最終話 その棲家は星の無い夜よりも暗い秘密を抱えていた

 暗闇になれた二人の目に次第に周りの様子が見えてきた。

 建物の中は今までの嵐が嘘のような静寂に満たされていた。

 天井は外の石柱より更に高く、長い鎖で吊り下げられた燭台しょくだいがぼんやりと室内を照らしていた。燭台が緩やかに左右に揺れるにつれて見渡す限りの本棚に埋め尽くされた壁に映る影が姿を変えた。


 棚に近づき無造作に一冊を手に取った男性は開いたページのそこかしこに飾られた挿絵さしえにたちまち心を奪われた。ページは黄ばみ、挿絵も色鮮やかとはいいがたかったが、そこには男が見たことのない美しい世界の姿が余すことなく記されていた。


 男は夢中になって次から次へとページをり、雪を頂いた急峻きゅうしゅんな山脈や、朝日に輝く雲海にため息をついた。

 別の本には、少女が語ったとおぼしき生き物の姿を見つけた。深海に潜む生き物は想像を超えておどろおどろしく、その棲処すみかは星の無い夜よりも更に暗い秘密を抱えていた。鳥たちは極彩色ごくさいしきの羽でその身を飾り、空をける喜びを謳っていた。地上の肉食獣たちはしなやかな筋肉に力を蓄え、緊張から解き放たれた四肢は風となって大地を駆け巡っていた。小指の先にも満たない小さな生き物たちでさえ、近づいてみれば生き抜くための精巧な知恵をその小さな身に凝縮させていた。


 時を忘れて本を読みあさっていた男は、いつしか少女の姿がどこにも見えなくなった事に気が付いた。燭台の光は暗く、広大な建物の全てを見通すことはできない。少女を呼ぶ声も頼りなく周囲の壁へと吸い込まれていった。

 やがて男は、燭台が揺れるにつれ床の水滴が光る事に気が付いた。少女の濡れた髪からしたたったであろうそのしずくを辿って、男は建物の奥へとすすんだ。


 大広間から続く扉を開くと、暗く長い廊下が奥へと続いていた。いくつかの扉をくぐるにつれやがて通路はせまく、天井も低くなり始めた。やがて壁にかかる燭台の間隔がひらき始め、男は暗闇の中、壁に手をついて進まざるを得なくなった。

 どれ程の距離を進んだか、やがて行く手に細い光の筋が見えた。かすかに開いた扉から漏れたその光を目指す男性はひどい喉の渇きを覚えていた。手足は緊張にこわばり、息は浅く速くなっていた。


 そっと手を触れると、扉は音もなく開いた。

 扉の先の小さな部屋には大きな白い布を掛けた寝台があり、その横に女性が燭台を持って立っていた。

 女性の肢体は既に少女のものではなく、成熟した女性のそれとなっていた。そのからだは先ほど書物でみたどの生き物よりもしなやかで美しく、深い秘密を宿しているように思えた。


「待っていたわ」


 女は燭台をかたわらのわき机に置くと、そっと燭台の火を吹き消した。

 部屋は暗闇に閉ざされ、男はむせ返るような匂いに包まれた。硬直するように立ち尽くす男の頬に冷たいしなやかな指が触れ、やがて下へと動いて男性のローブを荒々しくはぎ取った。

 唇に濡れた感触を覚えると同時に女の熱い体を裸の胸に感じ、男性は湿った肌を夢中で抱き返していた。


 男が次に意識を取り戻した時、部屋は柔らかな蝋燭ろうそくの光で照らされていた。

 男は寝台に一人横たわっていた。目を上げると燭台の横に置かれた砂時計がちょうど流れ終わるところだった。下から上へと音もなく流れる砂の最後の一粒が無くなると同時に、男は全て思い出していた。


 男は起き上がるとシーツを裂いて身体を覆い、燭台を手に取って廊下に出た。その躰は幼い男児のそれになっていたが、不思議と体には力が満ち、重い燭台を持つのも苦にならなかった。

 男は廊下に出ると、今度は迷わずに建物の一番深いところへと続く階段を降り始めた。


 長い階段の終わりには両開きの扉があった。男は燭台を床に置くと、両の手で扉を押し開けた。


 扉の先には女がいた。

 すでに老婆となった女の髪は輝きを失ってとぐろを巻いており、老女は自らの髪のうえに胡坐をかいて座っていた。

 その膝の上には、首にサファイアの首飾りを提げた幼い男の子が一糸まとわぬ姿で眠り続けていた。


 遠くからかすかに落雷の音が聞こえてきた。

 図書館はさらさらと音を立てて砂に還り始め、荒れ狂う嵐に瞬く間に運ばれていっていた。

 振り向かなくても二人には、建物が徐々に崩れ始めている事が了解された。


「なすべきことを為しましょう」

 女の視線にうなづくと、男は男児に語り掛けた。

 男の身体は更に幼く小さくなっていたが、その声は力強く、言葉はよどみなく口をついてでた。


「わが子よ私はお前を呪う。立て。立ってその2本の足で死に向けて歩き出せ。大地は重くその身を縛り、お前を鋭く切りつけるだろう。太陽はその背をあぶり、命の水さえ時にお前をおぼれさせ、または病をもたらすだろう。

 苦しみは尽きる事なく、のたうち回り死ぬその時まで、一層深く鋭く汝をさいなむだろう。

 我が名は『時』。汝からすべてを奪うものなり。」


 老女が気だるげに応じた。


「わが子よ私はお前を祝福する。立て。立ってその2本の足で死に向けて歩き出せ。大地は命のかてを惜しみなくお前に与え、その歩みを助けるでしょう。病はお前の心までは冒さず、風が美しい歌でお前をなぐさめるでしょう。死は避けられないが、お前は苦しみを分かち合う伴侶はんりょに巡り合い、共に喜びを語るでしょう。

 私の名は『海』。全ての始まりの場所。」


 時が逆巻さかまくその場所で生まれた赤子は目を開くとよろめきながらも立ち上がり、外に向かって歩き始めた。蝋燭ろうそくの灯は吹き込む雨にかき消され、不規則に光る稲光いなびかりが滝のように雨が流れる階段と打ち捨てられた地下室を照らしていた。

 階段の手前で振り向くと老女は既にこと切れており、その膝元には火が付いたように泣く男の赤子の姿があった。


 しかし、その様子はいまや2本の足でしっかりと立ち上がった赤子に何の感慨も与えなかった。赤子は二度と振り返ることなく、全ての記憶が砂にかえったその場所から、雷鳴がとどろく雨のなかへとその最初の一歩を踏み出した。




〈第二章に続く〉

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