あいのないひと

染井雪乃

まけいくさ

「だから、何で、女性だけが出産の痛みを負い、育児の大半を負担しなければならないのか、合理的な理由はないでしょう」

 深夜のバー。有紗ありさは隣り合う男を見つめた。バーに通う常連の一人で、小さな会社を経営する、社長だという。男社会を生き、ホモソーシャルな世界観のなかにいる。妻子はいるが、子守などしたこともないそうだ。

 有紗は、この男がロジカルであるところだけは、気に入っていた。職場にいるかのような、安心感を得られるからだ。データを中心に動く世界。それが研究の世界だ。そうあってほしいし、そうあるべきなのだ。

「リサさん」

 男が有紗の偽名を呼んだ。いくら価格設定が高めのバーとはいえ、本名を使うほど、有紗は脇が甘くない。男なんて生き物は、信用に値しない。女という女を消費する敵なのだから。

「うちの家内に限って言うなら、子ども産んで育てて、私の代わりに育児も家事もすることに不満はないと思うよ。だから、これまでも夫婦をやってこられたわけだしね」

 経済的不均衡を無視した発言だと思った。この男は、己のパートナーが自分と同じだけの収入がないから、生活のために、夫婦を続けている、いや、続けさせられている可能性に思い至らないのだ。

「あなたのパートナーの方が納得していても、私は、女性にのみその痛みが強要される現状を、よくないものと考えています。それを看過してきたからこそ、新生児や乳児の遺棄事件で、母親のみが罪に問われてきたのでしょう?」

 男は、マスターに一言告げた。

「リサさんに、何かノンアルで作ってやってくれ」

「承知しました」

 少し落ち着こうか、と言われたようで、有紗はいらいらした。


 男に奢られた爽やかな色合いのノンアルカクテルを味わいながら、有紗は思った。この男も、言うだろうか。

 優しい口調で、男は言う。

「リサさんは、女性にのみ出産や育児の痛みがいくこの現状をよくないと思っている。でも、その痛みを愛しいものとして、受け入れている女性もいる。だったら、痛みも否定されるべきものではないと――」

「愛があれば、理不尽も不平等も併せ飲めるというのは、愛という名目で、毒をあおらせるに等しい行為です。パワハラやセクハラがあっても、結果としてその人が成功に導かれたならよかったとする文脈と、何も変わりません」

 男を遮って、有紗は早口できついことを言った。かわいそうな女性達が、何一つこの男の目には入っていないのだ。

「それは、そうだが、リサさんの言うことには――、何と言えばいいのか、愛がないように、思う。科学で女性の負担を減らし、出産の痛みを減らし、果ては人工子宮の実用化までを望むというのは、それは、母親の愛情も何も考慮されていないんじゃないか」

「愛情のために、痛みを負えというのですか。痛みは、苦しみは、忌避すべきものでしょう」

 まっすぐに、男を見据えて言った。生来のきつい目つきが鋭くなっていることは、わかりきっていた。

 有紗は痛みも苦しみも嫌いだ。毎月生理が来る、女性の身体のしくみそのものが憎い。生物学的に付与された不平等そのものであると思う。

「それを、味わわなくていい男性には、いかほどの苦しみか、想像もつかないのでしょうけれど」

 意地悪に、有紗は言った。

「リサさんは、子どもを産んだこともないだろう? それなのに、生殖を語るのかい。こんなに、愛のない議論は初めてだよ」

 言われた。また、言われた。言われてしまった。

「愛が、どれほどのものですか」

 有紗は、涙が滲むのを隠しきれなかった。

「愛がなくても、合理的に、倫理的に、女性の権利を語ることはできます」

「語ることはできても、愛のない人の言葉に、共感は得られないと思うよ」

 男は、静かに言って、有紗の分まで会計してしまった。

「泣かせてしまったお詫びだと思ってくれ」

 有紗は、身体中が熱くなるのを感じた。恥をかかされた。そうとしか、思えなかった。完膚なきまでの、敗北。

 また、愛がないって言われた。愛がないから、納得できないと。

 職場の女性達、男性達、そして大学の同級生。バーで出会った男。

 誰もが有紗に「愛がない」と烙印を押した。そして、それを理由に有紗のロジックを軽んじた。

 許されない。

 許さない。

 だって、私は、正しい。


 だったら、そう、あいをつくろう。

 自分にだって、その機能は備わっているのだから。

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