開けっ放し
Black river
開けっ放し
子供の頃、何度も同じ失敗をして、母によく叱られた。
子供とは往々にしてそういう生き物であるが、私の場合はそれが特に酷かったのだ。
とりわけ何度も注意されたのが、ドアの開けっ放しである。
家のドアというものは、実に意地悪なシステムで運用されている。
例えば春先は、風を入れるために少し開けておかなければならない。
これをうっかり閉めようものなら、「開けてって言ったじゃない」などと甲高い声で責められる。
ところがもう少し気温が上がり、エアコンを効かせる時期になると、今度はドアを閉めないと怒られるようになる。「もったいないでしょ」などと目を釣り上げて言われても、この間までは開けておくほうが正解だったのだから、子供心にひどく理不尽な話だと感じたものである。
これはそんな幼少期のある日に起こった、ドアにまつわる出来事だ。
その日は小学校が休みだったので、おそらく土曜の昼下がりあたりだろう。
父は仕事、母は夕飯の買い物に出かけていた。
私は1人、居間に座ってテレビを観ていた。
その時突然、「ピンポーン」と玄関のチャイムが鳴った。
様子を見にいくと、玄関の方から
「こんにちはーゆうた君いますかー?」
という聞き覚えのある声が聞こえてきた。
近所に住んでいる友達のケンちゃんだ。
安心した私は廊下に出て、玄関まで走っていくと、鍵を回してドアを開けた。母は私が1人で留守番をするとき、防犯上鍵をかけて出かけることにしていたのだ。
「ケンちゃん!」
「あ、ゆうた」
ドアの前に立っていたケンちゃんは私の顔を見るとパッと顔を輝かせた。彼の片手には、大きな網が握られている
「どうしたの?」
「これからフミヤとあっちゃんと一緒に、川に魚取りに行くんだ。ゆうたも行こうぜ」
遊びに行く途中に、思い立って声をかけに来たらしい。
「ごめん、今母さん出かけてて留守番中なんだ。だから行けないや」
「なんだ、つまんねえの」
ケンちゃんは唇を尖らせた。私だって行きたいのは山々だが、留守番を頼まれている以上、仕方がない。
「また今度誘ってくれたら、その時は行くよ」
「わかった、じゃあな」
そういうとケンちゃんは、私に背を向けて走っていった。
一緒に行きたかった私は、なかなか帰ってこない母を少し恨みつつ、遠ざかる彼をしばらく見つめていた。
居間に戻ると、テレビの続きを見ようと腰を下ろした。ところが観ている間もさっきのケンちゃんの顔がチラチラと脳裏をよぎり、番組の内容が頭に入ってこない。
何だか自分がとんでもなく損をしたような気がして、虚ろな気分になった私は、テレビを消すとその場に寝転がった。
その時廊下で、びゅう、と風が吹くような音が聞こえてきた。
私はふと、ケンちゃんを見送った後、玄関のドアを閉め忘れていたことを思い出した
「やべ」
母親が帰ってきた時に玄関が開けっ放しのままでは、また怒られてしまう。慌てて立ち上がると、玄関を閉めるべく廊下に出た。
すると、「それ」がいた。
開け放たれた玄関のドアを背に、「それ」は黒い影にしか見えなかった。廊下の端、玄関の上がり框を上ってすぐのところに、真っ黒な布切れを被った人のような何者かが、じっと佇んでいたのだ。
予想外の展開に私は、廊下と居間の境目で凍りついた。
こいつはなんだ。どこから来たんだ。どうしてうちの玄関にいるんだ。
それら当然の疑問が浮かぶよりも早く、私の脳裏にはけたたましい警告音が鳴り響いていた。
こいつは、関わってはいけないものだ。
そこまで分かっているのに、何故か足がその場に縫い留められたように、ピクリとも動かない。
その時、
「…ケ…しハ…メ…」
黒い影が何か言葉を発した。
まるで機械で何人もの人の声を不自然に合成したような、荒く、ノイズに塗れた声だった。
