後悔の夜明け

大水浅葱

1

 ――ほら、また夢を見る。


「ぼくのおかあさんはなんでいないの? 」


「それはね……病気で死んじゃったからなんだ」


 ヘリオスは子供の頃にそう聞いた。その時、父が自分に向けていた笑顔に身震いさせられるような何かがあったことを今でも忘れられない。それは、10年以上経った今でも夢に見るほどだった。


 ――ほら、また夢を見ていた。


 目が覚める。見知った天井が視界に入る。不快な夢を見ていたはずなのに、完全に疲れがとれ、倦怠感すら感じられない。先ほどまで悪夢を見ていたなんて嘘のようで……そんな気持ちのいい朝に嫌気がさす。見ていたはずの夢なんて、すぐに忘れてしまう。だから朝の一幕はいつも嫌悪感で満たされる。

 こんこんと、静かなノックの音が鳴る。

「ヘリオス様、お召し物をお持ちしました。」

 次いで、聞きなじんだ使用人の声がする。それだけで、ヘリオスには落ち着いた水面へ石が投げ入れられたような刺激が貫く。深く沈んでいた意識が一気に水面へ浮上する。

「ホルメーか、入れ。」

 ぼんやりした頭を冷ますように少し首を振り、体を起こす。ホルメーは綺麗な所作で一礼し、部屋に入ってくる。黒のワンピースに白のエプロン。伝統的とも言える、どこにでもあるような使用人の服を着た女性はつかつかとヘリオスに近づく。それを見たヘリオスはベッドに腰掛ける。慣れた手つきで服を着させてくるホルメーに身を任せつつ、ちょっとした世間話をする。

「最近はどうだ? ぼくの世話ばかりで退屈ではないのか? 」

「いえいえ、仕事ですので退屈なんてことは無いです。それにヘリオス様のお世話は畑仕事よりも楽です。にもかかわらず畑仕事よりもお金が貰えるのです。」

 ホルメーは包み隠さずに生々しいことを語る。表情ひとつ変えず、淡々と。ヘリオスに服を着せる速度も一切遅くなることなく、スラスラと口を割る。

「正直なやつだな。背中がむず痒くなるような忠誠心や取り繕うだけの言葉よりもずっといい。」

 そんな彼女の姿は何度見ても新鮮に思えた。自分の世話を担当する使用人はコロコロ変えられる。しかしどの使用人も似たり寄ったりなのだ。唯一。唯一ホルメーだけが特別。

 ヘリオスは目を瞑ったまま、手早く下半身の着替えをさせていくホルメーの後頭部を眺めながら会話する。ぴっしりと、体の各所に付けられた紐を程よく結び終わり、ホルメーはヘリオスの服から手を離す。

「終わりました。朝食は既に出来ております。食堂へどうぞ。」

 その言葉でヘリオスはベッドから降り立ち上がる。ホルメーがドアを開け、促されるように部屋の外へ出る。

 日光。

 廊下の壁には3mの高さはある巨大な窓ガラスが取り付けられており、廊下は外と変わらぬぐらい多量の光を吸い込んでいた。部屋を開けた瞬間、ヘリオスの目覚めきっていない脳髄に浸透する。

「眩しいな。アイツはいつも空にいる。」

「そうですね。太陽は神様が作ったものです。皆に、平等に、あの光を撒いているんです。……と、いきなりどうされたのですか? 返答はこんな感じであっていたでしょうか? 」

 ヘリオスのつい口から出てしまった一言にホルメーが真面目に回答する。ホルメーはなんとも思っていないようだが、小恥ずかしいやり取りにヘリオスの顔は赤くなる。

「まさかフォローされるとは思ってなかったよ。」

 一歩引いて後ろからついてくるホルメーに悟られないよう、少しかっこつけた物言いで返事する。後ろをついてくるホルメーがポツリと漏らしてしまった「思春期なんですかね?」という小さな小さなつぶやきは聞かなかったことにした。

 廊下を突き当り、何度見ても趣味が悪いと思える木彫りが一面に施された分厚い扉を開ける。中は細長い部屋に細長いテーブルがデンと置かれていた。テーブルには白い布がかけられ、皿に乗った食事から、未だ湯気が立ち上っている。

「ヘリオス、早く座りなさい」

 その長テーブルに1人、少し髭を生やした中肉中背の男が気品ある姿で座っている。ヘリオスは促されるままに席に座る。ホルメーは滑るように滑らかな動きで、その男の後ろで待機する使用人の列に紛れる。

「お父様……。」

 ヘリオスにとって見るだけでテンションが下がるものの代表。それが父であった。その命令には逆らえない。幼少の頃から反射神経に近い部分にまで刻まれたその絶対的な感性に心が痛くなる。

