鏡の中の女

ソロモン

鏡の中の女

 私は至って普通の人間である。勤め先は一般的な中小企業で給料も一般男性平均水準。これといった特筆すべき才能もなければ、顔に目立った特徴があるわけでもない。楽しみは毎朝早く家を出て近所の喫茶店で飲むコーヒーと休みの日の最終的には昼まで寝ることになる二度寝である。だがこの普通さに嫌気がさしているというわけでもない。それなりにこれはこれで充実している。いや、本音を言うなら慣れてしまったという表現が正しいかもしれない。


 独創性、個性、自分らしさ。そんな言葉をなぞって個性を追求し、行動していた学生時代だったが一度、社会という大海に乗り出したものなら、危難ある個性をもって単体で泳ぐより確実性のある没個性の群れの一部となって泳ぐほうがはるかに生きやすいかを実感してしまったのである。滝という眼前に立ちはだかる試練を乗り越えずして龍にはなれないと頭で理解していても、浮かんだ消極的な文言の数々が邪魔をして、何もせず楽に滝つぼを泳いでいる鯉。まさにそれが私である。

 そうやって普通に生き、これからも普通に生きていこうと思っていた私だったが、誰にでも人生の転機というものは訪れるらしく、それは思いがけないものだったりする。永久に揺らぐことはないという強い思想ほど意外と簡単にほぐれてしまうことがときにあるのだ。


 紺のスーツに臙脂のネクタイ。髭は剃ったし、きちんと歯は磨いた。洗濯物には少し手を取られた。平日の服装は変に遊ばずにきっちりと着こなすのが私流である。それから革靴を履くと、おもむろにドアノブに手を伸ばした。

 アパートのドアを開けると同時に朝の涼しげな風が頬を撫でた。昨晩まで降っていた雨が蜘蛛の巣にかかって雨露の花を咲かせている。念入りに施錠すると私はつま先を行きつけの喫茶店に向けて、ゆっくり歩き出した。

 この町も二年前の駅近辺の大幅開発を皮切りに、高層ビルやら50階建てマンションやらが雑草のように次々と生え、一昔前には誰もが想像しなかったような風景が出来上がってしまった。利便性の向上にはたしかに目を見張るものがあるが、どこか胸の奥に虚しさが残るのはなぜだろう。自分は両親の薦めで都市部の有名大学に進学させてもらい、Uターン就職することになったが、町が変わっていってしまう様子はただ眺めているだけでも顕著だった。

 この町に住んでいた両親も去年末に他界し、すっかり変わり果ててしまった故郷。何の未練もないはずなのに、また言い訳が頭にちらついて、良い面良い面ばかり見るようにして、私は世界を狭め、自由に身動き一つできなくなっていたのだった。


 喫茶店の前についた。誰が待っているというわけでもないが、いつもよりは出発が洗濯を干していたので少し遅くなり、10分ほど到着には遅れていた。大したことじゃない。

 扉の隙間から漏れた挽きたてのコーヒーの香りが鼻の奥をくすぐる。ドアノブを握って引くと軽やかに鈴が鳴った。照明の暖色が落ち着いた雰囲気を演出している。店内には初老のマスターが一人。不愛想だが、手際が良く、彼の淹れるコーヒーは絶品である。マスターの不愛想と、私の積極的に相手に絡みにいかない性質が重なって、店内はいつも静かで居心地がよかった。対立しているというより、静寂なる空間を共に構築しているという方が正しかった。


 私がこの喫茶店に通うのをやめられないのも、この土地以外に生きやすい土地はないという、いかにも限定的な視野しか兼ね備えていない自分を正当化する言い訳になっているのかもしれない。


 この喫茶店は私の幼い頃からあって、今ぐらいの時期になるとよく親父にこの店でかき氷を食べさせてもらった記憶がある。馴染み深いこの喫茶店は都市化開発の魔の手からも免れ、ひっそりとこの路地裏に佇み続けている。ここだけは以前とは変わらず、まさしく「都会の喧騒を忘れられる」という表現にふさわしい場所であった。


