第33話 闇と夜
―――時と場は昨晩のマサトへと戻る。
―――僕は花火の中で、美空が消えてしまった事も思い出せないままに漂う様に人混みを避けてアパートへと帰り歩く。
ポッカリとただ穴が空いたような虚しさは残ったものの。それが何かも解らずにただ足を動かし前に進み。それが僕の今のこの気持ちを表す言葉は何もなくて、その言葉を考えているのだが一向に思い浮かばず。僕は川沿いの喧騒を離れて橋を渡り離れて見える花火の音と光りを横目に見れば、何か思い出せそうになり。橋の欄干に腕を突いて花火を眺めた。
僕は花火を見ながらエリの事を思い出した。流れゆく水面に映る色とりどりの火花の宴は、静かに水面と共に流れて行き。この言葉に出来ない感情を引っ提げて、僕はフラフラとまた歩き出した。
遠くでエリの声がしたような気がした僕が振り向くと、そこには丸く輝く月が在り。僕はそこにエリの顔を映した。夜風は僕の頬を撫で、星々は僕の眼球へと降り注ぎ、川は僕の心を流し。木の葉の擦れる音と花火の音と人々のざわめく雑踏の音。それらが僕の横を通り抜ける様に過ぎ去って行く。
「み...みく...。」
そんな単語が僕の頭に浮かび。僕はそれを決して逃してはならないと、頭の中の砂場を掘り起こす様な気持ちで頭の中を探し。それでも思い出せない僕はその言葉が消えない様に
「みく。みく。みく。」
と呟きながら歩いた。途中あまりにその事に集中し過ぎて、街灯のポールに頭をぶつけたが集中していたせいか痛みも無く
「みく。みく。みく。」
何度も呟きながら。何なんだろう『みく』って。その言葉は靄がかかったように僕の中で、それ以上は明瞭に為る事は無いが、このヒントからその先に繋がる気がしてどうしても忘れたく無かった。僕は呟きながら橋を渡りきり、右へ曲がろうとした瞬間に車に跳ねられそうになったが咄嗟にかわして肝を冷やしたが。それでも
「みく。みく。みく。」
と、呟きながらアパートへ続く坂道へと辿り着いた。そこから連想する事で答えに近付けるかも知れないと思い。女の子の名前であろうと言うところまでは辿り着いた。僕は坂道を一歩一歩登りながら、その事を忘れない様に思い出しながら歩くのだが。僅かな時間でもすぐに忘れてしまい。僕がアパートへ帰り着く頃には『み』の字も思い出せ無くなっていた。
僕はアパートのドアを開け、部屋の中へと入るといつもの癖で風呂場へと行き。脱衣を済ませると歯磨きをしながら、シャワーを浴びた。僕はシャワーを浴び終えて。タオルで身体を拭くと部屋着へと着替えて、冷蔵庫を物色すると。缶ビールが一本入って居たので僕はそれを飲み始めながら、窓際へと行き窓を開けて遠く映る花火を眺めた。
ここまで離れると、音も光りも僅かな物で儚さだけが伝わる様な小さな光りの塊でしか無かった。
缶ビールは凄く冷えていて唇に当たると、刺激に似た冷たさを与え。そのままその冷たさは喉の奥へと発泡感と共に流れ込んで来て、その後に口の中に苦味が残り歩き疲れた僕には途轍も無く心地好いものであった。
僕は大切なものを、沢山忘れている気がする。そんな気持ち何てものはエリさえ居ればすぐに忘れてしまえる事なのだけれど。今はエリが居ない。僕は月を眺めながら、またエリの事を思った。
明日の昼には帰って来る事は理解しているが、頼りない心の今この時に傍に居てくれたらな。と思う。
『あの長い黒髪に触れたい。』
『あの切れ長で鋭くも優しい目に見つめられたい。』
『あの柔らかい唇から、全てを理解しているかの様な心へ楔を打ち込む様な言葉を投げ掛けてもらいたい。』
『あの泡立てた卵白の様に白く柔らかい肌に触れたい。』
『あの細くしなやかなで洗い立てのタオル生地の様に柔らかい指先で触れてほしい。』
僕はこの何気ない夜が、凄く重く息苦しい物に思えて来て。缶ビールを飲み干すと、いつもの自分の心へと戻りたくてコップ一杯の水を飲んで、深くゆっくりと呼吸をした。それでも理由の判らない何かに締め付けられる心は僕を真っ黒な布で包み込んだ。
この得体の知れないぼんやりとした不安も我関せずに盛り上がる外連の空気に、僕は塵紙程の苛立ちを覚えて。そんなものに今の僕の心を触れて欲しくは無くて。窓とカーテンを閉めて少し横になり丸くなった。遠くぼやけたアナウンスを背骨で聴いている僕は。もう今日の花火が終わるのだと理解した。
「エリ...」
何で僕はこんなにも心細いのだろうか。座卓の脚の隙間から僕は過去の嫌な事ばかりが姿を見せて。
それはエリがバイト先の男の先輩から食事に誘われて、断り切れずに付いて行ってしまったり。エリの誕生日の日に僕はその事を忘れて友達と遊びに出掛けてしまったり。貯水タンクの所で両親と警察官に怒られたりとか。
そんな苦笑いして目を逸らしてやり過ごしたくなる様な嫌なものばかり見えてくるので。僕は目を逸らして目を閉じた。しかし、嫌なものばかり見える時って言うものは、どんなにやっても嫌な事ばかりを考えてしまうもので。
明日の昼まで辛抱すればエリに会え。あの心に突き刺さる様な言葉で僕を諭してくれるのだろうが。もし、そのエリが明日の昼に帰る事もなく僕はずっとエリと会う事が出来なかったら。などと良くない事ばかりが頭を過る。
「カッコ悪いけど、不安なんだ。寂しいんだ。」
僕は丸くなったまま。背骨から漏れる様に声に出した。闇は何故に闇なのか?と問えば。それは見えなくなる事が闇である。未来の見えない闇。自分の心の見えない闇。他人の優しさの見えない闇。人は時折、様々な闇に会い。そしてその闇で前が見えなくなり。道を見失う。
僕は正にその闇の中に居るのだ。
何か光りが欲しい。何なのだこの只管襲い来る理由の無い虚しさは。何度も何度も僕はそんな事ばかりに囚われて何一つ心が前に向けないでいる。何とか振り払いたくて、何度も寝返りを繰り返し。僕はもう一度立ち上りグラス一杯の水を口にした。
そして、布団を敷きシーツを掛け。部屋の明かりを落し毛布にくるまった。足の先まで身を包み僕は不安と寂しさの中で只管、目を瞑りこの深い闇と夜が通り過ぎるのをやり過ごした。
「エリ...。」
そう呟く内に僕は意識をいつの間にか途絶えて、そのまま眠りに着いた。
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