008.記憶と人格
「だから言ったじゃない。溜奈のだけ甘くしようか?って」
何とかヨーグルトと牛乳の力で彼女のだけ甘くし、食べきることのできた食後。
お皿も洗い終わった俺たちは食後のティータイム代わりにとお茶を囲んでいる。
少ないお金でやりくりしなければならない俺にとってはお菓子など二の次だ。
お茶請けもなにもないのに彼女たちは気にする事なく、怜衣さんは溜奈さんに呆れた顔をする。
「うぅ……だって……みんなと一緒の、食べたかったんだもん……」
「ま、無事食べ切れたから良かったけど。 ……頑張ったわね、溜奈」
呆れた顔を見せつつもフッと笑った彼女は小さく縮こまる溜奈さんの頭を優しく撫でる。
これがお姉ちゃんってやつか…………。俺は一人っ子だけど、もしも兄とか姉とか居たらこんなふうになるのかなぁ……
無意識にそんな2人の姿を羨ましく見ていただろうか。気づけば頭を撫でていた怜衣さんの視線がこちらに向けられる。
「あら? その羨ましそうな顔はなぁに? あなたも撫でてほしいのかしら?」
「い、いや!そんなことは……」
「良いのよ誤魔化さなくたって。 んしょ……よしよし……どうかしら?こんな感じ?」
テーブルに手をついて前のめりになった彼女は溜奈さんに続いて俺の頭も優しく撫でる。
細くて小さい手。その力は俺より遥かに無いにも関わらず、撫でられた手の暖かさには安心感や優しさという力強さが感じられた。
つい俺が恥ずかしくなって顔を伏せると、彼女は『よしっ!』と満足したように元の位置に戻っていく。
「――――さてっ! お夕飯も食べたことだし、あなたは私たちに聞きたいことがあるんじゃない?」
「……そうだね」
居住まいを正してフローリングの上に正座をし、ニコニコと笑顔を見せる正面の怜衣さん。
一方隣の溜奈さんは正座をしつつも、ご飯前みたいに指を動かしながらチラチラとこちらの様子を伺っている。
聞きたいこと……それを聞かれたら山ほどある。
今日ここに来たのはそれに答えるためだったのか。俺も背筋を伸ばしてしっかりとその目を怜衣さんへと向けた。
「まず……出身中学って近くのお嬢様学校って聞いたけど、ホント?」
「ええ。普通に中学を卒業して普通に受験してこっちに来たわ」
「あっちのほうがレベル高いよね? あっちは幼稚園から大学までエスカレーター式だし成績優秀なら……」
「今の学校を選ぶメリットが無いってこと?」
先回りするように問いかけられて首を縦に振る。
成績優秀がどれほどのものかは知らないが、きっと向こうで落第ってレベルにはならないだろう。
考えられることとして前の学校で問題を起こしたり不和かとも思ったが、ウチで孤立していないと聞く限りそれも考えにくい。
メリットとして考えられるのは距離を比較すると今の学校のほうが近いくらいだ。
「そうね……幾つか理由はあるけど、見聞を広める為かしら?」
「見聞?」
「気を悪くしないでほしいんだけど、ウチって結構お金持ちなのよ」
知ってる。上場企業のご令嬢。それは目の前の家を見ても一目瞭然だ。
「で、前の学校だとずっとエスカレーターなぶん人も入れ替わらなくって閉鎖的なのよ。 それで外に出て色んな人と触れ合ってみたいなって思ったの」
「……大学はまた向こうの大学に戻るの?」
「それはわからないわ。その時次第ね」
つまり進路に関してはそこまで決めていないと。
勝手な思い込みだったが、社長令嬢ともなるとそこらへんも厳しく決められてると思ってた。
「じゃあ、何で俺のことを好きになったの?」
「やっぱりそこは気になるわよね……」
予想していたのか彼女はこちらに向けていた視線を下ろして目の前のお茶を傾ける。
以前は回答を拒否されたが、こうして質問の機会を作ってくれたのだからきっと答えてくれると思う。
「質問を質問で返して悪いけど、あなたって初恋はしたことはある?」
「初恋? たぶん、うん」
初恋……と言っていいのかはわからないが、いつも隣に居てくれる幼馴染に幼い頃心惹かれたことがあった。
昔の話だ。けれど向こうはそんな素振りは見せないでいるものだから、いつしか俺もそんな感情を忘れて普段どおり過ごし始める。
ほんの僅かな期間だったが、あれが初恋といえばそうなのだろう。
「じゃあ、何で好きになったのか具体的な理由は言える?」
「それは………………」
言えない。
強いて言えば隣にいたから。それが別の人物だったらどうだろう。……わからない。好きになったかもしれないし逆だったかもしれない。
車に轢かれかけて助けられてたなんてわかりやすいキッカケがあれば話は変わってくるが、あいにく俺は大事に育てられてきたからかそういう命の危険とは無縁の生活を送ってこれた。故に具体的な理由と聞かれて言葉に詰まる。
「そういうことよ。 あえて言うならあなたが泉だから、でしょうかね。私にも溜奈にも理由なんて答えられないわ」
「~~~~!」
肩をすくめる怜衣さんと、大きく首を縦に振る溜奈さん。
俺だから好きになった、と。でも結局それって――――
「それって、記憶が無くなる前の俺なんじゃないの?」
「…………どういうことかしら?」
その問いに、これまで明るい声を出していた彼女の声のトーンが低くなって目尻が下がる。
それはさながら昼にハクと対峙した時のよう。一瞬言葉に詰まりそうになったが、俺も引いてたまるかと気合で持ちこたえた。
「知っての通り俺はこの1年……入学式前から新学期までの記憶が一切無いんだ」
「そうね。知ってるわ」
「だから、好きって言われても実感が無いし、何よりそれは本当に俺なのかなって」
