十二月二十五日は外に出ない
開けっ放しにしていた窓の外から、人間の子ども達が楽しげに歌うジングルベルが聴こえてきて目が覚めた。
悪魔には無用の睡眠など、するものではない。お陰で、すっかり忘れていた昔のことを夢に見てしまった。濡れた頬を拭って寝台から身体を起こし、まだ覚醒しきっていない頭で、あの日のことを思い出す。
なぜあいつのことが気にかかってならないのか、その理由を理解する。
十二月二十五日は、天使にとって大層有利となり、悪魔にとっては少しばかり身動きが取りにくくなる一日だ。キリスト教というものができる前からおれ達はいる。だからキリストが生誕した日だろうが、そんなことはおれたちの霊的原理には何ら影響を及ぼさない。問題になるのは、それによって喚起される、人間達の信仰心だ。
現在から数えて何百年前のことだか思い出せないが、その年の十二月二十五日、おれは少女の姿をとって、ある司祭を堕落させようと計画していた。司祭は伝統のある教会に勤め、日夜、信者のために身を粉にして働く、評判の良い男だった。その神聖な魂を汚すのは、おれのご主人サマにとってプラスになるだろう。
その日を選んだのには、特に理由はない。ただ、いつもよりも司祭に近づく人間が多くなるため、見知らぬ人間でも近づきやすいだろうと思ったに過ぎない。今考えると、油断していたのだ。いつのまにかその地方の人間達に信仰が根付いていたことに、気がつかなかったのだ。
地味で清楚な服装に少女の痩身を包んだおれは、教会の前でミサが終わるのを待っていた。そこまでの道中で既に、人々が特別な行事に触発されて心の底から掘り出した信仰心の気配が、ちくちくと肌を刺していた。しかし、これから司祭に会おうと言うのにそんなことを気にしてはいられない。さすがに教会にまで入っていくような大胆な真似はできないが、教会の前で待つくらいのことは楽な仕事だ。
そう、安易に考えていた数時間前の自分を、くらくらする頭で呪った。人々の発する信仰心は教会の中から外へ確実に染み出し、おれの身体と心を少しずつ蝕んでいた。すれ違う人間が発する微細なものとは違い、教会という場でさらに強められたその信仰心は、悪い酒のように身体を巡る。
「お嬢さん、どうなさいました」
呼び掛けられてハッとした時にはミサは終わっており、目の前で、獲物である司祭がおれの顔を覗き込んでいた。
「……あ、あの……司祭様をお待ちしていたのです」
信仰酔いで尻尾を巻いて逃げ出しだなどと知れれば、他の悪魔から何を言われるか分からない。当初の計画通り、演技をするしか無かった。
「私を……? ではとりあえず、教会でお話を」
「いえ、私は最近、別の国から移住して参りまして、他の神を信じておりますので教会には入れないのです……」
「そうですか。でもだいぶ具合が悪そうですから、立ち話というのも……。では、私の住まいでお伺いしましょうか」
狙い通りの展開だが、ミサの最中に感じた信仰心を更に強めたような、司祭の纏う空気が予想以上に辛い。やはり適当な理由をつけて引き返すべきなのか。
迷っていると、司祭は懐から銀のスキットルを取り出した。この地域では、防寒のために酒を持ち歩いている人間は多い。
「こんな寒空の下にいたから、きっと冷えてしまったんでしょう。気つけに一口飲みなさい」
「あ、ありがとうございます……」
断るのも不自然なので一口煽ると、度数の高いアルコールが、胃の腑に小さな炎を点した。ただでさえ覚束ない思考が、余計に酩酊していくような錯覚。少女の肉体は、いつもとは勝手が違う。
まっすぐ立っていられないおれの肩を抱くようにして、司祭は歩き出した。教会の裏手、ひっそりとした場所にある彼の自宅に入った時には、意識を保つことが困難になっていた。胃に入ったアルコールが血液に回ると同時に、何か別のものも身体を巡っているのが分かる。しかし、それを自力で除外できるような状態では無かった。少しでも気を抜けば、そのまま意識を手放してしまいそうだった。
「その体調では、お話も難しそうですね」
語調とは裏腹、笑みの形に歪んだ司祭の顔に、唾を吐きかけてやりたくなった。さっきは信仰酔いで正確な判断ができなかったのだ……この男、おれが手を出すまでもなく、堕落しきっている。
なす術なく寝台に横たえられ、「神から賜った力で貴方を清めて差し上げましょう」という世迷言を呟きながら迫ってくる男に心底腹を立てていた時、玄関の扉が開いた音がした。
「司祭、いますか? 私です、エンジェルです」
その声を聞いて、司祭は小さく舌打ちした。
「はい、います。ああ、大丈夫、今行きますから」