 私は店に入ると今日も一番左端のカウンター席に座った。この席は私専用と相場が決まっていた。

 「ご注文は?」

 マスターが右から左へとスライドしてきてかしこまったように訊いた。

 私は少し考えるふりをして、メニューを形式通りにメニューに目を通すと、

 「・・・ブレンドコーヒー」

と言うと「またそれか。あんたも好きだねえ」なんて言いたげな顔をして、マスターはその場を離れた。

 しばらくして花柄のコーヒーカップがソーサーとともに目の前に置かれて、熱いコーヒーが淹れられた。これが注文の一連の流れである。

 自分としては私が席に着く途端に、ブレンドコーヒーがくるといいなあなんて思うのだが、マスターはそういった私の意志を汲んでくれることはない。


 そしてこれは今日気づいたことだが、私の座る左端の席のさらに左にはいつからあったのか、全身鏡が置かれていた。埃も被っていない、真新しいその鏡は異様な存在感があったが、詳細をマスターに尋ねようとは思わなかった。プライベートなことに足を踏み込むことをは危惧したのもあるが、勝手にこの鏡がどういう経緯でここに来たのか想像する方が暇つぶしにもってこいだと思ったからだ。


 それから私はしばらくその鏡をじっと見つめるて、あれやこれやといきさつを推測しながらコーヒーカップ片手に近寄ってみた。マスターは私に反応することはなく、現実でも鏡の中でもグラスを磨いている。

 鏡では左右逆に映った私が、私を見つめる私を見つめている。鏡というのは神秘的である。光の屈折による現象であることはわかっているのだが、多角的に見れば三次元や二次元の概念そのものが逆さまになり…いや神秘というものは解き明かそうとするほど、脳の理解が追い付かなくなるものだ。やめておこう。


 そんなことを思っていたら突然、入り口の扉についた鈴が軽やかな音をたてた。こんな早い時間に私以外に珍しいな、と音がした方向にちらっと目をやったがそこには誰の姿もない。「風だろうか?」と口の中で呟きつつ、鏡に向き直った私は思いがけない事態に遭遇する。

 鏡がわずかに曇ったかと思うと、曇りが晴れた頃にはさっきまで鏡に映っていた私の姿が忽然と姿を消していたのである。事態が思うように呑み込めず、膠着しつつ、観察を続けていると鏡の中で私の丁度座っていた左端の席に若い黒いブラウスの女性が腰を下ろした。席を振り返るも勿論、そんな女性は店内には影も形もない。頭が混乱しかけている。鏡にさえ映ってはいないが、おそらくこれ以上ないような驚愕の表情を浮かべているに違いない。


 鏡の中の女はかけていた黒色のショルダーバッグを外して膝の上に置いた。後ろで束ねたロングの髪に、白く透き通るような肌、整った輪郭、袖の短い黒いブラウスにカーキパンツに赤いパンプス。町で出会ったなら思わず、振り向いてしまうような艶やかさを彼女は持ち合わせていた・・・、なんて見とれている場合ではない。一体、何が起こったというのか。


 「ご注文は?」

 鏡の中のマスターが言った。さすがマスターである。相手が誰であろうと対応は一緒で、速やかに注文をするように要求している。鏡の中のマスターは、私の目の前にいるマスターと風貌も客への応対の仕方も間違いなく、同一人物だった。鏡に映らない私と映るマスターとにどういった違いがあるのだろうか。数多の疑問が錯綜する。

 彼女はそれを受けて短く唸ると、「ブレンドコーヒーを」と端的に言った。

 すぐさま花柄のカップが用意され、マスター自慢のコーヒーが注がれる。ゆらゆらと湯気が上がった。私は鏡に釘付けだった。驚いている反面、彼女の所作の全てが流れるように行われたからである。

 鏡の中のマスターはコーヒーを注ぎ終えると奥の扉にすっと消えた。その後に気づいたがこっちのグラスを磨いていたマスターもいつの間にか姿が無かった。

 まるで私と彼女だけの空間を提供するかのように、ひっそりと消失したのである。


 「・・・・・ん?」

 彼女が私の視線に気づいたようで、彼女の視線がコーヒーからゆっくりと私の方向へと移る。目が合った瞬間、彼女は自分がそうであったように驚き慌てふためくと思ったが、意外と反応は薄かった。目を丸くし、口に手を添えて、体を微かに引いたのみだった。


