めぐる

高村 芳

めぐる

 僕は大きく産声をあげた。消毒液のような香りで、鼻がツンとする。わあ、と何人かの人があげた声と、カチャカチャと鳴る金属音を肌で感じた。眩しい光で埋め尽くされている部屋の中だった。


「よかったですねえ。元気な男の子ですよ」


 マスクをした男性の穏やかな声が頭上から降ってきた。その男性は僕の体を拭いてから、どこかに置いた。柔らかく温かな皮膚の下で、ドクン、ドクンと何かが脈打っているのがわかる。僕はどうやら、母親の胸の上にのせられているようだった。焼き切れてしまうのではないかと思うほど、心臓の鼓動は早かった。息切れした吐息の合間に、「かわいい」という声が漏れる。僕を抱いている母親は泣いているようだ。 


「産んでくれてありがとう」


 先ほどのマスクをした男性とは違う声も聞こえてきた。父親なのだろうか、その声は母親のものよりも震えている。僕が泣いている間も、「おめでとうございます」「おめでとうございます」と、両親に矢継ぎ早に声がかけられる。

 そこで、僕はハッとした。はまだだろうか? 泣き声が聞こえない。僕は呼んだ。来い、こっちだ。この世に生まれてこい。何度、かたわれを呼んだことだろうか。まだ名前がない、僕のかたわれ……。



 僕が初めてこの世に生まれたのは、もう二千年以上前のことだ。

 血でまみれた頬に熱い空気を感じ、先ほどまで僕が眠っていた温かな海とは違う場所に来たのだとわかった。暗く狭い場所で、人の気配がする。最初に聞こえたのは、しわがれた女性の声と、燃やされた枯れ木がパチ、と爆ぜる音だった。


「ラミル、よくやった。生まれたぞ」

「長老様……」


 息絶え絶えの女性のかすれた声があとに続いた。それは、僕の母親の声だったのだろう。葉で編まれた服を着た女性たちは、せわしなく母親の世話をしている。僕は枝のように細く、弾力のない腕に抱かれていた。長老様と呼ばれた老婆は、「おお、元気な赤子じゃ」と茶色いシミのある顔でこちらを覗き込んでいる。母親のそばで焚かれている火が老婆の濁った目に反射して、ギラギラと輝いていた。


「長老様!」


 別の女性に呼ばれた老婆は、僕を誰かに預けてすばやく母親の足元に移動した。老婆の目がたちまち光を失っていくと同時に、大きな溜息が聞こえた。


「……ラミルの腹の中にもう一人、子がおる」


 辺りの人間のざわめきが大きくなった。老婆は続ける。


「あとから生まれる子は、先に生まれた子よりも体が弱く、この世を生きていく力のない子じゃ。村の掟はわかっておるな、ラミル」


 僕は自分が双子なのだと知ったとき、カァっと体の奥が熱くなるのを感じた。この世に一人しかいない、自分のかたわれ。同じ血肉を分け合った、もう一人の僕。言葉を交わし合いたい。僕は全身の力をふりしぼって泣いた。早く、早く生まれてこい。早く会おう。この世界で、ともに生きよう。そうかたわれを励ました。

 しかし、母親を囲む人々の空気は瞬く間に重くなっていく。母親は肩で大きく息をしながら、両腕で顔を覆った。


「長老様、なんとかなりませんか。やっとカオニ神から授かった子なのです……」


 母親の唇から血の気が引いて真っ青になっていた。老婆の厳しい目が母親を見つめ返す。


「ならん。諦めなさい、ラミル。これは村の掟。誰もそれに抗うことはできぬ。あとから生まれる子は生きられぬ運命なのだ」


 ウゥ、と呻き声があがったあと、母親はもう一度いきみ始めた。別の女性が「生まれます」と叫ぶ。老婆が一瞬のうちに隣に座る女性に何か耳打ちすると、女性は静かに外に出ていった。

 母親の叫び声が狭い空間に響き渡った。老婆が皺だらけの手を母親の太ももの間に伸ばす。そうだ、早く生まれてこい、僕のかたわれ。僕は願った。

 大きな悲鳴と同時に、もう一つの瑞々しい泣き声が響き渡った。周囲の大人は、みんな押し黙っていた。母親は青い顔をしながら涙を流している。老婆はあとから生まれた僕のかたわれのへその緒を石刃で切り、何も言わずに抱きかかえたまま外に出た。パチパチと木が爆ぜる音に混じり、嗚咽が聞こえるだけだった。かたわれの声は、いつしか聞こえなくなっていた。


 そこから僕は、かたわれの姿を見ることはなかった。僕が生まれてから十数年が経ち、村で一人前の男だと認める儀式が催されたその日の夜。僕は母親に「一緒に生まれた僕のかたわれはどうなったのか?」と尋ねた。母親は蔓を編んで籠を作っていた手を止めた。一瞬、驚いた表情になったのを僕は見逃さなかった。母親はこちらを見ることなくふたたび籠を編み始め、「あなたに兄弟などいない。何の勘違いをしているの?」と言った。生まれたあの夜、かたわれの存在はなかったことにされたのだと知った。