おれに向かってにっこり笑い、司祭は歩いて行ってしまった。エンジェルとかいうふざけた名前の誰かは、恐らく部屋の奥で少女が薬を盛られて今にも手籠にされそうになっていることには気がつかないまま、家を後にするだろう。そして、おれは誘惑する筈だった相手に狼藉を許す羽目になるのだ。
標的の魂を見誤ったことも、地域の信仰心を侮ったことも、全ては自らの油断の表れだ。人間の肉体など、どうせご主人サマからいただいた容器に過ぎない。痴れ者に組み伏せられようが玩具にされようが知ったことではないが、腹立たしいことに、感覚だけは本物だ。これから自分を襲う一方的な感覚の波を想像するだに吐き気がする。
もういっそのこと、このまま意識を手放してしまった方が楽なのではないか。
そう思った時だった。どたどたという足音とともに、視界に知らない若者が入ってきた。エンジェルと名乗っていた人間か。
「司祭、これはどういうことか説明してくれますね」
落ち着いた声音に、静かな怒気が含まれている。
「その少女は、教会の前で体調を崩しておりまして……それで介抱を」
司祭がしどろもどろ言う間に、若者はおれの脈を測り、額に手を当て、瞼を観察した。
「何か飲ませましたね」
「き、気つけに酒を……」
「では、その酒を見せてください」
黙り込んでしまった司祭に背を向けて、若者はおれの身体を抱き上げた。
「エンジェル、何を……」
「この状態の少女を、こんな所に放って置けますか。私には医術の心得があります。引き取りましょう」
こんな所、という言葉に特に力を入れ、おれを抱えた若者はそのまま司祭の家を出た。
「怖かったでしょう、もう大丈夫です。安全な所で休んでくださいね」
司祭とはまるで違う穏やかな笑顔を見て、緊張が解けると同時に、おれはとうとう意識を失った。
悪魔が聖性のものに敏感なように、天使も本来、魔性のものに敏感だ。だが現在、その精度は悪魔のそれにはるかに劣る。なぜなら、人間は聖性より魔性の要素を多く含むからだ。真に魔性の存在である悪魔が割合簡単に人の中に混じることができるのは、そういう理由による。更に、人間を誘惑するために本来の性質を抑え込んでいる間、悪魔の肉体はよほど攻撃的な状態に無い限り、殆ど人間と変わりない。それは天使に余計な介入を許さないためだが、今回ばかりはその逆だった。
目覚めたおれは、自分が真に聖性の存在に助けられたことをすぐに悟った。エンジェルという若者は、名前通りに天使なのだ。
「目覚めましたね。ご気分はどうですか」
穏やかに尋ねるエンジェルに、最悪だ、と答えたい気持ちを堪えて、おれはどうにか笑顔を作った。
「良くなりました。ありがとうございます」
「それは良かった。しかし、貴方には本当に嫌な思いをさせましたね。あの男には然るべき処置をしますから、安心してください」
どうやら、エンジェルは地方に派遣される、教会の視察役らしかった。あの司祭のような下衆……いや、悪魔からすれば模範的に人間らしい優等生なのだが……の所業を正し、教会を浄化していく役目は、まさしく天使にうってつけのものだろう。
おれの表情を何と取ったか、エンジェルは励ますような笑みを浮かべた。
「教会は、あの男のような者ばかりではありません。どうかこれからも、信仰を大切にしてくださいね」
あまりにも皮肉な言葉だったが、なぜか、おれは素直に頷いてしまった。その天使の言葉に、些かの嘘も誇張も無いことが理解できてしまったからかもしれない。天使は人間の善性を信じる。全く純粋に。目の前で少女の人間性を踏みつけにしようとした人間を見ても、なお。
非力な人間の少女として相対して初めて、天使が眩しく見えた。
あの時のエンジェルが、あいつなのだ。
窓を閉めて、この日特有の、悪魔の肌を刺す空気を締め出す。十二月二十五日には、外に出ない方が良い。あの年以降、おれはずっとそうしてきた。敵に助けられたあの日、おれは初めて天使というものに興味を持った。いや、そう思い込んできた。
だが、違った。その日の記憶が薄れても、おれの中で、エンジェルという天使に対して感じたあの眩しさは薄れなかった。天使というものへの理解がいくら深まろうとも、あの天使の魂を触りたいという感情は消えなかった。
おれはあの時から、ずっとあいつのことを。
古風な暖炉に向かって指を鳴らし、火をつける。照明としての意味しか持たない炎を、ぼうっと見つめる。
あいつは今、別の名前、別の姿をとっている。おれも、無論、少女の姿などしていない。だから、さっきまで気が付かずにいた。なぜ、おれがあいつに、数多いる天使の一人に過ぎないあいつに、ここまで惹かれてしまうのか。その理由が今、分かった。
季節外れの羽虫が一匹、炎に飛び込んで行く。
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