 「お、おはようございます」

 私は照れ臭そうにそう言いながら後頭部に手を当てて軽く会釈をすると、鼻の頭を掻いた。改めてみても綺麗な顔立ちである。直視するにも眩しかった。


 「おはようございます」

 彼女もそう言いながら恐る恐るといったように会釈を返した。反応には見せなかったが向こうも驚いているのだろう。当然だ。それから不思議そうに首を傾げると、

 「あれ?わたしが映ってなくて・・・あれ?どういう理屈?」

と、言って彼女は鏡へ駆け寄り、その縁を掴んだ。それから鏡の中の世界がぐわんぐわんと左右に揺れた。彼女が左右に鏡を揺らしているようである。しばらくしてから揺れは収まった。


 「自分もよくはわからなくて。なんか、ほんと。不思議ですよね」

 私は軽く言った。ありのままに伝えたつもりだ。ただ目の前の出来事は不思議という言葉がふさわしかった。光の屈折などの原理を完全に無視している。しかし、ずっと慌てていても仕方がない。まずは簡単にコミュニ―ケーションを図るのが最良の一手だ。

 「あっ、自分、樋口っていいます」


 「あ、渡邊です」

 彼女はそう名乗った。席にちょこんと腰をかけると続けて言う。

 「はい。ええと・・・樋口さん、はいつ頃からそこにいらしたんですか?わたしが入る前から何か変わったことがあったとかは?」


 「あれは・・数分前ですね。そのときは・・変わった様子はとくになかったです。先ほど渡邊さんが入店されたときに鏡が曇って・・・現状に至る感じです」

 彼女は深く頷いた。顎に指を添えて、難しそうに考えている。さながら名探偵である。何か考えたところでわかりそうなものであろうか。もはやこの時には私は思考することを放棄していた。


 「えと、いつもこの時間帯に店に来られるんですか?」

 「まあ、はい。そうですね。今日は10分ほど遅れてきましたが」

 「あ、わたしもちょっと遅れてきたんです。今日は朝、ばたばたしちゃって・・・」

 「ああ。そうなんですか。天気予報も今日一日、快晴ってことで洗濯物干してたらつい・・・」

 「わたしもです。昨日までずっと雨降ってたので、久々の洗濯日和だなあなんて思ってたら。つい」

 言い終えるとお互い恥ずかしそうに頭を掻いた。そう。久しぶりに晴れた。洗濯物を干しながら今日の暑さはこたえるぞと空を睨んだものである。だがずっと室内干しがスペースをとって厄介だったし、蒸し暑いしである意味助かった。

 それからさらに彼女が続ける。

 「んーと。あれ?何を注文されたんですか?」

 「ああ・・・ブレンドコーヒーです。平日の朝は、ここでブレンドコーヒーを飲むのを日課にしてまして」

 それを聞くとまた深く考え込むような仕草をした。彼女にとって、ひっかかる部分があったというのだろうか。


 幾分かの間をおいて再度、彼女が口を開く。

 「・・・そうなんですか。なるほど・・」

 「どうかしましたか?」

 思い切って私は訊いてみることにした。彼女のこの状況下での判断力、適応力はすさまじいものだ。何か思っているものがあるなら伝えてくれると助かる。

 「・・今から変なことを言うんですが、深くは考え込まないでください。あくまで持論っていうか、何ていうか。自分なりに想像した結果なんですが・・・」

 「?・・はい・・わかりました」

 彼女の焦りを含んだような話し方に多少の疑問を抱きつつも私は承諾した。


 「・・・この状況ですが・・平行世界?が繋がったんじゃないか、と」

 「え?」

 思いがけず、私は声を漏らしてしまった。平行世界。 噛み砕こうとしてみるが が一向に理解が追い付かない。平行という言葉はそもそも交わらないものを指すのではなかったか。


 「・・いえ、わたし、オカルト系とかに結構興味あるんですがおそらく考えられるとしたら・・・」


 彼女の説明はこうだった。世界は各個人に選択肢が提示されるごとに分岐しており、こうしている今も無数の平行世界が誕生している。その中で今日、「洗濯物を理由に10分遅れてくる」「左端の席に座る」「ブレンドコーヒーを注文する」などその他多くの選択や状況などの条件が共通した結果、鏡を介して平行世界同士が繋がり、一時的に交信ができるようになった。鏡が曇ったのは彼女が入店したことで条件が達成され、さらに継続されるためにいくつか選択肢が発生し、順当に私と彼女の意志が合致して今があるというのだ。非現実的で、にわかには信じがたい話である。

