Entrance To Fear

鴉河 異(えがわ こと)

伝染

それは、ひとつの小さなことが始まりだった。

その始まりは、あまりにも小さすぎて、気づくことができなかった。

気づいたときには……もう手遅れに近かった……。



俺は今、カラオケ店でバイトをしている。

繋ぎのつもりだったのだが、気づけばもう2年も働いている。

そろそろきちんとした仕事につかなければ、とは思っているのだが……。

居心地が良いので、どうしても辞められずにいた。


「先輩……」

俺の一つ下の後輩の哲哉が、怯えたような顔で話しかけてきた。

「どした?」

俺は、カラオケルームの掃除をしながら答えた。

「あの……ちょっと見てほしいルームがあるんですけど……」

哲哉は、今にも泣き出しそうな顔で言った。

「わかった。これ終わったら行くから、ちょっと待ってろ」

俺が言うと、哲哉は黙って頷き、自分の仕事へ戻っていった。



しばらくして、俺は掃除を終え、哲哉の元へ向かった。

「哲哉。見てほしい部屋ってどこだ?」

俺が聞くと、哲哉は少し顔を強張らせ、ある一つの部屋を指差した。

そこは、2階の一番奥にある210号室だった。

「あそこがどうしたんだ?」

俺が聞くと、哲哉はただ首を横に振るだけで、何も答えない。

仕方ない……。

見てくるか。

俺は意を決して哲哉に言われた部屋に行ってみることにした。



部屋の扉を開け、電気をつける。

辺りを見回すが、何も変わったことは無い。

機械でも壊れているのかといじってみるが、別に異常は無い。

哲哉は何を見てほしいと言ったんだろう……。

俺は不思議に思いながら部屋を出ようとした。

その時……


パキッ


ん?

今、何か変な音が……。


パキッ


……何の音だ?

俺は、振り向いて部屋の中を見回す。

が、何も無い。

その後、しばらく待ってみたものの何も起こる気配は無く、俺は首をかしげながらその部屋を後にした。

「先輩!」

部屋から出ると、哲也が駆け寄ってきた。

「大丈夫でした!?」

哲哉の顔は、本気で俺を心配しているようだった。

「特に変わったことは無かったけど……何を見て欲しかったんだ?」

俺が聞くと、哲也は小さな声で答えた。

「女の声が……」

「は?」

俺は思わず聞き返してしまった。

「だから……女の声が聞こえたんですよ……」

哲哉は俯きながら言った。

女の声……?

「お客さんの声じゃないのか?」

俺が言うと、哲也は静かに首を振る。

「間違いないです。だって……スピーカーから聞こえてきたんですよ……」

バカな……。

「きっと気のせいだよ」

そう言いながら哲哉の肩をポンと叩いた。

「あんまり気にしてると、ホントに出てくるぞ」

俺は、少しおどけたような口調で言う。

「先輩!からかわないでくださいよ!」

哲哉が少しマジな顔をして言った。

「哲也君、怖~い」

「ちょっと先輩!!」

俺たちはふざけ合いながら仕事に戻っていった。



数日後。

哲哉とのやり取りも忘れかけた頃、それは起こった。

「おわっ!!」

「キャッ!!」

俺が部屋を片付けていると、お客さんの驚く声が聞こえた。

何かと思い声のほうへ向かうと、そこには、服の乱れた高校生のカップルがいた。

「お客様……あの、当店はカラオケ店となっておりますので……」

俺が少しキツめに言うと、彼氏が俺のほうに慌てて近づいてきた。

「なっ、何かいる!!」

俺は言っている意味がまったくわからなかった。

「何かと申しますと?」

俺が言うと、後ろで服を直していた彼女が口を開いた。

「何かパキパキ音がするんです……。しかも、さっきは女の人の声がして……」

彼女の顔は恐怖で歪んでいた。

「お部屋を見せて頂いてよろしいですか?」

そう言うと、二人は静かに頷いた。

俺は彼らの部屋に入ると、周りを見回してみた。

でも、何も無いし、音もしない。

首を傾げながら外に出ようとした時……


パキッ


何だ?

俺が振り返って、周りを見回してると、彼氏が様子を見に来た。

「何かいました?」

俺は完璧な営業スマイルで彼氏のほうを見た。

「特に変わったことは無いようですが……もしよろしければお部屋を変更いたしましょうか」

俺が聞くと、彼氏は一度彼女のほうを見た後、「帰ります」と言った。

そりゃそうだろ。

あんなことしといて。

ここはラブホじゃないんだよ。

「かしこまりました。ありがとうございました」

俺がそう言うと、二人はそそくさと帰っていた。



その日の仕事終わり。

俺がロッカーで着替えていると、哲也が来た。

「お疲れ様です」

何だか元気が無いな……。

「おつかれ。どした?」

俺の質問に、哲也はため息をついた。

「また聞いちゃったんですよ……女の声……」

女の声?

あぁ……。

「この前言ってた奴?」

哲哉が頷く。

「もう嫌ですよ……。俺、何か憑いてるのかな……」

どうやら本気で落ち込んでるようだ。

「気にするなよ。あの部屋に行かなきゃいいことだろ?」

俺は哲哉の肩を叩きながら言った。

すると、哲哉は俺を睨むようにして見た。

「それで済むならそうしてますよ!でも、あれ、どんどん広がってるんですよ!」

広がる?

