第2話 文月(ニ)

 母に駄賃をもらい、外へ出る。

 どんぶり鉢ではなく手桶を持って出てきたら、流瑠に笑われてしまった。

 

「金魚ぉ、またたくさん増やす気どすか??」

「大は小を兼ねるやろ??」

「そうやけど……、重ない??」

「重ないよ」


 などと恰好をつけてみたが、まぁまぁ重い。でも眼鏡にかなう金魚が一尾だけとも限らない。

 店と同じ通りのどこかにいるだろう金魚売りを探し、声が聴こえる方向へ向かって歩く。


 新しい金魚はどこで飼おう。

 数尾買ったなら庭の池へ放そう。二尾以下なら空いてる曲げわっぱの金魚鉢へ入れよう。

 曲げわっぱで飼うならつがいがいい──


「……はん。涼次郎はん!」


 歩きながら、小ぶりの金魚が二尾寄り添って泳ぐ想像に胸躍らせていたのに!

 一気に現実に引き戻された。目線より少し低い位置からの呼びかけに舌を打ちかける。

 別に、いちいちこちらの様子など気にしてくれなくてもいい。気遣いとお節介は紙一重。少なくとも今の自分にとってはお節介一択だ。軽く頭を振りかけ、動きを止める。


 八坂神社西門前のこの通りは涼次郎たちと同じく揚屋や置屋のおんなたち、若衆などが大勢出歩いている。

 帝都の吉原とは違い、例えば島原の娼妓は島原大門の門番にさえ渡せば、ある程度の自由行動を許されている。馴染み客と同伴旅行で店を開けることも可能。

 政府公認色街である島原以上に、花街かつ非公認色街のここ祇園の娼妓は更に自由が利く。最も、厳密に言えば祇園に娼妓は存在しない。祇園にいるのは主に芸妓、中には芸妓と娼妓を兼ねる者も数多い。

 父母が営む『曙屋』も例に漏れず。料亭(貸座敷つき)を兼ねた芸妓の置屋に見せかけて、その実立派な遊郭だ。


『阿漕でせこい商売』


 曙屋と似たような店は他にもある、あるのだが──、曙屋は特に売れているせいか、合法的に商売する置屋からは大層嫌われている。涼次郎含む楼主家族も嫌われがちだ。売春せず、芸一つで身を立てるまともな芸妓にとって鼻持ちならないに決まっている。含みを持たせた視線くらい突きつけられるのも道理、と頭では理解している。頭だけでなら。


 ほら、様々な意味合いを含む、主に嫌な方の──、視線がちらり。あちこちから、ちらり。ちらり、ちらちら。

 針の先で突くような、大して痛くもないが、ただただ不快な視線が投げかけられる。

 父母や兄は柳に風と受け流し、いっそ堂々としている。涼次郎はいい加減慣れていい筈なのに、この視線にちっとも慣れやしない。この視線から逃げたくて、この界隈から離れたくて、京都でも大阪でもなく東京府の大学へ進学した筈なのに。


 なのに、自分は元居た場所へ帰ってきてしまった。


 喉が、肺が苦しくて堪らない。

 水中の酸素が足りず、鼻上げ呼吸する金魚みたいだ。

 ひゅっと気道が狭くなり、咳が飛び出しかけ──、止まった。


「いたいた!涼次郎はん、金魚売りいた!」


 突然、流瑠が長着の袖を引っ張り、道の前方を指差した。少し節は太いが真っ白な指先が示すは、地面に置かれた天秤桶と金魚売り、桶を囲む婦女子と子供たち。


「うちらも行きましょ」

「あ、ちょい……」


 袖をぐいぐい引っ張られ、呆気に取られつつ涼次郎は桶の側へ。

 今年の春に生まれたと思われる金魚が桶の中、所狭しとひらひら泳ぐ。かと思えば、人の声や動きに、特に幼い子供のはしゃぎ声、桶を揺らす動作などに驚き、ぴしゃっ!と水面を勢いよく跳ねる。

 どうして女子供というのは落ち着きがないのか。金魚は静かな環境を好む。こんなに騒がしくてはいくら丈夫な金魚でも瞬く間に弱ってしまう。

 だいたいこの金魚売りときたら、長手和金等フナ型体型丸手琉金等丸形体型を同じ桶で泳がせているのも気に入らない。泳ぎの上手い長手が泳ぎの下手な丸手を苛めかねないのに。


 流瑠は水草の間を潜って桶の中をぐるぐる泳ぐ金魚を見つめていた。女にありがちな、きゃっきゃっと猿みたく高い声で騒がない辺りがよく分かっている。

 静かに金魚を物色中の流瑠を横目に、金魚の状態をざっと一尾ずつ観察する。鱗の艶良し。背鰭もぴんと立っている。尾鰭は白く溶けてないし、鰓に充血は見られない。健康そのものだ。

 しかし、残念ながら当歳魚の桶にピンとくる金魚はいなかった。では隣の桶を覗いてみよう。


 もう一つの桶は金魚の大きさから見るに、二歳以上だろう。金魚すくいも兼ねた桶だからか、あちらの桶と比べて金魚もあまり元気がない。

 多くの金魚が茫洋と水面に浮かんでいた。琉金や出目金のみならず、丈夫な筈の姉金ですら鼻上げしながら泳ぐ。

 夢遊病を患ったかのような、不安定な動きを見せる金魚たちだったが、青黒い体色の琉金と紅白まだら模様の琉金二尾だけは桶の内周に沿って物凄い速さで泳いでいた。否、青黒い色の雄琉金に、突き殺される勢いで紅白まだらの雌がしつこく激しく追いかけられていた。


 随分激しく突かれたせいで雌の尾びれの端はぼろぼろ、鱗も部分的に剥がれ落ち、速いようで泳ぎが覚束ない。にも拘わらず、雄は雌の下腹部や尾鰭を執拗に突きまくる。

 このままでは死んでしまう。はらはらと突かれ続ける二尾を観察していると、雌の方と目が合った、気がした。


「なぁ、この子なんぼ??僕、この子欲しいんやけど」


 紅白まだらの雌を指差し、金魚売りに尋ねる。

 飼うんだったら、この子しかいない。

 この子は確かに、はっきりと、自分に助けを求めてきた。だから、どうしても助けなきゃと思ったんだ──






 帰宅後、自室の床の間にどんぶり鉢を置き、水に少しずつ塩をかき混ぜていく。

 弱っている金魚の体力回復には塩浴が効果的だ。今はまだ鉢の底で沈んでいるが、しばらくすれば元気になってくるだろう。


「頑張って生きよ、な??あ……、お前の名前やけどな。更紗、はどうやろか」

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