 しかし、いくつか質疑応答を重ねるごとに私と彼女の今日の生活リズムには先に挙げたものに加えて、多数の共通点が見られた。となると、原因が全く不明の現状でその説に信憑性がないとは言いきれない。


 さらに彼女と色々と言葉を交わすうちに初めのようにどぎまぎすることはなくなった。慣れてきた感じがする。彼女は冷静に私の話を聞いて自分の体験と照らし合わせて見解を述べた。どれも平行世界という概念を受け入れさえすれば筋の通ったものだった。

 次に私は疑問を投げかけた。彼女ならこの疑問を払拭してくれるに違いない。

 「ですが、もし渡邊さんの仮説が正しかったとしても、繋がった意味がまるで読めない。なぜなんでしょう?」

 「それはきっとこの現象はわたしたちの考えが及ばないほどの超自然的な力が作用しているからに違いないですよ。神秘というものは解き明かそうとするほど脳の理解が追い付かなくなるものですから」

 間髪入れずに彼女は即答した。私は呆気に取られてしまった。まるで私の数分前の思想から抜粋したかのようにそのままだった。そんな答えは予期していなかったが確かにそうかもしれない。常識の範囲を超えている以上、謎を解き明かすことは不可能か。

 なにより驚いた。思想までも共通しているとは。

 「でも・・・なんででしょうね。わたしのもあくまで仮説ですし、好きに想像するのがいいのかもしれません。きっと、模範解答なんて用意されてないんだろうし・・・」

 彼女はそう続けて発した。繰り返すようだが明確な答えでこの事象は解き明かされることはない。そういう意味ではこの鏡を含めた空間の全てが哲学的に映る。


 「・・・そうですね。それなら、今までは共通することばかりに目を向けてましたがあえて、視点を変えて、違った点を探るのはどうでしょう?そこに何かがあるかも」

 「いいアイディアですね」

 「それでは・・そっちの世界のここはどんなところなんです?こちらと同じように緑の少ないビルだらけの町なんでしょうか?」

 考えるよりも先に反射的に私は質問していた。

 「いえ、緑も以前よりは減ったかもしれないけど、まだかなりありますし。少し前には駅前から都市化するとか、そういう話も出ましたが、住民の反対意見が思った以上に多くてなくなりました」

 「そうですか。こっちはその都市化が推進されて今は軒並みビルばかり。唯一、ここが心落ち着く場所になりました」

 俯き加減に私は呟く。

 「なんとなくですが、残念そうですね。反対はされなかったんですか?」

 「はい・・・あの・・ですね・・・」

 思ったように言葉が出ない。以前から気にかけていた核心を突かれてしまった。何とか絞り出した言葉は自然と質問になった。


 「・・・ちょっと愚痴みたいになるかもしれないですがいいですか?」

 いけない、断りづらい訊き方をしてしまった。「申し訳ない」と言う口を作ろうとした瞬間に、真っすぐこちらの目を見て真面目な顔をして「かまいませんよ」と彼女は返した。私は安堵した。心置きなく話ができるようにしてくれる彼女の気配りに感謝した。

 「ありがとうございます・・」


 「私は・・つい、流れに乗ってしまったんです。社会に出て、気づきました。社会は私個人なんて求めていない。社会のために尽くしてくれる無表情な道具を欲していると。それを知ると怖くなったんです。自分らしさをさらけ出してしまうのが」

 そこで一度、話を切る。怖いのだ。恐ろしいのだ。怯えているのだ。いつでも替えがきくような不安定な立場で生きていく、日常の中に当たり前のように居座っている普通。あれもこれも全て自分の甘さが招いたというのに。

 「危ない橋を渡るより横に舗装された道路があるならそっちにいこう。楽な方へと逃げました。その方が生きやすかったから。だから都市開発にも反対しないただの傍観者となってしまいました。もし社会がこの町の都市化を望むなら、私はそれを受け入れようと」

 彼女は何も言わない。私は最後の力を振り絞って声を出す。

 「でも私は結局、受け入れきれなかった」

 肩が重い。言い訳だらけの人生が重荷となって私を潰しにかかっている。自分が好きだったあの町、両親が好きだったあの町。それが失われた今、まだ言い訳ばかりして留まっている自分はどこまで愚かか。