「今日なんて207号室であの音聞いたんですよ!?」

207号室……あの奥の部屋からだとかなり離れてるな……。

そういえば……今日あのカップルがいたのは202号室……。

207号室より遠いぞ……。

俺は寒気がした。

「先輩!聞いてるんですか!?」

哲哉が俺の顔を覗きこむ。

「あ、あぁ。聞いてるよ。明日俺から店長に言ってみるよ。だから、もう少し辛抱してくれよ」

俺が言うと、哲哉は少し考えた後、黙って頷いた。



次の日。

俺は出勤すると、店長の所へ向かった。

「店長。ちょっといいですか?」

俺が声をかけると、店長は「あぁ」と言って、事務所に入るように促した。

「なんだ?」

店長は椅子に座りながら言った。

「実は、最近哲哉の奴が、部屋で女の声がするって言うんですよ。俺も完全に信じてるわけじゃないんですけど……」

俺の言葉を聞いている店長の顔がどんどん引きつっていく。

「一回業者か何かに見てもらうことってできないですかね」

俺はダメ元で聞いて見た。

たった一人の従業員の言うことで、そこまでできるはずがない。

そう思っていたのだが……。

「わかった。来週店を休みにして、業者を呼ぼう」

「え?」

思ってもいない店長の返事に、気の抜けた返事をしてしまった。

「いや、実はな。ここの所、お客さんからのクレームで、女の声が聞こえたとか、変な音がするとか、そういうのがすごく多いんだ。最初は俺も信じてなかったんだが、ここまで多い上に、従業員も同じことを言うのであれば、一度見てもらうしかないだろう」

店長は難しそうな顔をして言った。

そんなにクレームがあったのか……。

確かに最近お客さんが減ったような気はしてたけど……。



そして、次の週。

店長の言っていた通り、全部屋に業者の点検が入った。

しかし、何の異変も発見されず、結局原因はわからないまま、点検が終了した。

それからは、お客さんのクレームも無く、哲哉も何も言ってくることはなかった。

だが、それは長くは続かなかった。



「すみません」

俺がフロントに立っていると、女性のお客さんに声をかけられた。

あれ、この人達……さっき入った人たち……。

「はい。何でしょうか?」

俺が笑顔で聞くと……。

「入室って、キャンセルしてもらえないですか?」

何か気に入らなかったのかな?

「何か不備でもございましたか?」

俺が聞くと、お客さんの顔が強張った。

「何か、変な音がして……気持ち悪くて……」

変な音……?

まさか……。

「そうでしたか……。大変申し訳ありませんでした。では、こちらのお部屋はキャンセルさせて頂きます。本当に申し訳ありませんでした」

俺が頭を下げると、彼女たちは「すみません」と言って帰っていった。

その後、俺は、すぐに店長の下へ向かった。

「店長」

俺が事務所に入ると、店長は電話をしながら頭を下げていた。

何かと思い、しばらく見ていると、店長の電話が終わる。

「どうしたんですか?」

俺が聞くと、店長はげっそりしたように言った。

「また例のクレームだよ。今日になってから5件目だ」

そう言って店長はため息をついた。

「で、どうした?」

店長は少し笑いながら聞いた。

でも、こんな状態で店長にさっきのことは言えないな。

「いや、何でもないです。気にしないでください」

俺はできる限り明るく言う。

店長は「そうか」と力なく笑った。



その後は、時間前に帰っていくお客さんがほとんどだった。

皆、口をそろえて「変な音がする」と言って帰って行った。

もちろん、哲哉も同じことを言っていた。

なんだ?

どうして急にこんなことになったんだ?

まったくわかんねぇ……。

そんな事を考えていると、フロント担当のスタッフが出勤してきた。

「お疲れ様です。変わりますね」

「ありがと」

俺は、スタッフの子と代わり、裏方に回った。

正直、こんな日に裏方はやりたくないけど……仕事だから仕方ないな。

そう思いながら仕事に取り掛かった。



「これで完了だな」

俺はお客さんが帰った後の部屋の片づけをしていた。

裏方に回ってからは何事もなく仕事をこなせている。

このまま終わればいいけど…。

そう思った時、後ろからあの音が聞こえてきた。


パキッ


俺は思わず振り返った。

しかし、何も無い。

そのことに少しホッとしていると……


パキッ


今度は違うところから音が聞こえた。

ヤバイ……。

この部屋から出よう。

そう思い、出口に向かうと……


バタンッ


ドアが物凄い勢いで閉まった。

なんだ!?

勝手に閉まるはずがないのに……。

俺は急いでドアのノブを回す。

しかし、ドアはピクリとも動かない。

「くそっ!!」

俺はドアに蹴りを入れた。

だが、ドアは一向に開く気配が無い。

その間にも、あの嫌な音は俺に近づいてくる。

「何で開かないんだ!!」

俺はひたすらノブを回し、ドアを押す。

その時………



「………ろ……」



何だ今の……?

女の声!?

哲哉が言ってたのは……これか?


「……えろ……」


声が……近い……。


「……消えろ……」


その声と共に、女の腕が浮かび上がり、俺の首にかけられる。

その腕はどんどん俺の首を締め上げていく。

「く……るし……」

意識が遠くなる……。



「……消えろ……」



声が耳元でする……。

目の前には女の白い腕と共に、顔が浮かびあがる。

その顔は憎しみに満ちた顔だった……。



その後、俺はその部屋で目を覚ました。

そこには、あの女の姿は無かった。

だが、俺は恐怖のあまり、その部屋から逃げ出した。

そして、その店を辞めた。

これで、すべてが終わった……はずだった……。

今、あの女は俺の部屋にいる。

姿は見たことが無いし、声を聞いたことも無い。

でも、あの音が今も鳴り続けている。

俺を見張っているかのように……。



パキッ……パキッ……

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