昆虫標本士と焦燥の労働者
ドストレートエフスキー
第1話
【昆虫標本士と焦燥の労働者】
■
私は微睡の中にあり
上空から均一に細い銀のピンが私を貫いた
大きな手が暗闇の上に厚い雲のようにうごめいては音もなく静かに見え隠れする
分厚く、大きな手なので圧迫感はあるけれど、不思議と安心感がある
全身が麻酔によって浸されているので痛みはない
外骨格の私を潰し壊すことなくきれいに穴をあけるその指使いは繊細で
まるで手練れの時計職人のように無駄がなく静かだった
ピンを差すときは、私の皮膚が一瞬凹んで穴が開く
動作は柔らかく、身体をつぶさないように、プツ、と皮膚が破れるまではゆっくりと丁寧に、
しかし破れてからは隙を与えずに瞬く間に貫く
その動作は一度で1秒にも満たないが心地よくすら感じ、
私は薄れゆく脳裏の奥でその動作をプツ、プツ、という節奏のように感じ、ゆっくりした鼓動のように繰り返して聞いていた
まずは腹、そして臀部、遡って胸、そして私の顔の真ん中に容赦なくピンは差し込まれた
クシャクシャと私の顔の骨が柔らかくつぶれて最後のピンが通るとプツ、という一定の節奏は止まった。
痛みはなく、腹から下の内臓は抜き取られ、肋骨に残った肺と心臓がまだ微弱に動くことで腐らずにいる私は、
胴を四本ものピンでとめられてしまえば、動けなかった
四肢は動いたが麻酔により緩慢で心地よく 動かす気も起きず、
私は仕方なく目を閉じて眠ることにした
…
私はこの日何もせずに眠ることに罪悪感を感じ、誰かの圧倒的な力による加害によって、眠らざるを得ない状況になりたかった。
だから私は私を眠らせるために昆虫標本士にピンで穴だらけにさせた。
何もしたくない。何も考えたくない。
まだすべきことを成し遂げていない、でも誰にも望まれてもいない。
それでも私には私にしか成しえないそれがある、一度でも証明さえできれば、あんなものには…それを思うと悔しい。
それなのに身体だけ年老いていく。
動かねばと思ったが、
だとしても焼け付いた胃を痛めながら電源を入れることが苦痛でただ机に座るだけだった。
ただ電源を入れることが苦痛なのだ。
指が電源まで伸びて、それが誰かにとても嫌なことを言われた時のように、ピタ、と萎えて止まる。
何と言われたのかはわからない。
せめて何か言われていれば抵抗できるのに、
感じるのは何か嫌なものだけだった。
そのまま、電源を付けずに椅子にもたれかかり目を見開く。
他の何かやりたい遊びもせず、ただ勉強する時間なので今は遊ぶなと叱られたが何もわからないので遊びも勉強もできない子供のように何もせずに、
せめて、息がうるさくないように、おとなしく息をひそめた。
そのあと、耐えるように目を閉じ、時間が過ぎるのを待つ。
ああ、被害者面でいつまでも誰かのせいであろうとする己の厚かましさに腹が立つ。
自分が寝たいのであれば昆虫標本士のせいなんかにせず自分の怠惰と欲望によって寝てしまったほうがマシなのである。
私は目を見開いて跳ね起きた。
穴が広がるのも構わず頭と胸のピンごと引き抜いて跳び起き、体中の何一つ痛みを感じさせないピンをすべて引っこ抜いてその辺にかなぐり捨てて、
そのままばたりと倒れ、
まだ窓に日の差し込む夕暮れの部屋で眠った。
私の影法師は真っ黒で、横目に眺める窓の外は紫と赤の光で埋め尽くされてゆっくりと横に流れ絵画のようで美しいと思った。
でもその美しさはありふれていて誰の役にも立たない。
幾度人々はこの空に感動し、絵や詩文に書き連ねたのか。
こう思ったこともすべて無駄。誰にも伝えられることもない何かだ。
なんて無駄なんだろう。こんな繰り返しはもう皆飽ききっている。
こんなものに感傷を持つ暇など私にはなかった。時間がない。
誰かがきっとこの文章を見て「ありふれた美しさを感じる感性を失うのは悲しいこと」だとしたり顔で語っても、
それは楽な手術のわりに高額の支払いを要求できる病理の病人を見つけた医者のようなもので、
他人の不幸を見つけて喜びの紅潮を隠し切れずに興奮しながら悲しげに振る舞い、自分の徳の高さを見せる飾りにしたいだけの何かだと私は知っている。
それを指摘すれば被害妄想だのといわれて抽象的な助言を簡単に言う割にやけに具体的に自分の善性を根気強く主張されるのが面倒なので言わない。
皆自分のことだけ見てもらいたがる。
相談に乗りたがる人間から役に立つ言葉が出たためしはない。
皆、自分が楽にできることで誰かに恩を着せたいだけだ。
少なくともこの生活を終わらせる役には立たない。
誰かに見せるための当人のための同情に利用されるだけ。
私なら恥ずかしくてそんな使い古した言葉は書かない。
昔、私も誰かに無責任に美しい言葉を語ったことがあるのをまた思い出すから。
誰でもいえるような使い古された言葉を言うための出汁にされるくらいなら、
永久に胸に秘めて口にもせず、今日のことも絵にも描かかない。
私はこの美しさを他人には伝えまい。
なんて無駄な私だけの美しい空、貴方は何も救わない。
再び微睡んで目を瞑ると、窓の外の鮮やかな抽象絵画は色を変えて四方を囲み、そのまま静かに部屋は暗く沈んでいった。
脳裏には緩慢な動きの雲がずっとたなびいている。
…黄昏も過ぎて周囲が見えなくなるほど暗くなってから目を開くと、
元のつまらない暗いだけの部屋にいた。
結局、目を瞑って微睡むだけで一睡もできなかった自分に気が付き、
盛大にため息をついて、
あのまま全身麻酔の微睡の中で昆虫標本になればよかったのに、と後悔した。
たなびく雲の壮大さとは対照的に、カッチ、カッチ、カッチ、カッチ…と際限なく時計の音が響く。時計の音はピンの刺すような丁寧なリズムとは違って武骨で、つまらない人間の動きを急かすように愛想がなかった。同じ一定の節奏なのにも関わらず、なぜこうも不快なのか。「貴方は物語を紡ぐ人間ではなくて、私に急かされてつまらないものを作る労働者なの。美しさとは縁のない人間でしょう、まだ寝るには早いのに、目を覚ましなさい。夢なんて見るんじゃないのよ…貴方には必要ないの」
黒縁がシアターのように際立って一つのミュージアムの一室のように広く流れる雲は消えており、
時計の音がいつもの現実感を呼び戻すように嫌らしく鳴っている。
今見たものは誰にも伝わることはないし、貴方の感じたものにだあれも興味がない…という絶望を、時計の音が教えてくれる。
口元はべたつき、カラカラに乾いた喉、胃液が全身を疲弊させているように重く、鉛のよう。
起き上がると全身がぐったりとしていること徐々に気がついていく。
じんわりとではあるが、突き刺さるようにしっかりと疲労を自覚する羽目になった。
寝ても身体が休まらないのであれば、いっそ、このまま起きなければ身体の重さに気が付かずに済んだのだろうか。
あの時、おとなしく昆虫標本になっていれば。
私は起きて仕事の続きに戻った。
…そうだ、今度、また機会があるなら昆虫標本になろう。
昆虫標本士と焦燥の労働者 ドストレートエフスキー @Qandemic
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