 この繋がった二つ世界の差異を調べるのに一番初めに出てきた質問が「この町の景観について」であったのは、どう見ても、私がこの世界にいるのを望んでいないことを証明するに足りうる情報だった。もはや後悔してもとうに遅いのに、どうにもならいことを知っているのに、私の心はあの町を希求している。私の心は未だあの昔の町に取り残されたままなのだ。

 私が選択を見誤ったから、こんな世界ができたのかもしれない。


 「でも自分からは逃げられない。結局は自分を殺しきれず、後悔している。わたしの住んでいる世界が樋口さんが求めるような世界で、もしかしたら樋口さんの選択一つで実現可能だったかもしれないから」

 彼女が憐れむように言った。だらしのない男だと映っているだろうか。社会のシステムを言い訳にして自ら動こうとしないこの体たらく。如何におぞましく見えているか知れない。


 だが私は今までこのやり場のないような気持ちを誰にも打ち明けようとしなかった。

 私は変わろうとしているのか?

 頭の中で思い悩む頻度は多かったが、私は今までで一番、自分と向き合おうとしている。そんな気がする。いや、絶対にそうだ。

 「はい」

 私は大きくかぶりを振った。決意の眼差しで彼女を見つめて。


 それを見た彼女は私のその目を見て、

 「樋口さん」

と、呼びかけた。私は向き直る。

 「わたしの話も聞いてくれますか?」


 彼女の話?一体、何なのだろう。

 だが答えは決まっている。彼女がそうしてくれたように私も彼女に真摯に向き合おう。当然のことである。

 「勿論です」

 「ありがとうございます」


 「実は・・・わたしは子どもをおろした過去があるんです」

 彼女が切り出した話は衝撃だった。だが私は大きく反応しないように心掛けた。彼女は私と同じように過去に向き合おうとしているのだ。彼女を話半ばで邪魔してはいけない。


 「妊娠が発覚したのは17歳のときです。相手は当時、付き合っていた彼氏でした。わたしは悩んで、悩んで両親にはなかなか打ち明けられなかったんですが、やっと打ち明けることができた時には法律が定める中絶手術が可能な期間のぎりぎりで、両親はわたしの貞操観念の無さに絶望し、焦り、怒り、出産なんて許されるわけがありませんでした」

 若い年齢層での中絶手術の施術件数が近年、増加傾向にあることは度々、耳にしている。彼女の告白の言葉の一つ一つにはリアルがあって、どれも重くのしかかるような確かな重みが存在していた。


 「彼氏も最初は産もうなんて優しく言ってくれましたが社会的な目、自分の両親や親戚からの目を気にして、最後にはおろすことを提案し、わたしから離れていきました。あるときを境にまるで他人のように振舞うようになったんです」

 「でもわたしが悪い。責められても仕方がない。両親にも許されるわけがない。彼氏もわたしを見放した。それでも。それでもわたしはたしかにお腹の子を産みたかった。ひとつの命がわたしの中に宿り、この世界で生きようとしている。母性本能というか、やっぱり愛情が湧いてきました」

 そこで彼女は息をついた。私はただ黙って、彼女の次なる言葉を待っている。同性として彼氏の行動は間違っているといますぐにでも言ってやりたいところだが、それは今、挟むべき言葉ではないとぐっと堪えた。彼女は相当に自責の念が強い。中途半端なところで。私の意見を言ったとして、彼女のペースを乱すだけに他ならない。


 「・・でも思いのたけをぶつけるには心が追い付きませんでした。今更、産みたいだなんていえない。それは絶望している両親をさらに追い込むことになる。わたしはどうにか自分を押し殺そうと現実から目をそらしました。両親に従っていれば間違いはないんだと自らに言い聞かせました」

 彼女の沈み、濁った眼から彼女の想像する「産みたい」という想いを伝えた時の両親の姿が私の頭の中に流れ込んでくる感覚がした。顔を真っ赤に染め上げて、息巻き、感情のままに告げる彼女の両親の姿が鮮やかに浮かび上がる。

 「育てていく覚悟があるのか?お前に」「あなたは責任をひとりでしょいこめるの?」「老後の生活さえも不安なのにお前とその子どもを養っていける経済的余裕はうちにはないぞ」「おろすのが一番いい選択です。あなたのために言ってるんですよ。それに産まれてきた子どもに父親がいないなんて不憫でしょう?」「お前の身体に負担がかかることはわかっている。だが今、一番、危惧されるのはお前のこれからの人生だ」「わかったわね?考え直してちょうだい」