「……つまり、私たちが好きになったのは記憶を失う前のあなたであって、今のあなたとは別だってこと?」
「…………うん」
そこだ。
果たして記憶を失う前と後は同一人物なのだろうか。
少なくとも失った分の経験というのはなくなってしまう。実質自分だけ成長が巻き戻ってしまうのだ。
ずっと一緒に居てくれたハクならともかく、失っている間に出会った彼女にとって俺は同一人物と言えないのかもしれない。
「だからっ……その……俺が俺じゃなくって、記憶がなくってがっかりさせるかもしれないから……付き合うっていうのも無かったこと――――」
「嫌ですっ!!」
最後まで伝えることができずに遮ったのは、今まで黙って聞いていた溜奈さんだった。
彼女はテーブルから立ち上がって見下ろすようにこちらを見つめる。その目の端には小さく涙が……。
「溜奈さん……」
「絶対に嫌です!泉……さんが私たちの事キライでも、私は大好きなんです!! このチャンス……絶対に逃したくありませんっ!!」
「でも……俺は俺じゃないかもだし……」
「それは…………嫌ですよぉ…………。ヒクッ……泉さんは……泉さんじゃないですかぁ…………」
彼女が言葉を紡ぐたび目の端の涙が大きくなり、次第にボロボロと流れ落ちる。
最後には思うように言葉が出ずとも、大粒の涙を流しながら最後まで紡いでいった。
「…………」
静寂。
俺は何も答えず、いや、答えられなかった。
単純に期待を裏切るかもしれないから。そう思って予防のために言い出したことだが、ここまで泣かれると何を言ってしまったのかと後悔がやってくる。
「溜奈……。大丈夫だから泣き止みなさい」
「だってぇ……お姉ちゃんだって……あの時すっごく喜んでぇ……グスッ……」
「大丈夫よ。大丈夫だから……」
泣き続ける溜奈さんを抱きしめて慰める怜衣さん。
俺は何も口を挟むことができずただ見ていることしかできなかった。
今何か言えば確実に波紋を呼ぶ。どうすることもできずその2人を見ていると、怜衣さんは抱きしめていた腕を解いて俺の前に立ち、しゃがんで視線を合わせてくる。
「じゃあこうしない?私たちとお試し感覚で付き合ってみない? もちろん、だからといって色々と縛ることなんてしないし、他に好きな人ができたら身を引くわ」
「それは……都合が良すぎない?」
「だってそうじゃないと納得できないでしょう? 大丈夫よ。すぐにメロメロにしてあげるんだから」
彼女は優しい微笑みを浮かべて俺の頭を撫でる。
あまりに俺に対して都合が良い条件。そんなことを言わせてしまったことに後悔しつつ、俺は黙って頷く。
「…………よかった」
「でも、2人はそれでいいの? そこまで俺のこと……」
「好きだからそんな条件を出してるのよ。 …………あら」
「あっ――――」
ふと彼女が向けた視線の先には、2人が来る前に放おった写真が。
夕方ハクと一緒に撮った写真。俺には実感が無いとはいえ付き合っているのだ。そんな中2人の写真を見たらきっと激怒するに決まっている。
そんな恐ろしさを覚えながらその動きを見守るも、彼女はそれを拾って中身を確認すると、表情を崩すことなく俺の掌に乗せる。
「……いい写真ね。仲の良さが見て取れるわ」
「これは……その…………」
「いいのよ。2人は仲が良いものね。 当然、付き合うからと言って関わるななんて言わないわ。嫉妬はするけど……。 でもあなたにとって大事な友人、あなたを孤独にしたくないもの。 もちろん今日みたいに遊びに行ってもいいわよ」
再度、そんな都合のいい話があるのだろうかと開いた口が塞がらなくなる。
「さすがにそれは…………」と口を開いたところで、彼女の細い指が一本口の目の前に立てられて言葉に詰まる。
「でも1つ……いや、2つ条件があるわ!!」
「条件?」
「えぇ。まず1つは私たちのこともちゃんと構ってくれること」
「それは、うん……」
当然だ。
付き合っている人をないがしろにするなんてあり得ない。俺が頷くと彼女も満足したように頷いてくれる。
「よし、じゃあ2つ目! 白鳥さんには付き合ってるって言わないでほしいの」
「ハクに? どうして……?」
「タイミングを見て、私たちの口から言いたいから」
多少疑問に思ったが何も不思議な話ではない。空気が読めない俺が言ってしまって最悪な空気を作る分、無鉄砲に話すより彼女自ら話してくれたほうが下手な諍いを起こさずにすむだろう。
俺は納得して了承すると、彼女は安心したように溜奈さんへと視線を向けた。
「ほらね、溜奈。大丈夫って言ったでしょ?」
「おねぇちゃぁん……ありがとぉ…………」
「もうっ。泣き虫なんだから……」
ゆっくりと怜衣さんのもとに歩いてしゃがむ溜奈さんを、彼女は優しく抱きとめる。
彼女らの想いは本物なのだろう。姉妹愛も、俺への感情も。
一方俺はどうだ。2人に最悪な縛りを課して、ロクな答えも出せず泣かせてしまって。
そんな彼女たちの想いに答えられない自分に辟易していると、ふと手が柔らかなものに包まれる。
「泉……さんも……ありがとうございます……。私たちを、受け入れてくれて……」
「いや、俺こそありがとう……。こんな俺を好きになってくれて」
手を包み込んだのは溜奈さんの掌だった。
未だ好きになってくれた理由はわからないが、また1つ記憶を取り戻す理由ができたと考えることにする。
俺は再度泣き出した溜奈さんが泣き止むまで、抱きしめ合う姉妹を見守っていた――――。
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