第78話 追放侯爵令嬢様は蓋を閉める、厳重に


 *


 どうも耳に砂糖が詰まったようなので帰ります、そう言って帰って行ったシャラを見送ったエリカはリビングのテーブルでお茶を飲んでいた。

 自室に戻るのも何となく億劫だったからだ。


 ぼうっとしていたせいか、茶の切れたカップをすすってしまう。

 淑女として割とアウトなミスだった。


 思わず出そうになった溜息を鉄の意志で深呼吸に転化し空のカップをテーブルに戻す。

 カップを持っていた手が空いたはしから、テーブルの上で無意味に指が踊る。


 気が付けば指がシン・ロングダガーの名前をつづっていたのを自覚した瞬間。

 エリカはついに諦めた。


 小賢しい自分の手を組んで腹の上に置く。

 それでもなお、喉から漏れた溜息が細い糸のようだったのは故郷の親友の顔がチラついたからだろうか。


 わかれよう、等と強い言葉で始まったおかげで少し狼狽したが要はしばらく別行動しようという事である。

 最初は少し動転したが、落ち着けば大丈夫である。

 時折ときおり強い言葉から会話を初めてしまうのは彼の悪い癖ねと。

 エリカはシンの顔を思い出して苦笑を浮かべる。


 シンは言った、幻想理想が側にある事に甘えていたと。

 彼の理想とは――つまりはゴールとは――一年の間自分の側に居て茶番を済ませた後に親友である光の巫女との知己を得る、という事なのだ。


 いや違う、それすらも彼にとっては出発点にすぎないのだ。

 彼は言ったではないか、最初の一歩すら踏み出していなかったのだと。


「幻想の側にいる為に君の側から暫く離れる事を許して欲しい……ですか」


 そう言った時のシンの顔を思い出す。

 馬車で見たあの顔をしていた。


 あの顔をしてまで言ったのだ、そうであるならば彼にとって必須ひっすであるのだろう。

 元より止める言葉など持たないのだ、持てる立場でもないのだ。


 理想一年後の約束が果たされた後の為にと、最初の一歩を踏み出す為にと、シンがそう言って自分の側から離れると言うのなら。

 それを自分が止めるのは不義理という物だ。


 最初は確かに少し狼狽したが、聞けば一週間程度との事である。

 大した問題ではない。


 大嘘である。

 一人この家で過ごす夜は長かった。


 侵入者対策の魔道具が近所の野良猫に反応するたびに、そうと分かっていてなお帰ってきたのではないかとソワソワした。

 シンが側にいなくなってまだ半日でこの様とは、自分は一体どうしたのかとエリカは思う。

 いけない、これは良くないと、エリカは心を落ち着かせた。


 エリカ・ソルンツァリにとってシン・ロングダガーは実に珍しい存在だった。

 身内でもなく同性でもない人間が、自分の側から離れないというのは初めての経験だった。


 どうも自分は男性に妙な緊張を強いる人間であるようだと、ハッキリ自覚したのはつい最近の事であるが。

 幼少の頃からそうであった為に慣れてもいたし、そういう物であるという納得すらあった。


 故にエリカ・ソルンツァリにとってシン・ロングダガーは特別になり得たのだ。

 彼は至極しごく平然と側にいるのだ。


 そのくせ、本人は嵐に吹かれようが鎖に曳かれようが自分の意思でなければ一歩も動かないような顔をしているのだ。

 アレはズルいだろうとエリカは思う。

 きっと自分の望む方向には嵐のただ中だろうが、鎖に曳かれていようが平然と歩いて行くのだ、たぶん走りすらしない。


 そんな生き方をしている人間はまっすぐに親友のところに行けばいいのだ。

 自分のような所に寄り道しては駄目だと思うのだ。


 おかげで自分の胸はこんなに痛い。

 おっと、いけない、よろしくない。

 エリカは開きそうになった蓋を閉める。


 昨日、別れる前の遣り取り思い出す。

 それは貴方一人でさねばならぬ事なのですか?


 自分の問いにシンはハッキリと、そうだと、そういう物だと答えたのだ。

 そうであるならば、最早もはや自分が言える事など無かった。


 嗚呼、いいえ、これも嘘ね。

 自分は飲み込んだではないか。


 何を言うのです、貴方が成そうとするのなら、それすなわち、わたくしが全力を持ってお手伝いしてしかるべき事なのです。ですからどうか遠慮無く頼ってくださいまし――その言葉を自分は飲み込んだではないか。

 もしシンが失敗したのならば――この一年が少しでも伸びるのではないか――自分はそう思ったのではないか?


 だから言葉を持たぬと言い訳して、彼の意を汲むふりをして、言葉を飲み込んだのではないのか?

 嗚呼、いけない、駄目ねこれはホントに駄目。


 エリカ・ソルンツァリは自分の胸に蓋をした。

 こうなるのなら、もっと顔を見ておけば良かったと思う。


 つい恥ずかしくなって視線を逸らせてしまった数だけ胸が痛む。


「イタタ」


 ちょっと厳重に閉めすぎたと、胸をそっと抑えてエリカはそう呟いた。

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