更紗の夢は永遠に醒めない

青月クロエ

第1話 文月(一)

 炎天下の午後。

 金魚売りの声が夏空高く響いていた。


 庭の鹿威しが鳴った。

 蕎麦色、海鼠なまこ色、翡翠色。鹿威しの近く、三つ並んだ睡蓮鉢、鉢の奥に拡がる池でそれぞれ金魚数尾が水面を跳ねる。鉢を抱えるようにしゃがんでいた青年は青白い瓜実顔を顰め、鹿威しを睨む。


 音に驚き、怯えた金魚が飛び出して死んだらどうしてくれる。

 そうでなくとも金魚は繊細で大きな音が苦手だ。父に頼んで撤去してもらわなければ。

 金魚のためでは動いてくれないだろうから別の理由を──、例えば、鹿威しのせいでよく眠れない、睡眠不足が続くと発作が起きやすくなる、と言えば、頼みを聞いてくれるかもしれない。


「桜、真朱しんしゅ、珊瑚、蘇芳、黒緋くろあけ朱華はねず、緋、白雪、青銀せいぎん、茜、小豆、玄、白百合、濡羽、月白げっぱく、団十郎、黄唐きがら、鉄紺、黒鉄くろがね青鈍あおにび……、必ずどかしてもらうさかい。待っとってくれ」


 金魚一尾一尾に名を呼びかけ、人間にするよう話しかける。

 物心つく頃から常に金魚を飼っていた。実家を離れ、帝都の大学へ通っていた頃も下宿先の許可を得て、どんぶり鉢で金魚を飼っていた。

『金魚狂いの金魚阿呆あほう

 寝るとき以外は金魚の世話にかまけ、日がな一日金魚を眺めて過ごす。他には何もしない。

 実の両親や兄に呆れられつつ、青年はある事情で隠居に似た生活を許されている。


 すべてはこの家が祇園の廓の中でも特に繁盛しているからだ。繁盛の裏にある娼妓と客、もしくは娼妓同士の駆け引きには辟易しきっているけれど、おかげで金魚たちと自分が安穏と暮らしていける。

 ちなみに、この廓の娼妓たちは家族以上に彼を遠巻きにしていた。

 当然だろう。ほとんど自室にこもりきりで人前には滅多に出てこない、庭に出ていたかと思えばぶつぶつと金魚に話しかける男など気味が悪いとしか……。


 青年自身も一向にかまわなかった。人と、特に女と話すと神経を酷く使う。廓の女など言葉の裏に何を潜ませているかわかったもんじゃない。だが、一人くらいは例外がいなくもない。


涼次郎りょうじろうはん」


 青年、もとい、涼次郎の背にひとりの娼妓が声をかけてきた。彼に自ら話しかけてくる娼妓など一人しかいない。


「なんか用か、流瑠ながる

「へぇ、ちょいお願いしたいことあるんどす」

「お願い??」

「あらぁ、金魚はんたち、前見たときより大きなったんちゃう??可愛いわぁ、あ、この赤い子、うちの指に寄ってくる!」


 流瑠は涼次郎の隣にしゃがむと、鉢の縁に指先を乗せ、水面に映る赤白黒茶……、色とりどりの金魚の泳ぎに目を輝かせた。地方出身者の特徴である丸顔は、細面の京美人と比べたら洗練さにやや欠ける。が、親しみやすさと愛嬌という点では勝る気がする。

 事実、流瑠は廓でも一、二を争う気立ての良さ、客への細やかな気遣いから部屋持ち女郎になった。

 気難しい客も底意地の悪い娼妓仲間も彼女の明るさの前では、浄化されたかのように大人しくなる。


「なんや、うちも金魚欲しなってきた」


 流瑠は涼次郎にちらと視線を送った。金魚売りの声が先程から近づきつつある。


「涼次郎はん、ちょっとついてきてくれしまへんか??丈夫で長生きしそな金魚を選んでほしいんどす!」

「僕が??お願いっちゅうのんは」


 流瑠は大きく頷く。


「ええで。そやけど、他の男と出掛けるの、お馴染みさんたち妬いたりしいひん??」

「平気や。相手二番目の坊ちゃんなら誰も文句言わしまへんさかい」


 流瑠の笑顔に一切の邪気は見当たらないのが却って尊厳を傷つける。

『やっぱり僕は行かない。金魚がすぐ死ぬのは飼い方が悪いだけだ』と断り文句が喉元まできたが、やめる。流瑠に限っては嫌味を言った訳じゃない。けほ、と軽い咳が込み上げる。


「涼次郎はん?!」


 慌てて心配する流瑠に手振りで『いけるだいじょうぶ』と示す。喘息が出たと思ったのだろう。

 涼次郎の側にいながら彼が発作を起こせば、流瑠は楼主内儀にきつく叱責されてしまう。


「発作やない。この時期の体調は落ち着いてる方やさかい」

「…………」

「さ、金魚買いに行こ。早うしいひんと金魚売りが行ってまう」


 改めて涼次郎の方から誘うと、流瑠の不安な表情は一瞬で晴れ渡った。


「どんぶり鉢忘れへんように」

「へぇ」


 浮足立った様子でどんぶり鉢を取りに行く流瑠を見送ったのち、涼次郎も金魚たちの前から離れていった。

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