 一人前の男となり、狩りに出た森の中で、僕は幾度となく考えた。なぜかたわれは死ななければなかったのか。僕がかたわれの後に生まれれば、僕が殺されていた。生まれた順番が後だっただけなのに、なぜかたわれはこの空の広さも、水の冷たさも、葉の瑞々しさも鳥のさえずりも知らずに死んでしまったのか……。

 僕は自分に誓った。今度こそ、かたわれと一緒に生きよう。俺が死に、鳥や虫に喰われ土に還り、またこの世に生まれ出るとき、かたわれの手を引いて生まれよう。そう心に決めた。何十年という時が過ぎ、僕は村長になった。村の民から慕われながらも、結局掟を変えることはできないまま、その生涯の幕を閉じた。



 それから千五百年もの年月が経った。僕は暗い温かな海にたゆたいながら、かたわれを探し続けていた。もがき続けた手を伸ばしたとき、誰かが自分の手を掴んだ。同時に目の前に広がった光の中に僕は飛び込んだ。掴んだ手は離さなかった。


「生まれた!」


 またしても、僕は先に生まれたようだ。今度は木造の家屋の中なのか、脂ののった木の柱の香りと湿った藁の匂いがする。アァと泣くと、無骨でたくましい手が僕の首と尻を支えた。


「ようやった、みつ。元気な男子や。近藤家のええ跡取りになる」


 どうやら父親らしいその男は、安堵した声色だった。僕の座らない首をおそるおそる抱えている。その手の愚直さに、僕は安心感を覚えた。


「ちょっと待ちぃ」


 老婆の太い声が聞こえると、騒がしかった周囲の声がしん、と静かになった。みつ、と呼ばれた母親らしき女性は「お義母様……?」と小さな声で問う。老婆はそれに答えず、チッと舌打ちをした。


畜生腹ちくしょうばらや」


 かたわれももうすぐ生まれようとしている。僕はかたわれを呼んだ。今世こそは、ともに生きよう。早く生まれ出てこい。力いっぱい泣き叫んだ。

 家じゅうに、僕とは別の、少し弱々しい泣き声が響き渡った。やった。僕は応えるようにもう一度大きく泣いた。


「女子や」


 老婆の声は低められていた。父親らしい男は、「そうですか」と小さな声を絞り出していた。母親は声にならない声で嗚咽をもらしている。僕は喜んでいた。今世は妹のようだ。隣に寝かされた妹の手を、僕は力強く掴んだ。燃えるように熱かった。今世は自分のかたわれとともに、生きていくことができる。そんな喜びに満ちあふれていたのは束の間のことだった。

 妹は生まれてまもなく、まだ目も開かないうちに知らない家の人間に連れて行かれることになった。妹はふっくりとした頬を真っ赤にして、泣き叫んでいた。母親と父親は、その小さな体を抱き寄せて、「ごめんな」としか言わなかった。僕は母親の腕の中で何もできなかった。涙が止まらない母親の肩を、父親が力強く支えている。祖母は妹が連れて行かれるのを見送りながら、


「これで近藤家は安泰や」


と言い放って、早々に家に引き返してしまった。これが、かたわれとの今世での別れだった。


 それからも僕はその家で暮らした。幼い頃、たまに真夜中に目が覚めると、母親が布団の中で静かに泣いていた。僕は両親に大切に育てられ、青年になった。畑を耕し作物を育て、日々を生きた。

 ある日、どこかの村で生まれた双子のかたわれを、隣の家の夫婦が引き取ったという話を聞いた。村で一番の噂好きの長兵衛ちょうべえが僕に教えてくれたのだ。


「なんで双子は別の家にもらわれていくんやろか?」


 僕が長兵衛に聞くと、長兵衛はにやりと口角をひきあげながらこっそりと耳打ちしてくれた。


「知らんのか? 双子で生まれた男と女は、前世で心中して、今世で一緒になろうとした人間なんやて。やから家に災いがおこるいうて、だいたい女の方をどこかの家で代わりに育ててもらうんや。母親のことを『畜生腹ちくしょうばら』言うらしいわ。犬みたいに、何人も腹に抱えるからなんやて」


 大きな腹を抱えるようなしぐさをして、くひひひ、と長兵衛は下品に笑った。僕は「そうなんか」とだけ答えて、用事があるからと嘘を吐いて家路についた。僕は稲が植わった夕方の田んぼの畦道あぜみちを歩きながら、生まれた日のかたわれの手の熱を思い出して涙をこぼした。