 あくまで私の想像した彼女の想像だが、話を聞いているとそう想っているようでならなかった。


 彼女は罪悪感に駆られ、両親を追い込むまいとして、想いを打ち明けられず、自分を追い込んでしまうことになった。

 「そして、忘れもしない。10月10日。わたしは手術を受けました。術後の体調は良好でしたが、ずっとわたしがお腹の子を殺したんだという想いは今日に至るまで消えていません。わたしは結局、現実から目をそらしきれなかった」

 彼女の目には涙が浮かび、今にも溢れんとばかりに目の淵でゆらゆら揺れていた。後悔。言わずともその色は行動の全てから滲み出ている。問題の大小や取り扱う事柄などは一致してはいないが、私たちは言葉足らずであった自分たちの過去をひどく悔いているのだ。


 私の全身を駆け巡っている血が沸騰した。私が今できることは何か。変わらず黙っていることではない。「命」というかけがいのないものを取り扱っていても根っこは同じ。だが彼女は背負いこみすぎている。

 「・・・全部・・全部背背負いまなくていいと思います」

 「え?」

 「そんなの・・辛すぎるでしょう。自分は一人の命を、自分の子の命を奪ったなんて考えて生きていくなんて。たしかに本質的にはあなたの軽率な行動が招いた結果かもしれない。でも悪いのはきっとこの社会です。17歳の女性が子どもを産むのをよしとしない風潮のある社会」

 彼女はゆっくりと目を閉じた。涙が一筋の線となって頬を伝う。彼女がなぜそうしたかはなんとなくわかった。人は何かを考えたり、思い返したりするときは目を閉じた方がいい。

 それに私の話に耳を傾けてくれていることがわかるだけで私は十分に話ができる。


 「あなたは言った。彼氏は社会的な目を気にして離れていった、と。だが、はっきり言ってその彼氏は最低の男だ。本来なら父親たる男としてあなたを支えて、社会の目になんて屈せず、ともに生きていく選択をする。だがあなたが相手の選択を誤ったわけではない。人との出会いなんて一期一会。選択なんてあってないようなもの。強いて言うならその彼氏のような人間を作り出した社会が悪い」

 「両親についてもあなたを誰よりも思いやる存在だとしても、やはり人間である以上、世間体を気にするするし、世俗的な観点からあなたの嘆願も受け入れてはくれないと思うのも無理もない。でももっとあなたはわがままを言ってもよかったかもしれない。抱えているのは不安でも、恐怖でも、想いを声に出して伝えなくちゃ始まらない。思いのたけをぶつけるっていうのはそういうことだ。そして強いて言うならそんなマイナスな想像を抱かせてしまうような社会が悪い」

 ああ。私は何を言っているのだろう。私がとやかく言える立場か。丁寧語で喋ることも忘れてしまっている。我慢していた分もあってか次々と言葉が溢れてくる。このまま彼女がまた塞ぎ込んでしまうのは心配だ。そんな思いが私の唇の渇きも吹っ飛ばし、脈々と言葉となって湧き出てくる。

 また、自分に向けて話している側面もあるのだろう。「声を出して伝えなくちゃ始まらない」なんて聞こえはいいものの、私ができなかったのも含めて極めて説得力に欠ける。

 されど構わず、このまま喋ってしまおうと思った。そのほうが悶々としているこの気持ちが晴れると思ったからだ。それに彼女の心が少しでも癒えてくれることを願ったからだ。

 彼女は十分苦しんだ。これ以上の贖罪は何ももたらさない。

 本人から罪の意識は消えないだろうし、身籠った子どもをとった数個の選択で間接的にも殺してしまったという事実はある。だが彼女はそれを全部背負いこんで今日まで生きてきた。誰のせいにもせず、自ら悪となった。

 これ以上の贖罪を誰が求めようか。

 誰かが許してやらないといつかもたなくなることきがくる。今、自分が心の重荷を解いてやらなかったらきっと彼女の先を案じて後悔することになる。嫌われても自分の意見は全部言ってやる。私は変わったのだ。普通じゃなくてもいい。曲がりなりにも己の信じる道を進むべきだと気づかされた。彼女に。

