夏が燻る/サファイアの秘密
秋色
第1話 見知らぬ訪問者
カランカランとドアチャイムが鳴る。
「いらっしゃいませ」
富美加はファミリーレストラン「ぶるーばーど」に訪れた客を見て、小さなため息が出てしまった。「なんだ、絵里か……」
足取りが重い。
「『なんだ』ってヒドイわ。今日は三時であがりって言ってたじゃない? だから来たのよ。これから付き合ってもらおうと思って。雑誌にあったお香占い、結構当たるんだって。バイトの後、ヒマでしょ? 私んちに来てやろうよ。あ、デザートセットのA、お願いね」
「大学の夏休みって忙しくないの? 私はバイトの後も家の仕事を手伝わなくちゃいけないんだけど」
「家って、あのビジネス旅館? まだやってたんだ、あの旅館」
「やってるよ」
そう答えると富美加は
――あの牧歌的な風景の中で一日、過ごせたらな――
富美加の家は、小さなビジネス旅館をやっている。昔は地域で有名な、かなり大きな旅館だったらしい。何度かの危機を乗り越え、今では従業員を最小限度に押さえ、やっと続けられている。だから部屋の掃除等、出来る限り、富美加が手伝わなくてはならない。ファミレスの仕事に、家の手伝いと富美加は、毎日ヘトヘトになるまで働いている。
――本当はこのファミレスのバイトだって好きでやってるわけじゃない。私だって大学に行きたかった――
富美加は唇を噛みしめた。それなのにバイト先のファミレスにまで遊びに誘いに来る絵里に、富美加は苛立っていた。
絵里は大学の夏休みに実家に帰ってきていて、ブラブラしながらこうやって忙しい富美加の所に雑談や占い、恋愛の相談を口実にやって来るのだ。そして最後はほぼノロケ話や自慢話で終わる。
この日も雑誌で知ったお香占いというのをやりたいので付き合ってくれと富美加を誘いに来ているし。
実はお香自体には興味があった。でも遊びに使いたくなかった。お線香の匂いには、去年亡くなった祖母の思い出がある。家業の浮き沈みに苦労しながらずっと働きづめで、それでいて凛としていた祖母。
富美加が学校に遅れそうで走っていると、「はしたないですよ。女の子はそうやって大股で走るものではありません」と叱っていた祖母。
その祖母がお線香を燻らせている姿が好きだった。亡くなった祖父を思いながらか、よく仏壇の前でお線香を炊き、薄い紫色の煙が細い帯になって立ち昇っている前で、手を合わせていた。あの香りは心を落ち着かせた。質素で、着るものは修繕を繰り返しながらずっと着続けていた祖母。自分が死んだ後には線香をあげなくていいからと生前よく言っていた。勿体ないからなんて理由で。
ファミレスの客席で待つ絵里にうんざりしていた時、マネージャーから呼び止められた。
「山崎さん、会いたいって人がもう一人五番のテーブルで待ってるんだけど。名前で指名せず、あのショートヘアのお嬢さんを呼んでって言われたんだよ」
「え? 誰だろ」
そこには白髪を薄い
誰であるにせよ、絵里の誘いを断る口実が出来たのがうれしかった。
不満げな絵里に、「私にお客さんが来てたから、今日はごめんね」と断り、五番テーブルに向かった。
老婦人は富美加を見るなり、「志乃ちゃんにそっくり」と言った。志乃は亡くなった祖母の名前だ。「お名前、聞いていいかしら」
「山崎富美加です。祖母の知り合いの方ですか?」
「そう……山崎さん。私、桜町通りに住んでいた旧姓、浜辺志乃さんと子どもの頃、仲良かった者で、偶然通りかかったの」
「あの、祖母はもう亡くなっているんです。去年」
「まあ」と言った後、老婦人は絶句した。
「そうだったの? もし元気なら会いたいと思っていたんだけど。用事があってこの町に来たのよ。そうしたらお店のガラス越しにあなたの姿を見て、志乃ちゃんに縁故のあるお嬢さんじゃないかしらって思ったの。ね、これから少し付き合ってもらえるかしら」
「あの……」と
「私の事なら、マリーゴールドって呼んでちょうだい。志乃ちゃんとそんなふうに呼び合ってた時代があったのよ。志乃ちゃんはソレイユちゃん。ソレイユはフランス語で
老婦人は陽気に言って、富美加に尋ねた。「貴女の好きな花は?」
「リンドウかなあ」
「じゃあ、貴女はリンドウちゃんね」
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