いっぱいに広がる甘みも鼻を通り抜ける香りも未だ経験したことないものです。まだ5年しか生きていませんけどね……ただ、何か足りない。そう思えてしまうのです」


 慎重な選定の結果、前半で『ショコラーデ』を称賛しながらも後半では曖昧な批評を入れた。

 批評が曖昧なのは馬鹿丁寧に伝える義理が存在しないから。発酵が上手くいっていないのか、焙煎が上手くいっていないのか、はたまたテンパリングが上手くいっていないのかがわからないからだ。

 地球の超一流パティシエならば『ショコラーデ』を食べた瞬間に何がどう足りないなどわかってしまうのだろうが、あいにく俺は普通の高校生だったから知るわけない。


(こんな感じの返答でよかったのだろうか……)


 内心では恐る恐る、外見は冷静沈着な面持ちで顔を上げ伯爵の様子をうかがう。





 ―――桃色の瞳が俺を見つめていた。





 その瞳にあるのは『疑い』





(おいおい、照れるじゃないか……)

 俺はすぐさま冗談を一つはさみ冷静を必死に保つ。


 表情を崩した瞬間持っていかれると感じたからだ。


「その何か、というのは?」


 伯爵は疑いの目を俺に向けたまま話しかけてくる。


「…そうですね、口当たりが少々悪いかと。ボソボソしていると言いますか…。もう少し滑らかになればより良いものになるかと。…それと鼻から抜ける香りにもう少し強い衝撃が加われば―――」


 ―――なぜ疑われているのかが分からない。

 ―――それでも何とか疑いを晴らさなければ。

 その思いが舌を滑らかにする。


「―――そのようにすればいいと思います…」

「そう、ありがとう。『タルトタタン』の生みの親であるアル君にはお菓子がそのように感じられているのね、参考になるわ」


 気が付けば『ショコラーデ』の何がいけなかったのかをすべて話していた。

 表情を取り繕い、なるべく冷静でいるように努めてこのざまだ。

 取り繕おうとしていなかったら伯爵から向けられた疑いを晴らすために地球の知識も喋っていたかもしれない。

 自分の口がまるで操られているかのように動いた。


(え……怖いんですけど……)


 ―――操られていた。

 その事実に戦慄し、操っていた本人を見る。


「ごめんなさいね、アル君」


 そこにはすでにフィリグラン伯爵から優しい美女に戻った申し訳なさそうにしているエルさんがいた。


(……やられた)


 先ほどまでの疑いの眼差しがただの演技であったことに遅ればせながら気づく。


(もういいや、今の俺じゃあこの人には逆立ちしたてかないっこない)


 俺の人生上初の貴族とのサシでの対談は終わった。

 それも惨敗という形で、だ。


 ここからは俗にいう感想戦に入ろうと思う。

 相手が準身内であるエルさんだからこそできるものだ。

 惨敗を喫してはいお仕舞ではない。

 惨敗の後が大切なのだ。

 模試の後の解き直しが重要なんだ!……ちなみにやったことない。


「えげつなくないですか……5歳児相手に、お菓子の味を改善するためだけに普通ここまでします?」


 思ったことをそのまま口に出す。

 ヴァンティエールの御曹司をコテンパンにしてまで得たい情報だったのか?と。

 俺の質問に対してエルさんは即答する。


「フィリグラン伯爵家にとってはお菓子の味一つがお家発展につながるのよ」


 語るエルさんの瞳は真剣そのものだった。


(これ演技だったら人間不信になりそうです)


 冗談はさておき、今エルさんが言ったことについて考え、数秒して「あぁ」と納得する。


 フィリグラン伯爵領は伯爵家の割には領土が狭いが国内外における影響力は絶大なもの誇る。そのうえ、軍事力――特に海軍力は王国の中でもトップレベルものだし、諜報力も一級品だ。

