第21話
悪いことが起これば、良いことでも起こるとばかりに、同じ頃、僕が描いた絵本が賞をとった。
絵を描いて、絵を仕事にしてはいたけど、だからと言って絵本作家を目指していたわけではなく、描くことの延長線上に絵本があって、描いたのだからと出したそれが入賞したと、里見が結婚した頃に連絡が来た。
副賞としてそれは僕のデビュー作として出版され、運良く子どもやそのお母さんたちの目にとまり次を望まれ、僕はますます描くことに没頭した。
里見という僕にとって大きな存在が消えて、その里見がきっかけをくれた絵が、絵の仕事が僕に残った。
僕は仕事に没頭した。
でもしばらくは、里見を引きずった。
あまりにも突然で、あまりにも中途半端、で。
直接別れを告げられた方がまだ気持ちの切り替えができたのかもしれない。
何度も自分に言い聞かせた。毎日言い聞かせた。1週間、2週間、3週間。1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月。
里見は僕ではなくお母さんを選んだんだ。お母さんが望む『普通』を。
だからの結婚。僕との別れ。
もう待っている必要はない。
もう、持っている必要は、ない。
僕はスマホの電話番号をかえて、長く胸にぶら下げていた、幼い最初の別れの日に里見がくれた小さな天球儀のネックレスを外した。
そこで気づいた。
そういえば、最後に里見と会った日、いつもしていた天球儀の交換を、していなかったと。
次に会うための、約束だった。てのひらにおさまる小さな天球儀の交換は。
もうどっちがどっちの物か、分からないぐらい交換した。していた。約束のかわりに。
でもあの日は。最後に会った日は。
最初から、最後のつもりだったのか。あの日が。
僕はそっと、小さな天球儀を引き出しにしまった。
仕事は、イラストの方も順調で、難しいとされる絵本でも驚くほど順調だった。
そして僕は家を出た。やっと。
親に収入が不安定だからと言い訳してずっと居座っていた実家から。
『俺、いつか一戸建てに住みたい』
『………どうしたの?急に』
『うち、親父が転勤族で小さい頃から引っ越し引っ越しで、ずっと賃貸マンションだったから、一戸建てって実は憧れてる』
『じゃあ、将来住むとしたらどんな感じの家がいい?』
『一戸建てなら何でもいい』
『えー?何でもいいって何。何かあるでしょ。何か』
『ない。………夏目が一緒ならどんな家でもいい。中古でもいい。あー、でもそうだな。星。星がちゃんと見えるところがいい。星が見えて、あと海が見えて、夏目。それだけ揃ってれば、文句なし』
『………うん』
『………星、最近見てないな。俺』
そんな会話をしたのはいつだっただろう。
疲れた顔の里見だった。ってことは、そんなに前のことではない。
里見と一戸建ての家に暮らす、いつか。
そのいつかのために僕は支出を最小限にしてお金を貯めた。
元々貯金はしていた。タイミングを見て、里見の近くに引っ越そうと思って。
その貯めていたのを、貯金を、その話を聞いてから僕は、里見と住む家を買うために、と、目的変更した。
そして、別れてから、終わってから、里見と。
僕は貯めていたお金で家を買った。
ひとりで暮らすには、広すぎる家。
高台の、よく手入れされた古い洋館。
ひと目で気に入って、すぐに問い合わせて、思い切って。
海。
ここからは海が見えるよ、里見。
僕たちが毎日夜空を見上げた美浜公園も見える。
もちろん、星も。
別にお前のために買ったんじゃない。
僕たちはもう終わった。別れた。二度と会うことはないだろう。
僕は電話番号を変えた。もしもの時用に持っていたSNSのアカウントも消した。お前の連絡先も消した。
電車と新幹線を乗り継いで3時間なら、どこかで偶然会うこともない。
だから。ないよ。会うことは。偶然、も。
ない、のに。
里見。
お前は僕とどんな毎日を過ごしたかった?
朝は確か和食がいいって言っていた。ご飯と味噌汁と納豆と何か。たまごやきとかの簡単なものって、確か。
『天気がいい日は昼に庭で食べてもいいかもな。鳥にちょっとあげたりさ。猫とか来ないか?餌付けしたら怒られるのかな』
『コーヒーメーカーさ、サイフォン式ってオシャレだよな』
『夕飯は酒を飲みながら作る。もちろんお前も一緒に。俺が教えてやる。そうだな、料理のうちに入らないカレーから教えてやるよ』
『夏目と星が見たい。また記録する?あの頃みたいにふたりで』
里見が時々ぽつぽつと言っていた、来ない未来への言葉たちを集めて、僕はそれをひとりでやった。ひとりの家で、やった。
お前のためじゃない。
お前を待ってるわけでもない。
違うよ。
絵を描くための部屋には、里見の真似をして誕生日に買ってもらった天球儀を、置いた。
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