第106話 貧乏子爵家次男は瞳を追う7


 *


 シャラ・ランスラの目には、エリカ・ロングダガーは正気のように見えた。

 彼女の元からシンが離れて4日目の朝の事である。


 自身に課している朝の祈りを済ませ、つい心配になって様子を見に来たのである。

 部屋にはまだ朝食で食べたであろう焼いたパンの匂いがする。


「どうかしましたか?」


 あまりにもマジマジと見つめすぎたからだろう。

 テーブルの向かい側に座るエリカがそう尋ねてきた。


 おかしい……余りにも普通である。

 この世の全てを地獄の業火で焼き尽くしそうな顔をしながら呪詛のように惚気のろけを吐き散らかしていた人間とは思えない。


 駄目、思い出しては駄目、私。

 背筋を這い上る粘性の何かの感触にシャラはゾッとする。


 自分の汗が甘くなっていないか、怖々こわごわ確かめるような事は二度としたくない。


「いえ、今日はそのしょ……大丈夫そうだなぁって思って」


 危うく正気と言いかける。

 万が一、そんなワケないでしょうと言われてスイッチが入ったら自分は最後だ。


 惚気で悪夢を見るという経験なぞ一度で十分だ。


「えぇそうね、昨日は少し恥ずかしい所を見せてしまいましたね」


 あれで――。


「少しですか」


 シャラは戦慄せんりつした。

 いやここで飲まれてはいけない、シャラ・ランスラここは死地と心得なさい。


 我が神よ、私に慈悲と加護を。

 あと我が友にも慈悲と平穏を。


「ところで昨日は何をしていたんですか?」


 ロングダガー宅の庭には現在、謎の箱が存在している。

 エリカが魔法で作り上げたそれは、元がただの庭の土であるはずなのに、大理石か陶器のような質感を持っている、色まで白く変色しているのだから意味が分からない。


 今朝ちらりと見た時には昨日には無かった木材などの資材が積まれていた。

 何かを作ろうとしているのは分かるのだが、シャラにはそれが何かさっぱり分からなかった。


 ああ。

 エリカが微笑み答える。


「あれはお風呂を作っているんです」


「お風呂?」


 お風呂というとアレだろうか?

 お湯に身体を沈めるという娯楽の。


 知識としては持ち合わせていたが、それを個人の家に設置するという考えが理解できない。

 あれは貴族等が趣味で設置するような施設だろう。

 元大貴族の令嬢とはいえ、エリカがそういった趣味を嗜むというのは意外だった。

 いやまぁこの夫婦の稼ぎっぷりを考えると微々たる出費ではあるが。


 そうかあの箱はお湯を貯める為の物か。


「この街に来るまでに何度かお風呂のある宿に泊まったのですが」


 エリカが懐かしげな顔をする。

 そんなに懐かしむ程に昔の話でしたっけ? 出かけた言葉を飲み込む。


「慣れるとお風呂は気持ちの良い物だと言っていましたので」


 賢明にもシャラは誰が?とは問わなかった。


「シンが」


 問わなかったのに勝手に答えられた。

 畜生、コイツ躊躇ちゅうちょ無く人の口に砂糖を突っ込んできやがる。


「成る程、それで機嫌が良いんですね」


 旦那の為にお風呂を自分で作る妻という存在が尋常じんじょうのものであるかは別として。

 その心の有り様は理解できる、口の中は甘いが。


 何かしていれば寂しさも紛れるだろうし。


「ああ、いえ」


 エリカの思わぬ否定の声にシャラは小首を傾げる。

「確かに、ええ、今日は気分が良いですが理由は別ですね」


 本能がまばたき以下の速度で警告を発した。

 今日はこれから用事が――。


「実はですね」


 身体は本能ほどには速くなかった。


「シンの夢を見まして」


「夢ですか」


 嫌な予感がヒシヒシとする。

 新婚夫婦に伴侶の夢を見たと言われて、それが惚気じゃない可能性とは如何ほどあるのだろうか?


「シンが楽しそうに竜と戦っている夢です」


 シャラは思った、これは惚気の中でも一等マシな部類ではないかと。


「肺が潰れたり背骨が折れたりしてましたが、楽しそうでした」


「なんですって?」


 思わず真顔になった。


「えぇ、ですから肺が潰れたり背骨が折れたりしていて楽しそうでした」


 ああ、あと肋骨が折れて内臓に刺さっているようでしたね。

 楽しそうの定義とは? 世の真理の如く語られる新たな概念に哲学的な思考に飲まれそうになる。


 いやまぁシンさんなら、それぐらいなら楽しいの範疇なのだろうか?

 それにしてもやたらと具体的な夢である。


 思わず真顔になったシャラを無視して、エリカが夢の内容を語り続ける。

 音声は記憶にないらしいが、語られるその内容はさいにわたる。


 まるで南にあるノールジュエンでの話のようである。

 シンがわたくし以外の人間と冒険をしているというのは、少々腹立たしくはありますが――。


 そう語るエリカを見てシャラは正真正銘、心の奥底から震えた。

 いや、まさか、そんな。


 一つの可能性にぶち当たった。

 そんなまさかと思いつつも、シャラはそれを否定しきれなかった。


 スキルそれは神の与えた奇跡である。

 教会の人間にしかスキルを鑑定するスキルが発現しないので、教会の人間にとっては常識となっている考え方である。


 ご多分に漏れずシャラもそう思っている。

 だがしかし、こんな奇跡はあるのだろうか?


 エリカのコレは……まるで千里眼のスキルのようではないか。

 教会でもここ数百年は発現者を確認できていないスキルである。


 いやいやそんなまさか。

 そう思いつつもシャラは思わずにはいられない。


 語られる細部ディテールの細かさに。

 それは夢と言うには詳細に過ぎる。


 というかですね。

 シャラはそれが千里眼のスキルであると半ば認めつつ思った。


 竜と戦うのならエリカを連れていけよと。

 いやホント、何してるのシンさん。


 それで肺が潰れて背骨ポッキリってアホなのかな?


「まぁ最後に何か良からぬ女の影が見えたような気がしたんですけどね」


 何気なしにポツリと聞かされた声の温度が恐ろしい。

 その声に悲鳴を上げなかった自分を褒めてあげたい。

 少なくとも自分で自分を誇ろう。


 それでもエリカの顔が怖くて見れない。


「誰なんでしょうね?」


 その問いは誰に向けてですか?


「誰なんでしょうね?」


 シャラは怖くて泣きそうだった。

 どこか遠くで聞き覚えのある声が、平穏を与えるつもりだったのですが、と言った気がしたが。


 シャラは聞かなかった事にした。



-------あとがき-------

お気づきの方もいらっしゃると思いますが。

ストックが切れる前に作者にデスマが到来しております。

明日からのデスマが割と洒落になっていなくてですね。

おそらく暫く更新が止まるかと思います。

ストックと言ってもあと数話分ぐらいしかなかったのですが。

コメントの返信なども遅くなりがちですが、コメントは全て読ませて頂いています。

いつも、いいね、コメント等に励まされております。

というわけでデスマを倒しに行ってきます。

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