第4話 長月(一)

 鴨川沿いをひとり、あてもなく歩く。納涼目的で大勢人が集まる四条大橋は避け、人気の少なそうな柳の歩道を歩く。対岸では川沿いに料亭などの納涼床が連なり、遠目でもその賑わいが確認できた。


 心地よい夜風に当たっていると身の内の淀んだ澱が溶けていく。

 静寂など無縁の廓に籠りきり。色と欲が入り乱れる世界は、傍観しているだけでも窒息しそうだ。

 それに、今夜からしばらく夜は部屋にいたくない。いつ隆一郎に呼び出され、廓の手伝いをさせられるかわかったもんじゃない。


 金魚たちを鴨川に流す、というのはただの脅しだ。実行しようものなら、父母が必死に止めるだろう。自分から金魚を奪ったら最後、何も残らない。

 何も残らないなら、いっそ──、涼次郎の不穏な内心をおそらく父母は嗅ぎ取っている。不肖の息子とはいえ、身内が自死したとなれば店の評判が落ちる。兄だって阿呆ではないし、いずれ父母が自分を庇う理由が分かってくるだろう。


 でも、生き恥晒してまで自分は生き永らえたいか??

 是とも非とも答え難い。


 風が一段と涼しくなり、ごほ、と軽い咳がひとつ、ふたつ、飛び出す。まだ大丈夫だし、まだ戻りたくない。

 一旦立ち止まり、長着の袂の下、詰襟シャツのポケットから丸いブリキ缶を出し、蓋を開ける。帝都時代から愛用するのど飴で多少は咳を抑えられる。飴を口に放り込み、再び歩き出す。


 道を彷徨う今このときだけは何者でもなくなる。

 やがて姿さえ闇に溶け、影も消えてしまえば。


 歩き出した筈が再び立ち止まっていた。柳の枝葉の影に隠れ、闇と同化する水面を虚ろに眺める。


 誰かが後ろから突き落としてくれればいい。それとも自ら身投げするか。

 川底から幽霊なりが出てきて引きずり込んでくれたってかまわない。


 脳裏を過ぎるくだらない妄想から我に返り、頭を振る。が、すぐに兄が昼間吐いた捨て台詞を思い出し、涼次郎をひどく打ちのめした。

 好きで大学を辞めた訳じゃない。喘息が悪化さえしなければ、金魚の研究者になるべく学問に身を投じられたのに。かといって廓の手伝いなど死んでもご免だ。


 昔から自分の家が嫌いだった。金儲けにしか興味のない両親も、虚弱体質な自分を見下す兄も、したたかで白粉臭い娼妓たちも。

 唯一の慰めは幼い頃から飼い続ける金魚たちだけ。

 彼ら彼女らは美しい。優雅に泳ぐ姿だけでも尊く美しいのに、自らが美しいという自覚を一切持たない。一切の打算を持たない無自覚の美。無防備の美。無垢の美──


 愛おしい金魚たちに思いを馳せれば、気分が少しずつ浮上していく。だが、気分の高揚と共に、ヒュッと肺の奥深くから咳が飛び出た。今度はなかなか治まらない。

 柳の幹に片手をつき、盛大な咳を繰り返す。何度もおえっとえづき、呼吸も荒くなっていく。

 涙目になりながら、もう一度のど飴を出し、乱暴に蓋を開ける。勢い余って何粒か地面に落としつつ、二、三粒いっぺんに口へ放り込む。


 柳に両手をついたまま、咳が止まるのをひたすら待つ。

 咳が止まった後もすっかり上がってしまった息を整える。


「……帰るか」


 余り長居しても身体に障る。

 勝手に抜け出したあげく外で倒れたりしたら、家族は二度と一人で外出させてくれないだろう。

 外では生きていけない癖に曙屋で生きることに不満を抱える──、単なる我儘だ。分かりきっている。


 柳についた両手を離し、俯いていた顔をようやく上げる。視界の先には真っ黒に染まった鴨川。

 かつて河原が処刑場でもあったためか、鴨川には怨霊が跋扈する、などとまことしやかに囁かれている。涼次郎が進む先は特に曰く多き三条河原方面だった。


 ぴしゃり!

 遠くからでも何かが、たぶん魚だろうが……、水面を跳ねる音が聴こえてきた。

 普通なら恐ろしくなり、踵を返したくなるだろう。だが、涼次郎は不思議と恐ろしさを全く感じないどころか、吸い寄せられるかのように土手を降りていく。


「舟??」


 土手を降り、河岸に近づいてきて初めて気づく。朽ちかけた屋根付きの舟が岸辺に停泊していた。

 人がひとりふたり乗れる程度の小ぶりな舟だが、暗闇に隠れていたとはいえ気づけないほど小さくもない。

 ここにきてやっと、涼次郎は言い知れぬ気味の悪さを覚えた。


「もし」


 踵を返しかけた涼次郎の背に声がかかる。

 氷で撫でられるような寒気を感じ、そのまま無視して立ち去りたかった。しかし、その意思に反し、身体は勝手に振り返る。

 振り返った次の瞬間、安堵と共になぜだか落胆を覚えた。舟のへりから顔を覗かせたのは頭巾を被った若い女だった。


辻君京の街娼か。悪いけど金目の物はなんにも持ってへん」

「そうどすかぁ。そら残念やわぁ。あんさんええ男やさかい。つけでもかまへんで??」


 厚かましい辻君だ。年増か醜女か病気持ちのどれかの癖に。

 などと鼻白む一方、どんな顔をしているのか見てやろうと好奇心が擡げた。まともに見る気のなかった筈の女の顔を改めてじっくり見据えてみる。女はちょうど頭巾を外す最中だった。


 細面にまっすぐで細い眉、流線を描くようにスッとした切れ長の目だが冷淡さは感じられない。

 眦に乗せた朱も相まって仇っぽくはあるが鼻につく程ではない。口角が上がったおちょぼ口は愛嬌がある。そして自分より年若そうに見える。年の頃は二十前後か。


 ちらと何気に冷めた目で全身を値踏みしていると、女が舟から降りてきた。腹部が少し膨らんでいる。思わず腹を凝視する涼次郎に女はあぁ、と軽く笑んだ。


「うちに亭主なんかいてはらへん。ほんまやで??腹の子は誰の子でもあらしまへん」


 女は再び涼次郎に笑む。まるで餌を欲しがる金魚のように。

 女はくるりと涼次郎に背を向け、再び舟へ上がっていく。

 その華奢な背中を黙って見送り、自分は反対歩行へ進み、帰ればよかったのに。


 涼次郎の足は勝手に女の後に続き、勝手に舟の方へ向かっていた。

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