第5話 長月(二)

(1)


 帝都での短い学生時代、学友たちの付き合いで吉原へ連れて行かれたことがある。

 だから、女を抱いた経験は何度かあるにはある。だが、こんな程度かという褪めた感慨しか持てなかった。

 幼い頃から男と女の駆け引きを否が応でも目撃してきた弊害かもしれない。体力の無さも関係してか、相当に淡白だ。同じ年代の若者が性欲を持て余す様を愚かだと見下げつつ、気の毒だとも思っていた。


 それなのに、どうしたことか。

 この女との交わりは今までの欲の薄さが嘘のように燃え立ってしまっていた。


 辻君とはいえ相手は妊婦。本来は抱くことさえ遠慮せねばならぬのに、飢えた獣のように貪ってしまった。当然、すべての事が終わった後、ひどく罪悪感に駆られた。


「ええねん。激しゅうされた方がこの子たちも喜ぶさかい」


 さざ波に揺れる舟上、女ははだけた着物から覗く膨らんだ腹を大事そうに撫でた。

 にしても誰の子なのか。辻君をやっているくらいだ。普通に考えれば、客の誰かとの間にできてしまったと考えるのが妥当だろう。しかし、それなら大事そうにするだろうか??


「嫌やわぁ、ここではむつかしい顔しいひんで??」


 女は涼次郎の、まだ整えきれてない長着の襟に手を伸ばし、白魚の手でささっと直す。女はいつの間にかきっちりと着物を着こみ、頭巾すら被っていた。


「おおきに。今夜はもう帰っとくれやす」


 親しみを込めた笑顔とは裏腹に、投げかけられた言葉はひどく素っ気ない。

 戸惑いと共に、ついさっきまで熱を帯びていた肌が急速に冷めていく。


「今なら誰にも見つからしまへん。さ、はよう」


 柔らかくも強引な手で身体を押される。名残惜しい気持ちを抱えながら(そんな風に思うこと自体驚きだ)、仕方なく舟を降りていく。

 女は舟の縁から顔を出し、青年に楚々と頭を下げた。殊勝な態度ではあるが、決して自らは舟を降りようとしない。寂しいような、ほっとするような──、とにかく、踵を返したくなる前にと、思い切って女に背を向けた。




(2)


 不在を誰かに気づかれやしないか。

 戦々恐々としながら、いざ帰宅してみれば、不思議なことに誰一人として涼次郎の不在に気づいていなかった。安堵と共にそのまま布団に倒れ込み、泥のように深く眠る。

 これもまた不思議なことだが、女と会う直前まで頻繁に咳込んでいたのに、女と密会中も、帰路の道中も、眠る間も咳一つ出なかった。なので、涼次郎は久しぶりの安眠を貪った。

 だから、誰かの呼びかけで目を覚ました時にはとっくに昼を回っていた。


「涼次郎はん……、涼次郎はん!」

「うわっ?!な、流瑠……??」


 枕元に座り、顔を覗き込んでくる流瑠に面食らう。面食らいすぎて布団の中で硬直する。


「……流瑠。お天道様の下、明るい昼日中、若い男の部屋に無断で入る、しかも二人きり。婦女子としてどうかと思うんやけど」


 両親、特に隆一郎に見つかったら。自分はともかく流瑠が何らかの懲罰を受けやしないか、心配だ。


「あらいやねぇ。ちゃあんとお内儀はんと若はんから許可いただきましたっ」


 すかさず強気に言い返され、それもそれでどうなんだ……と頭痛がしてきた。どうせ自分は男であって男じゃないくらいに思ってるに違いない。もちろん襲う気など微塵にもないけれど。


 流瑠は立ち上がると障子戸を開け、外の廊下に置いた何か、丸い形の硝子金魚鉢を抱えて再び部屋へ入ってきた。金魚とあれば、と涼次郎も眠気と怠さを押して起き上がる。


「涼次郎はん!お願いあるんどす!」

「お願い??」


 言葉と同時に突き出された金魚鉢には、白地に赤と黒が混ざった三色琉金一尾。


「君がこの間買った金魚??これが何か??」

「実は……」


 気まずそうな流瑠曰く、番で飼ってみたものの相性が悪く、雌の方がこの雄をつつき回すのでだんだん可哀相になってきたと。


「で、僕に引き取ってくれ、と」


 目立った怪我こそしていないが、雄にしては身体が小さく、性格もおとなしそうだ。


「引き取るのは別にかまへんけど……。そや!試しに更紗と顔合わさしてみよか。ちょうど婿はん用意したろか思うとったし」


 ただし、単独飼いに慣れた金魚の場合、いきなり仲間を増やすと急激に弱って死ぬことがままある。硝子越しの対面でも怯えたり、逆に攻撃的な態度を取るならば同じ鉢で飼うのは避けた方がいい。

 なので、とりあえずは金魚鉢越しに対面させてみることにした。


 本当に繊細な性格の金魚だと硝子越しに顔合わせるだけで死んでしまうと聞く。

 余程でない限り、そこまで極端な反応は起きないだろうが……、と内心不安がりながら、更紗と流瑠の金魚を対面させる。


 紅白斑と三色の金魚が互いを警戒し、硝子越しに左右を行ったりきたり。互いに向けて威嚇するように硝子を突き始めた。

 やがて二尾は硝子を突くのをやめ、観察し合うようにしばらくの間慎重に睨み合い、そのうち興味津々に互いに近づこうとし始めた。いけるかもしれない。


「よかったなぁ。意外なところで婿はん見つかって」


 にこにこと破顔する涼次郎を尻目に、更紗は一瞬だけ、以前より膨らんだ身体をぷいっと涼次郎から背けた。




 雄を同じ金魚鉢に移してから僅か三日の後。金魚の卵が水草にくっついていた。

 卵を水草ごと別の鉢へ移し替えながら、涼次郎に先を生きる気持ちがわずかに芽生えた。

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