第102話
いつもは湯船にお湯をためてゆっくり入るけど、今日はシャワーにした。
これ以上里見を待たせたり、ひとりにするのは、ダメな気がして。
逃げたい気持ちが、どこかにあるんだ。
里見とのことに決着をつけるための時間なのに、それをするのをこわがって、少しでもその時間から逃げようとしている自分が居る。
だから、これが最後なんだよ?
お風呂の鏡にうつる、情けない顔の自分に、声には出さず、言う。
僕が思っていたこと、言いたかったこと、本当はしたかったこと、里見にして欲しかったこと。それを伝えて。そして。
悲しかった。ムカついた。何でって伝えて。それから。
七星との行為の痕跡を泡とシャワーで流して、でも、珍しく残る赤い跡に、胸の奥がきゅっとなった。
『俺って、自分で思ってたより器が小さいんだな。こんな、アピールするみたいに跡なんかつけて』
音を立てて僕の肌を吸って、七星は笑った。いつもの笑い方じゃない、責める笑い。自嘲。
『七星が小さいって言うなら、僕なんか豆太サイズになっちゃうよ』
『………例えが豆太ってとこが真澄だな』
『でしょ?僕は豆太が大好きだからね』
くすって、七星は、今度はいつものように笑って、もう一度同じところを吸い上げた。
その跡。シャワーで流しても残る、跡。
最後にもう一度頭からシャワーを浴びて、僕はお風呂を出た。
里見は居間のソファーに座って夜空観察のファイルを開いていた。
「何か飲む?」
「いや、いいよ」
「何か食べる?」
「いや、もっといいよ」
「………いいのか。何かお腹すいた」
居間と台所の間で、何か飲もうか、何か食べようかと悩んだ。
里見が飲む、とか、食べるとか言ってくれれば悩まず用意するのに。
「それはお前がせっかく俺の作ったカレーにひどいことをしたからだな」
「………うん。ごめん。でも、お前がこの期に及んでまだ黙るからだよ」
「………うん。ごめん」
里見がそっとファイルを置いた。
ひとりでどこまで見たんだろう。
『あの日』は?
悲鳴。
記憶に残る悲鳴がまた、記憶によみがえる。
里見がこっちを見ている。僕を見ている。
「そういう格好を見るのは、お前がうちに泊まりに来たとき以来だな」
何かと思えば、そう言われて。
僕は、長袖のTシャツにハーフパンツ。髪は濡れていて、肩にタオルをかけていた。いつもの、寝るときの、七星が残念がる格好。
里見とは、1年に一度、同窓会のたびに泊まった。
ホテルに。
目的が身体だったから、シャワーを浴びても腰にタオルを巻いたりするぐらい。
そして寝るときは何も着ずに寝ていた。
だから、確かに。
「そうだねって、そんな改めて言うことでもないけど」
「そうなんだけど、昔とそんなに変わってないなって、な」
「変わったよ。そういう里見は?着替えないの?」
「着替える。でもその前に」
こっちって、里見がソファーを軽く叩いた。里見の横を。
だから行った。ソファーに。座った。里見の横に。
「俺がつけていい?」
里見は大事そうに手に持っていた天球儀を、てのひらを開いて僕に見せた。
天球儀は、天球儀だけでもらったから、ネックレスにしたのは僕で、里見はキーホルダーにしていた。
いつも別れ際に次の約束みたいに交換はしていたけど、交換だけしかしていなかった。
「本当はいつも、俺がつけたいって思ってた。待っててって。絶対連絡するからって」
里見から初めて聞く、そんな言葉。
言って欲しかった、言葉。
「………何で、してくれなかった?何で言ってくれなかった?」
「………ダメだから」
「何が?」
「許されないから」
「誰に?」
里見は、僕を見ていた視線を天球儀に落として、何もかもを諦めたような顔で笑った。
絶望の、笑み。
人は望みを絶たれても、笑みを浮かべることができるんだ。
里見を見ながら、そう思った。
「本当、今になって思うよ。何がダメなんだよ。何が許されないだよ」
「………うん」
「バカだった。バカすぎた。何で俺は………」
里見は小さな天球儀をまた握った。
その手が小さく、震えていた。
「里見は優しいから。そして里見は………弱虫だから」
震える手を、僕は握った。
冷たい手。
あの頃とは全然違う手。
「いいよ」
「………夏目」
「つけて」
自分のコイビトに、自分の想いを、自分の手で示したい。
自分のコイビトから、自分への想いを、コイビト自身の手から示されたい。
僕たちがやらずにいたこと、できずにいたこと、でも本当は望んでいたこと。
「ありがとう」
小さな天球儀が、久しぶりに僕の胸にぶら下がった。
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