 「一人で食べろよ!」と絶叫し、この空間から今すぐにでも出ていきたい。そんな気持ちを心の奥底に沈めつつ席に座る。

「朝ご飯は暖かいうちに食べなければ失礼にあたる。」

 息子の顔などチラ、とも見ることなく優雅に朝食を食べる父、それを前にして少し固まる。

「どうした? 食わないのか? それとも王族を真似して毒味でもさせるか? 暖かい飯を冷やして食べるのか? 」

 父はそれを見てすかさず注意する。普段は仕事人間で息子のことなんて放ったらかしのくせに、こう2人でいるといつもお小言を入れてくる。そんな父がヘリオスは嫌いだった。

 返事もせずに朝食を食べ始める。

 しきりに父は話しかける。

「最近勉学の調子はどうだ? 」

 家庭教師がウザイ。

「領民とはちゃんと仲良くやれているか? 」

 反乱を起こされたくはないからな。

「パーティでは気になる女性の一人もいないのか? 」

 いないに決まっているだろ。

 ……ヘリオスは、そう一蹴したいという気持ちを置いておきただひたすらに無視する。

「生活に過不足はないか? 」

 父がそう言った瞬間、ヘリオスは座っていた椅子を後ろに吹き飛ばし起立する。数十人の使用人が2人を見守る中、乾いた木が地面に叩きつけられる音が鳴る。後ろで控える使用人のうち数人がびくりと肩をふるわせる。

「過不足はないかだと? それは嫌味のつもりで言っているのか?」

 ヘリオスはどす黒い殺意を込めた目を父に向ける。父は父で、なんてことないようにご飯を食べ続ける。貴族の社会は縦社会。少々のことで驚いては下を見られる。ゆえのポーカーフェイス。

 しかしヘリオスは父と長い付き合いだ。その上っ面の表情の下に張り付いた「やらかした」というバツの悪い顔を見抜いている。

 一度決壊したダムの放水はなかなか終わらない。貴族のマナー、プライドでガチガチに固まった感情は砕けるように外へ排出される。

「そもそもこんな首輪を付けているやつなんて囚人ぐらいしかいないんですよ! 勉学? 家庭教師には見下される。領民からは哀れみの目を向けられる。こんなクソみたいな首輪なんてつけてパーティになぞ行けるわけがない。」

 ブレスの1つ挟むことなく一気に言い切る。自分の首に取り付けられた黒い首輪を鷲掴み、外そうと左右に引っ張る。「グガァ」と獣のような雄叫びを上げる。使用人、父、どちらも何も言わず見守る中、泣き入りそうな雄叫びが虚しく通り抜けていく。

「外せよォ! オレが……オレが一体何をした!? 」

 涙を流して、テーブルの上に置かれた蝋燭もなぎ倒し、首輪を掴んで、首を掻き毟り…………それでも父は本心を隠したポーカーフェイスのまま動かなかった。

 ハァハァと、ポタポタと、体液を体外に撒き出す。その呼吸が収まった頃、父はようやく口を開く。

「ヘリオス、お前に何度警告した? 夜は出歩くなと言ったはずだ。お前は3度誘拐されかけた。朝出かける時は必ず護衛をつけろと言ったはずだ。お前は2度捕まった。」

 父は少し震えた声で言う。しかしその目は本気で、絶対にその気持ちを曲げない意志を感じ取る。ヘリオスは蛇に睨まれた蛙のように弱々しくなり、飛び散った今日の朝食、オードブルの数々の上に頭を落とす。朝食である卵類、スープ、サラダ類がその衝撃で左右へさらに飛び散り、使用人からため息が聞こえる。

「ゴネア様。」

「なんだ? あー……使用人。」

 そんな中、1人の使用人が前へ進み出る。ゴネアは、父としてヘリオスと話していた声よりも2オクターブは低い声でその声に応える。

 その使用人……ホルメーは度々自分に鬱憤を漏らすヘリオスのため、少し横やりを入れることにした。

「はい、ゴネア様。現在この首輪を付け始めてから4年は経過したと聞きました。つまり、それほど被害に合っていた昔とは違いヘリオス様も大人になっていらっしゃるハズです。4年……4年も罰の期間があれば十分では? そろそろ許――」

「出来ぬ!!」

 ゴネアは座ったまま、テーブルに両こぶしを叩きつける。カッと目を見開いて周囲の人間に威圧する。ホルメーのことを一目も見ようとしなかったゴネアは……一人、前に出て佇むホルメーをマジマジと観察する。

 そしてわざとらしく作った下卑た顔を浮かべてホルメーの顎を上にかたむけ、嫌みを一つ。

「ふん、私好みの女を使って説得か。ヘリオス、お前も中々貴族に染まってきたじゃないか。」

「違うっ! 」

 ヘリオスの父は……ゴネアは……そんな否定の言葉など受け取ることなく、一呼吸。使用人に口を拭かせ、スっと立ち上がる。そのまま何も言わず、何人かの使用人を引き連れて滑るように部屋の外へ移動していった。

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