 あなただけが悪いんじゃない、と。


 「だから、あなたが全部悪いんじゃない。それは知ってほしい。責任転嫁したらいいとかじゃなく、総意は全責任をあなたが背負う必要はないってこと、です・・・」

 私は言い切った。語尾は僅かにかすれていた。彼女は私を遮らず、一貫して目を閉じ沈黙していたがついにその目を開いた。目の色はさきほどより澄んでいるように思えた。


 「ありがとうございます。少しは心が軽くなったような気がします。誰かにそんなことを言ってもらえる機会があるとは思ってもいませんでした」

 彼女がしんみりと言った。真意でそう言っているように私には感じられた。ここまで感情的になったのは久しぶりだが、感謝されるというのは嬉しい。自分がやったことは無駄じゃなかったと純粋に思えた。


 「でもわたしはとても本意を告げることができなかった。それがひっかかって、どうしようもないほどもどかしくて。より、後悔しているんだと思います。言葉にしていれば未来は変わっていたかもしれないから。あの子が・・・産まれてきた未来があったかもしれないから・・・」

 彼女はそっと言った。思えば彼女は身体的にも精神的にも傷ついている。何かを失ったこと、根底に抱える悩みは一緒であっても私なんて比じゃないくらいのどうしようもない辛さを味わったに違いない。それに彼女のように自責の念が強いなら。

 それでも前に進もうとしている。なんて強い人だろうか。

 けれど、その前進に私が一助になったという感覚はあまりなかった。

 私の話に耳を傾けてくれたのは彼女の意志で、きっと私にそんな辛い過去があったことを打ち明けてくれたのも過去を清算して変わろうという意思が彼女にあったからに違いなかった。


 「私も同じです。言えば何かが変わっていたかもしれないのに、この町が変わってしまうこともなかったかもしれないのに。社会に身を任せて、言えなかった。後悔しています」

 気持ちを伝えることがどれだけ難しいかをしみじみ感じる。

 思うように言えないこと、それはこの先もきっと直面するだろう。でも今は前よりも素直に伝えられそうな予感がする。

 「結局、私たちには共通の敗因があります。それは一歩、踏み出せなかったこと。自分らしさを表現しきれなかったこと。私はこうやって生きていくっていうことを出せなかったことだと思うのです」

 思いがけないことではあったが私は、いや、私たちは過去と向き合うことができた。お互い若いのだし再出発はまだ遅くない。


 「そうですね」

 彼女は短く同意した。それから身を乗り出して、

 「樋口さん。わたしようやく決意が固まりました」

と嬉々として言った。さらに続ける。

 「わたし、産婦人科医になる勉強を始めようと思います。自分と同じような境遇になった子が選択を誤らないように。後悔する人生にならないように、寄り添ってあげられるような医者になります」

 そうか。もう具体的な未来を思い描いているのか。本当に強い人だ。


 「そうですか!渡邊さんなら必ずなれますよ。頑張ってください。こっちの世界から応援しています」

 「ありがとうございます。頑張ります!」

 屈託のない笑顔で彼女は言った。

 それを見て私は唾を飲み込んだ。少し間を置いて、「よし」と口の中で呟くと、

 「・・私は今、決めたことがあります」

と言い放った。決めたと言いつつも少し戸惑った。だが意思は揺るぎないのだ。言葉にしないでは決意表明にはならない。

 「・・・私は色々とかたがいったら、この町を出ようと思います。どこかへ行って新しい人生を始めようと思います」

 「・・そうですか。それじゃあもう、こうやって話すこともできないんですね・・・」

 残念そうに彼女は言った。私が思っているように彼女もまた、この共に過ごした時間を特別だ思ってくれている。

 「はい。いずれは。申し訳ないです。・・でも」

 一度言葉を切って、私は改めて彼女を見る。

 「私は弱い人間ですから。ここへまた戻ってきてしまうかもしれない。その時は叱って下さい」

 それは遠回しに再会を願うような我ながらくさい文句だった。私は鼻の頭を掻いた。

 完全に断ち切らなくてもたまにコーヒーを飲みに来るぐらいなら許されるだろう?だってここはどんなに変わってしまっても私の故郷であることには違いないのだから。だが私が心機一転して生きていくにはここを離れるのが一番いい。それはもう決めたことだ。

