白と黒

 黒革のジャケットが目に入るたび、足がすくむ。

 あの日からだ。悪魔が私を騙し、甘言を弄してこの身体に触れ……動物のするような行為、否、その感覚を「教えて」去った、あの日から。

 神から賜った肉体を悪に汚された恥辱と屈辱で、私は天使として生まれて初めて、何かを呪いたいという感情を理解した。しかし最も呪いたいのは、自分の身体だった。

「一週間ぶりだな、兄弟」

 人通りの無い道で背後から肩に腕を回され、思わずびくりと反応する。確かめるまでもなく、悪魔がぴたりと側に付いていた。

「……なんだ、元気が無いな」

 意外そうな言葉と共に、甘い息が耳を掠める。

「離れろ。それに、私はお前の兄弟じゃない」

「冷たいな。あの夜とは大違いだ」

 身体が硬直した。あの時に触れられた箇所が熱をもって疼くような感覚に、思わず目を瞑る。肩を抱いていた悪魔の手が、そっと頬に触れた。

「俺が怖いのか?」

「……離れろ」

 言葉に力を込めると、悪魔はぱっと離れた。

「おいおい、戦争する気かよ? お陰でジャケットに穴が開いちまった」

 悪魔が大袈裟に腕を振る。確かに私の放った聖なる空気の刃によって、小さな裂け目が開いていた。が、それはすぐに塞がる。

「お前が先に仕掛けてきたんだろう。あんな……」

「あんな?」

 悪魔はニヤニヤ笑い、またゆっくりと近づいて来た。

「あんな、何だ? お前はあの夜のことを何だと思ってるんだ?」

「それは……」

 身がすくむ。蛇の瞳孔に見つめられ、その手の感触が脳裏に浮き上がる。身体の芯が熱くなる。

 いつのまにかすぐ目の前に立っていた悪魔が、倒れそうになった私の身体を抱きとめた。

「天使サマ、気をつけてくれよ。綺麗な身体に傷がつく」

 私は顔を背けて離れようとしたが、悪魔が腕に力を入れると、全く動けなくなってしまった。少しでも離れようともがいたが、結局、その腕の中に絡めとられていく。

 この男が怖いのかどうか、私にはよく分からない。そもそも悪魔という存在を怖いと思ったことは無いし、敵とは言え、そこらで遭遇したとしても、無闇に力をぶつけ合えば人間に悪影響を及ぼすだけだ。先ほどのような反射的な力の行使は、百害あって一利無しなのだ。

 私が思い切り顔を背けた、その首筋に、悪魔が舌を這わせたのが分かった。思わず呻いて首を振るが、悪魔はむしろ楽しそうに私を抱きすくめた。

「天使サマ、そんなに暴れると人目を引くぜ」

「…………!」

 重要なのは人目ではない、主や他の天使たちの目だった。私がおとなしくなると悪魔は腕の力を抜き、今度は穏やかな口づけを首に落とした。ゆっくり、そっと、愛おしむような口づけを繰り返されると、あらぬ錯覚に陥りそうになる。

 悪魔に愛なんてものは分かり得ないのに。

「愛がわからなければ、憎しみも分からない筈だ。違うか?」

 またも思考を読まれ、私は答えに窮する。

「世界はグラデーションなんだよ。両極端な色なんて無い……白は黒より白く、黒は白より黒いだけ……全ては地続きで、緩やかに繋がっているんだ」

 二股に分かれた舌が耳の裏をくすぐり、浮き出た血管の部分を黒い爪で撫でられる。くすぐったいのか気持ち悪いのか判別のつかない感覚に身をよじるうち、段々それが心地よくなってきて、私は泣きたくなった。

「快も不快もグラデーションだ。分かるだろ?」

「分かりたくない……」

 ふふ、と悪魔が笑う。

「素直だな」

 一瞬、その身体が離れた。ほっとしたのも束の間、建物の陰に連れ込まれる。暗がりの中で鈍く光る眼差しに吸い込まれそうだ、と思った刹那、唇を重ねられた。

「んんっ……!」

 この間はどうにか押しのけられたが、殆ど抱きしめられている今の体勢では、どうすることもできない。悪魔の唇の感触が如実に伝わってくる。どこまでも冷静な息遣いが、私の吐気を奪っていく。

「んっ……ふ……っ」

 どうしたら良いのかも分からず、覚束ない呼吸を繰り返すうち、悪魔の右手が私の髪から首、背へと撫で下ろされていくのを感じて、余計に息が上がる。なぜ、こんな些細な感覚に神経が集中してしまうのだろう。長く、よく動く指がそっと背筋に沿って動き、ぞくぞくする。無意識に悪魔の首元にしがみつくように腕を回してしまっていたことに気づき、顔が熱くなる。

「積極的で嬉しいな」

「…………っ!」

 悪魔がにやりと笑う、その表情にどきりとする。全く愉しんでなどいないように見える冷たい視線の中に、消しきれなかった情念の炎が見える。寂しさと、それと、……。

「俺の魂を覗こうなんて、趣味の悪い天使サマだ」

 再び唇を塞がれ、指のように器用に動く舌が侵入してくる。知識としては、そういう行為があることも知ってはいた。しかし、実際に体験することになるとは思ってもみなかった。自分以外の者の舌が歯列を這い、私の舌に絡みつく。生理的な嫌悪感がこみ上げてくるが、その中には微かな陶酔も混じっている。頭がくらくらして、ぼうっとする。

 まただ……一週間前も同じような感覚に陥り、ろくな抵抗もできなかったのを思い出す。が、やはり何も出来ない。手足に力が入らず、瞼がとろんと重くなる。代わりにどんどん鋭敏になる皮膚感覚が辛い。悪魔の指が触れた箇所に、堕落の炎に焼かれるような心地よさが広がる。人間が誘惑に屈する理由が、理解できてしまう。

「ん……」

 腰から腿にかけて撫でまわされ、堪えていた声が漏れてしまった。冷たい手が、内股も優しく撫でる。熱に溶かされそうな私の頭はぼんやりとその先に起こることを予感し、鼓動が早まっていく。

 しかし、悪魔の手はそのまま離れた。唇も離れ、私の身体は突然、解放された。

「な……」

「そんなに残念そうな顔をするなよ、天使サマ……期待を裏切ったか?」

 悪魔は笑い、そのまま背を向けた。

「何がしたかったんだ……私の身体を……」

「だから言ったろう、これは実験だって。人間の感覚を探求する……。しかし、これからは人間の感情ってものにも肉薄出来ると良いな」

「何を言って……」

 戸惑う私に構わず、悪魔はひらっと手を振って消えてしまった。後には、未だに熱を持って苦しく疼く肉体と、それを持て余した私だけが残された。

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