「ア…シ…だメよ」
黒い塊はその場から動かず、なおも声を発し続ける。心なしか、さっきよりも声が精錬されて、聞き取りやすくなっていた。咄嗟に耳を塞ごうとしたが、足と同じく、手にも力が入らなかった。
「あケっ…なシ…だめヨ」
声はどんどん鮮明に、そして大きくなっていった。
私は必死に体を動かそうとするも、まだ指一本いうことを聞いてくれない。
次の瞬間、黒い影が一際大きな声で叫んだ。
「開けっ放しはダメよ!」
それは紛れもない、私の母の声だった。
途端に体の自由が効くようになった。私はすぐに居間に飛び込み、戸を閉めた。だが、このままではあの不気味なやつが入ってきてしまう。
戸に耳をつけてみたが、廊下で何かが動いている気配はない。
今のうちにどこかに隠れないと。
私は周囲を見回すと、部屋の隅のクローゼットが目に止まった。いくら薄い扉一枚とはいえ、隠れないよりはマシだ。
私はその前に走っていくと、ジャバラ式の扉を開いて中に滑り込んだ。中には冬物の服やコートがかけられていてとても蒸し暑かったが、今はそんなことを言っている場合ではない。クローゼットの奥の壁際にピッタリと背中をつけると、扉を引っ張って閉めた。
そしてそのまま耳を澄ませた。
リビングの戸が開く音も、あいつが部屋に入ったきた気配もない。
もう出ていったのだろうか。
怖くて動けなかった私は、コートの隙間に身を潜めたまま、じっと外の様子を伺っていた。
しばらく無音の時間が流れた。
相変わらずリビングでは何の音も聞こえない。
もういなくなったのか?
私はそっとクローゼットの入り口に近づき、ジャバラのドアを少しだけずらした。
その隙間から覗ける範囲には、何もいなかった。
しばらくすると、玄関でドアがガチャリと開く音がした。
私は身構えた。
「ただいまー、ごめんね。遅くなっちゃって」
聞こえてきたのは、母の声だった。
クローゼットを飛び出そうとした私は、扉にかけた手を途中で止めた。
さっきの黒い影は、母の声で「開けっ放しはダメよ」と叫んだのではなかったのか。
じゃあ、今玄関にいるのは、本当に母だろうか。
もしかしてまた、あいつが母の声真似をしてるんじゃ。
そのまま動けずにいると、今度はリビングの戸が開いて、誰かが入ってきた。
「ただいま…あれ、ゆうた?どこにいるの?」
リビングに声の主が現れる。
隙間から見えたのは、今度こそ紛れもない母の姿だった。
「おかえり!」
私はクローゼットから飛び出して母に駆け寄った。
「あら、そこにいたの。一人でかくれんぼ?」
「ううん」
私は母に抱きついたまま首を振った。
「僕…玄関を開けっ放しで…それで」
私は留守中に起きたことを説明しようとした。
「開けっ放し?玄関はちゃんと閉まってたわよ」
母は不思議そうに言った。
「開けっ放しじゃなかった?」
「そうよ。何か勘違いしたのね」
母は私の頭を撫でながら続けた。
「ちゃんと鍵もかかってたし、大丈夫よ」
あの幼い夏の日に起きた出来事は何だったのか、今でも判然としない。全ては夢か、幻だったのかもしれない。少なくとも、私はそうであってほしかった。
私が留守番をするときは、母が鍵をかけて出かけるのが習慣だった。当然あの日も、家の鍵は母が持って出かけていた。
そして廊下にあいつが現れたとき、私は開けっ放しの玄関ドアを閉めずに、クローゼットに逃げ込んだ。
だが、母が帰ってきた時には、ドアは閉まり、鍵までかかっていたという。
だからもし、あの黒い影が、鍵をかけ直したのなら。
あいつはまだ、中にいる。
開けっ放し Black river @Black_river
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