プロローグ
プロローグ
走る、走る。息を切らして、重い足を叱咤して。陽も落ちそうな森の中、木々に遮られ光はあまり届かない。転ばないようなんとか足を進めるので精一杯だ。背後からはざわめく葉の音に紛れいくつもの怒号や足音が迫ってくる。地の利がある彼らから逃げおおせることなど叶わないだろう。それでも、少しでも遠くへ。その一心で私はひたすらに走り続けた。
◆
その日私は上機嫌だった。今日は待ち望んだ発売日、帰ったらきっとあれが届いているはずだ。心躍り過ぎたからか、昨夜は夢で『彼』に会うこともできた。マンションの入口を鼻歌で通り抜け、宅配ボックスに手のひらサイズの小包が入っていることを確認すると、思わず顔がほころびにやけた笑みがこぼれる。いかんいかん、外でこんな表情をしていたら完全に不審人物だ。スキップしたい気持ちを抑えながら、小包を胸に抱えいそいそと廊下を早歩いた。
私、
私の好きな人は、カーキブラウンで少しクセのある長髪を左肩にながしてまとめ、茶と緑を混ぜたような綺麗な
それぐらいにしておけって? まあまあ、あと少しだけ聞いて欲しい。
彼は弟と二人、一族にかけられた呪いを解くために世界を旅している。得物は二対のダガーナイフで、魔法は得意じゃないけれど、一瞬で敵に近づき屠る技術はもはや芸術的で素晴らしい。名前はテオドール。永遠の二六歳。会ったこともないし、絶対に会うことも叶わない。
そう、私の『好きな人』は現実の世界には存在していない。乙女ゲーム『ヨゾラにユメを、キミにヒカリを』──通称『ユメヒカ』の登場人物だ。
ゆるく広くなオタクだった私は満遍なく色々なジャンルをかじり、漫画やアニメゲームに特撮、そして付随する各種イベント、2.5次元の実写舞台など、何でも好きだった。特に好きだったのは、乙女ゲーム。
いつだったか大学の同志が布教のためにと渡してきた、界隈では有名な某社の女性向け恋愛シミュレーションゲーム。恐らくは私好みの作品をチョイスしてくれたんだろう。何の気なしに始めてみたところ、ファンタジーで王道なその世界観に、キャラと心を通わせ仲を深めていくその過程に、まんまとどハマりしてしまった。それからはもう、坂を転がり落ちるように。様々な乙女ゲームを買い漁ってはプレイし、気がついたら夜が明けていたなんてこともしばしば。そんな中、私はとあるゲームのキャラクターに本気で恋をしてしまったのだ。
それが、『ヨゾラにユメを、キミにヒカリを』の、テオドールだった。『彼』は架空の人物でありこの世には存在しない。そんなことはもちろんわかっている。それでも、私の中で作り上げた『彼』の幻想は私を励まし力を与え、大袈裟でなく生きていく支えとなってくれた。本当の意味で会うことは叶わないが、『彼』の存在が私の世界に彩をもたらし、その事を考えているだけで満たされる。痛々しいことこの上ないが、それはそれは幸せで充実した日々を送っていた。
部屋に帰るとしっかり念入りに手を洗い、机に置いた小包を恭しい心持ちでそっと開封していく。中からは落ち着いた茶色の革に金字で箔押しされた、しっかりとした造りの小箱が現れた。その小さな宝石箱をじっくり堪能してから蓋を開けると、やっと目的のものとご対面だ。
「──おお……」
箱の内部には品の良いピンクのサテン生地が使われていて、同じ生地で作られた小さなクッションの上にシルバーのネックレスが鎮座していた。紅い宝玉が中央にあり、それを包み込むように銀で造られた若葉が三枚、縁取っている。葉にもそれぞれ朝露の滴のように透き通った鉱石が輝いていた。中央の宝玉は複雑にカットされ、光が反射してとても綺麗だ。
このネックレスは、『ヨゾラにユメを、キミにヒカリを』の重要なキーアイテムをモチーフに作られている。物語本編に登場するのは指輪なのだが、同じ役目を持つアクセサリーとして、他にネックレスやブレスレット、サークレット等も存在しているとゲーム内でも明言されている。ヒロインの身に付けているものとは違うけれど、胸を張ってこれもあの世界の正式なアイテムだということが嬉しい。
普段の生活で身に付けられるものを、というコンセプトのもと、ペンダントトップのモチーフは小さくさりげないサイズで作られていて、知らない人には普通のアクセサリーにしか見えないのがポイントだ。過去に作中でヒロインが身に着けていた指輪が販売されたこともあったが、こちらは原作にとても忠実な形で再現されていて、ファンとしては嬉しかったけれどごつくて重いし観賞用という感じだったので、今回の発売は本当に嬉しかったのだ!
「……ん~ん~ん~♪」
ゲームのオープニングを小さく口ずさみながらベランダに出る。届いたらゲームのタイトルにちなんで夜空の下──ベランダに出て着けようって決めていたんだ。夏も本番になってきた今、陽の落ちたこの時間でも気温が下がらずまだ蒸し暑い。
ネックレスを大事にそっと取り出し、首の後ろに手を回して身につけてみる。うん、重量はあまり感じないし良いじゃないか。紅い宝玉に月の光が入ると、人工的な灯りの時とはまた違って中で光をはね返し、キラキラと虹色に煌めいて見える。
しばらくうっとりとそれを眺めていると──
キラリ、と、宝玉の奥が光った気がした。
その次の瞬間、ほんの瞬きの間に、私の景色は一変した。
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