 僕はもうその頃には、自分が人とは違うことに気づいていた。千五百年前に生まれたときの記憶があった。今世に生まれてからの記憶も鮮明だった。少なくとも今まで出会った人たちの中には、僕と同じように前世の記憶をもつ人間はいなかった。千五百年前、すぐに存在を無き者にされたかたわれは、僕と同じように意識があったのだろうか? もしそうなら、かたわれは殺されるとき、どんな気持ちだったんだろう。先に生まれたというだけで、殺されずに生涯をまっとうした僕のことを恨んでいたのではないか。「なぜ、生まれた順番で生き死にが変わるのだ。自分が先に生まれていたら。男に生まれていたら」と、かたわれはそう思ったに違いない。今世で生き別れたかたわれは、千五百年前からの記憶はあるのだろうか。かたわれは、僕とともに生きたいと思ってくれているのだろうか。かたわれと言葉を交わし合う前に生き別れてしまった僕に、確かめる術はなかった。


 今世も僕は、生をまっとうした。心の片隅には、いつも自分のかたわれの存在があった。そして僕は死に、燃やされ灰となり、温かな海に戻って延々と泳ぎ巡った。僕の体と意識は海に溶けきっているはずなのに、喉が痛むと錯覚するほどに自分のかたわれを呼んだ。どこにいる。手を伸ばして、かたわれの熱い手を探す。ともに生まれ、幸せになろう。



 そうしている間に、五百年が経った。突然、僕の手に熱を感じた。これはあの熱だ。五百年前に一度離してしまった、かたわれの手だ。僕は強い力に引っ張られた。海が渦巻き、光に吸い込まれていく。この手は、この手だけ離すまい。そこで僕の意識は途切れた。まばゆい強烈な光が、僕らを包み込んだ。


 僕は三度、この世に生まれ出た。

 僕は大きく産声をあげた。消毒液のような香りで、鼻がツンとする。わあ、と何人かの人があげた声と、カチャカチャと鳴る金属音を肌で感じた。眩しい光で埋め尽くされている部屋の中だった。


「よかったですねえ。元気な男の子ですよ」


 マスクをした男性の穏やかな声が頭上から降ってきた。その男性は僕の体を拭いてから、どこかに置いた。柔らかく温かな皮膚の下で、ドクン、ドクンと何かが脈打っているのがわかる。僕はどうやら、母親の胸の上に乗せられているようだった。焼き切れてしまうのではないかと思うほど、心臓の鼓動は早かった。息切れした吐息の合間に、「かわいい」という声が漏れていた。僕を抱いている母親は泣いているようだ。 


「産んでくれてありがとう」


 先ほどのマスクをした男性とは違う声も聞こえてきた。父親なのだろうか、その声は母親のものよりも震えている。僕が泣いている間も、「おめでとうございます」「おめでとうございます」と、両親に矢継ぎ早に声がかけられる。

 そこで、僕はハッとした。かたわれはまだだろうか? 泣き声が聞こえない。僕は呼んだ。来い、こっちだ。この世に生まれてこい。何度、かたわれを呼んだことだろうか。まだ名前がない、僕のかたわれ……。


 待てども待てども、僕のあとに生まれてくる赤ん坊はいなかった。僕は体を洗われ、柔らかな布にくるまれて温かなベッドに置かれた。そのとき、僕は気づいた。ああ、今度はかたわれと離ればなれになってしまったんだ。僕はかたわれの熱い手を離してしまったんだ。もうかたわれとともに生きることはできない。僕は泣いた。泣いて泣いて、かたわれを呼んだ。


 そのとき、隣から大きな泣き声が聞こえ、僕の手がぎゅっと掴まれた。熱い、熱い手だった。この熱い手は……。

 正面に据え付けられた大きな窓の向こうから、寄り添い合う男女が僕たちの方を覗きこんでいる。両親だった。僕にも、ささやきあうふたりの会話が聞こえてきた。


「本当に痛くて死ぬかと思ったけど。ふたりとも、可愛いね」

「あとから生まれてくる子が遅かったから、僕は横で見ててハラハラしたよ」

「おなかの中で、何か待ってたのかな? そんな気がしたわ」


 女性は少し涙ぐんだ顔で、僕たちを見つめていた。僕は隣を見る。まだはっきりとは見えないが、そこには僕そっくりのかたわれがいた。今世は、僕の方があとに産まれてきていたのか。てっきり僕のあとにかたわれが生まれてくると思って、あの海の中でずっとかたわれを待ってしまっていたんだ。繋がれた手の熱を確かめようと、僕は力を込めた。同じように手が握り返され、僕は涙を流した。今度こそ、ともに生きよう。そう話しかけた。


「そういえば、名前は決まった? 顔を見れば思いつく、って言ってたけど」


 ガラスの向こうの父親が問うと、母親は微笑んで答えた。「いい名前だね」と父親は賛成する。僕はそれを聞き、たった今、母親によってつけられたかたわれの名前を心の中で呼んだ。


『めぐる』


 かたわれの小さな唇が、微笑んだように弧を描いた。




   了

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めぐる 高村 芳 @yo4_taka6ra

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