 そしてそれらすべてを支えるのは領都フィリグランの中で発展し世界最先端の域にまで昇華された菓子をはじめとする、フィリグラン料理や絵画、洋服などの芸術。


 つまり、芸術なくしてフィリグランは成り立たない。


 軍事力を、諜報力を育てた富は芸術によって流れ込んできたもの。


 影響力は芸術が流れ出したことによって得たもの。


 ここまで考えてみると『お菓子の味一つがお家発展につながる』というエルさんのセリフにも納得することができた。


「フィリグラン家を支える土台は芸術でしたね……勉強になります」

「今の発言だけで理解できたの?あなたこそ普通じゃないわよ。本当に子ども?」

「子供である前に貴族ですから、これくらいのことは分からないと」

「ああ言えばこう言うのね」

「それが貴族という生き物なのでは?―――まぁ、コテンパンにやられた後にいう言葉ではないですけど……。できればエルさんとの駆け引きに勝って言いたかった」

「負けたら事よ」

「違いないですね」


 すっかり冷えてしまった紅茶を体に流し込み、回転させた頭を休めるべくクーヘン・ショコラーデ《糖分》を口に運ぶ。


 身体に糖分が染み込む感覚の中、ふと思ったことを口に出した。


「―――ところで俺が吐いた情報は役に立つものでしたか?」

「もちろんよ」

「ならよかったです。俺の死は無駄じゃないってことが分かりました」

「死って……」


 自分の負けがエルさんみたいな美人さんの役に立ったと思えてしまった俺はおかしいだろうか。

 いや、むしろ男として正常じゃないか。


 糖分によって再び元気を取り戻した脳で余計なことを考えていると「―――あぁ、あと」と今度はエルさんがふと思い出したような声を上げた。


「?」


 なんだなんだと思った俺はくーへ……めんどくせぇ、チョコレートケーキの最後のひとかけらを口に含んでから顔を上げる。


 エルさんはまた申し訳なさそうな顔をしていた。


「さすがに私もやり過ぎたと思っているわ。それにこのままでは私にだけが利を得ることになってしまうの…。だから―――」

「こちら側も利を得ることでお相子にしましょう…と」

「そうよ、理解が早くて助かるわ」


 そんな顔をされてそんなことを言われたら理解もできるし、フルボッコにされたのも許せてしまう。

 というかエルさんは加減してくれたので許すも何もない。むしろ身ぐるみ全部剥がさなくてありがとうございます、と言いたいところだ。


「わかりました、話し合いをしましょう」

「助かるわ」


 どこからどう見ても優しいフィリグラン伯爵がヴァンティエールの鼻垂れ負け犬小僧に慈悲を与えているとしか思えないが俺は二つ返事でエルさんの提案を受け入れた。


 これが公の場であったならば「施しは受けん!」とか言って席を離れているとこだが、幸いなことにこの場には俺のダメなところをよく知るハッツェンとマリエルしかいない。失うものがない者は強いのだ。


 だから頷かない理由がない。

 目の前の利をミスミス逃すほど愚かになったつもりはない。


 それにこの提案は実際問題、俺に対しての申し訳なさからではなく俺の後ろにいるヴァンティエールへの恐怖から来たものだと思われる。

 もちろん、エルさんの俺に対する感情は本物だと信じているが、彼女は一人の人間である前に一人の貴族であるので損得で動くことは当たり前。


 だからこそ多少俺の方が得をできるような話し合いになると予想できる。

 やはり頷かない理由が全くなかった。


 話し合いに入る前、エルさんもが残りのチョコレートケーキを上品に食べている中、感想戦を締めくくる最後の質問を思いついたのでエルさんがハンカチで唇に付いたチョコを拭ったのを見てから話しかける。


「話に入る前にもう一つ聞きたいことがあるんですけどいいですか?」

「?……答えることのできる範囲でならいいけど」


 エルさんからの返答の後、一拍置いて質問した。


「エルさんが俺をここに呼び出した理由は『ショコラーデ』の欠点を俺に話させるためですか?」

「そうね」

「ではなぜ俺にメニューをオーダーさせたんですか?あれだけの品数の中から俺が『クーヘン・ショコラーデ』を選ぶ確率は低かったはずだ」


 そう、目的が『ショコラーデ』の欠点を俺に話させるということであれば、俺に『ショコラーデ』を食べさせなければならないのは当然のこと。

 であれば、なぜ俺に「はい、ショコラーデよ」と渡さず、代わりにメニューを渡してきたのだろう。

 今回は偶然俺が『クーヘン・ショコラーデ』を頼んだからいいものの、他のスイーツを選んだ場合はどうしたのだろうか。


(まさか、運頼み?……いやいやいや)


 脳裏をよぎる可能性に首を振り、再び考えようとしたとき。

 エルさんがクスリと笑った。


「あら、どうして『ショコラーデ』が『クーヘン・ショコラーデ』にしか入ってないなんて言えるのかしら」

「……まじか」


(てことはどの品にもチョコが入っていたのか……)


 まさかの答え。

 しかし、考えずとも浮かぶとてもシンプルなもの。

 視線にまで演技を入れてきた策士が使う手段とは思えない。


 どうやら俺は初めからエルさんの手のひらで踊らされていたらしい。

 策にはまらないためにはまず、初めにメニュー表の中身から疑わなければならなかったのだ。


(……無理)


 唖然とする俺をよそにタイミングを見計らって入室してきた従業員の女性がエルさんの前にカップを置く。


(――ん?)


 ふわりと香るこれまたどこか懐かしい芳醇な香りが俺の鼻孔をくすぐる。


「お待たせ致しました、『カフェー』でございます」

「ありがとう」


 エルさんはコップを持ち上げ香りを楽しむ途中、俺は同じ過ちを繰り返さないよう必死に動揺を抑えていた。


(勘弁してくれよ……)


 俺の鼓動とは真逆のゆったりとした動きで優雅にエルさんはカップに口を付け、カップを皿の上に戻す。

 カップの中には真っ黒な液体が入っていた。


 どう見てもコーヒー―――。


 コーヒー派の俺からしたら嬉しい再会であるはずなのだが、時と場所は選んでほしかった。よりにもよって今かよ…。


「動揺しているのバレているわよ」

「……」


(ほら見たことか……)


「……飲んだ後、歯の手入れしないと大変なことになりそうな飲み物ですね」

「ご忠告感謝するわ、ただその情報はすでに持っているの。あなたさえよければこの『カフェー』についてもっと詳しく教えて下さる?」

「……遠慮しておきます。」


(俺がこの人に勝てる日なんて来るのだろうか……)


 不安な気持ちを再び抱きながら、本日二度目の貴族同士の話し合いに臨んだ。

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