 未練はない、といえば嘘になる。この場所、そして彼女だ。

 この場所が好きだ。不愛想なマスター、落ち着いた空間、美味いコーヒー。この喫茶店は私をこの土地に縛っているものなんかじゃない。私にとって必要なものだからそう思えた。大切なものだ。今は素直にそう思える。

 それに数時間の会話だったかもしれないが彼女との会話は間違いなく私の人生の転機となった。彼女と話をしていなければきっと過去を見つめ直すこともなければ、変わらない「普通」という空間の中で足踏みするだけの無味乾燥な一生となっていたことだろう。


 「わかりました。その時は盛大に怒りますよ。じゃあ、またお話ししましょう」

 「ええ。ありがとうございます。また・・・いつか・・・」

 彼女の目が輝いているように見えた。

 私の口角は自然と上がり、くしゃっとした笑みをこぼした。彼女も続いて柔らかにほほ笑む。


 一連の会話から別れが近づいていることはなんとなく察せられた。なるべく時計を見ないように気をつけてはいたが、ちらっと腕時計を覗くと既に時計の針は八時半に差し掛かっていた。もう店を出る時刻だ。それに気づいたからには私から切り出すことにした。

 「渡邊さん。私、そろそろ出ようと思います」

 「あ、もうこんな時間ですか。すいません」

 「いえ。それでは、また。会いましょう」

 「はい。また」

 彼女は小さく手を振った。至って簡素な別れとなった。だがそれでよかった。きっと気を許せばずっとここにいてしまう。いや、ずっといたい。いつまでも彼女と話していたい。だが私は冷静に自らを制止した。私は前進しなくてはならない。それはこの店から一歩外に出たときから初めて始まる。

 私は「マスターお勘定」と言ったが、返事はなかった。仕方なく、私は会計盆に代金をそっと置くと、今一度手を振ろうと鏡に向き直った。

 だがもうそこには彼女はおらず、ただの鏡が静かに壁にもたれかかっているだけだった。私は息をふっと吐くと回れ右して入口へと向かう。

 ドアノブを握って引くと、からんっと変わらないあの軽快な鈴の音がして、鋭い陽光が私を真っすぐに射した。


 ふと前方を見ると、マスターが箒掃除をしていた。相変わらず、何をするのにも手際がいい。丁寧に集められて塊となったゴミがゴミ箱の中に投下された。私の姿に気づいたマスターが眉をひょいっと上げておもむろに口を開いた。

 「おや、無銭飲食ですかな?樋口さん」

 珍しくマスターが口をきいたものだから内心、少し驚いた。そう言えば何年も通っていて、注文するときくらいしかやりとりをしたことはない。よくよく考えると私たちの関係は吹き出してしまいそうになるほど奇妙である。

 どういう風の吹き回しか。

 まず、私の名前を憶えていることに一番に驚いた。

 「まさか。ちゃんと払いましたよ、マスター」

 私はカウンターを指さしながら言った。なにせ珍しい機会だからもう少し話をしたいという気持ちもあったがマスターが腕につけた銀の時計の時刻が目に入って、もう既に急いで出る時刻であることに改めて気づかされた。

 「ともかく、ちゃんと払ったので。すいません。私はこれで」

 ほんのわずかに頭を下げると、私は会社へと駆け出すべく位置についた。ここが出発点で、いずれの終着点。私は思いっきり、明日への未来へと駆け出そうと一歩を踏み出した、そのときにマスターは私の背中に呼び掛けた。

 「もしもし、樋口さん」

 慌てて急ブレーキをかけて、私は踏みとどまる。

 「なんですか?マスター」

 「長年の悩みが晴れましたかな?・・・いい顔をしていらっしゃる」

 穏やかな表情ででマスターはそう言った。爽やかな風が吹いて、近くの木の葉が擦りあい、かさかさと音を立てた。

 それから深々とマスターはお辞儀をして「いってらっしゃいませ」と言った。

 何気ない客を送り出す際の挨拶、それでも何か特別な気がした。

 「はい。いってきます」

 私は答えた。自分の表情は自分で見ることができないの常だが、もし鏡があって映してみたなら今、私はこの上ないような幸せな表情をしているのだろうと思った。私は地面を蹴って、その勢いのまま駆け出した。

 夏らしく入道雲が空を覆いつくし、追い風が私の新しい未来へと歩みだした背中を押すように強く強く吹きつけていた。

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