九之二十八
靄の上は、下から仰ぎ見て想像していたよりもずっと広かった。
碧が辺りをみわたしてもその周縁が見えないほど広大で、夜空との境界がまるで判別できず、端がそのまま宇宙へと続いているようにさえ見えた。
台地は、まるで濃紫の雲海で、絨毯のようにひらたく広がった靄が風もない空間に静かにたゆたっている。ただ雲とは違って透明感があって、見おろせば、百間(百八十メートル)ほど眼下に篝火に照らされる諭鶴羽の山頂が揺らぐように見えた。
碧たちは、おそるおそる雷音の背から降りた。降りたった靄は不思議としっかりとした地面のように身体を支えるのだった。ただ、ふみごこちは綿をかためた板に立つようで、いつこの靄の床が抜けて落下してしまうのかといういささかの不安はぬぐいきれない。下からはなんの抵抗もなくあがって来ることができたのに、上からは乗れるというのも不思議だった。
そうして三人と一匹は、十数間向こうにたたずむアマソラノマホシヒコと、その向こうでゆらりと浮遊している
マホシヒコの髪は、いつのまにか結がほどけて、長い髪が水中にいるようにゆらゆらゆらいでいるようだ。
「愚か者どもめ」
静かな調子で喋っているのに、マホシヒコのその声は不思議とよく届くのだった。
「よかろう、その眼に焼きつけ絶望するがいい。いまこのとき、我らが神が再臨されるその様を、刮目してみるがいい!」
あぐりの直下の靄が、直径三間にわたってぐっと山のように盛り上がった。その先端がぱっと割れて手のような形になり、あぐりの身体をつかみしめるようにして押し包んだ。そうして押し包んだまま先の丸い塔のように虚空にむかって伸びていき、伸びていきつつ腕のようなものが左右から分岐していった。そして、十三、四間(二十五メートル)はあろうかという首の長い人間の上半身のような形状をやがて形成した。
「創世大地神オノゴロ様の再誕であるっ!」
マホシヒコの叫びに呼応するかのように、「神」は、鯨のような咆哮をあげた。
それは、あぐりを包んだ頭部のような部分から聞こえてくるようにも思われるし、この雲上の台地全体から聞こえてくるようでもあった。
靄で形作られた神は、顔のない頭をもたげ、異様にながい指をもつ手をひらき、両腕を広げ、碧たちを上空から押しつぶすように圧してくる。
実際碧は完全に威圧されていた。怖いものしらずの
それでも三人は、二刀を抜き、拳をかまえ、短刀から鋼糸を引き出し臨戦態勢をとった。なんとなく身体が本能で動いた、そんな様子であった。
――しかし、どうすればいいのか。
両刀の柄を握りしめて碧は焦慮した。
相手は神だ。マホシヒコだけならいくら霊力をあやつる強敵であっても人間だ、なんとかなるという気持ちが心のどこかにある。だが神様相手にどう闘えというのか。まるで見当もつかない。
そのときである。
「たわけ」
しわがれた老人の叱声が耳にとどいた。
どこから聞こえたのかまるでわからない。碧があたりをみまわすと、同様に首を左右に振っている嵐、鶫と眼があった。どうも聞こえているのは三人だけのようだ。雷音はなにも聞こえないようすでオノゴロにむけて低くいうなり声をあげている。
そして、その声は、
――果心居士……。
であった。
なぜ、どうして死んだはずの果心居士の声が、今、碧たちのおのおのの耳もとで聞こえるのか。あたかも、居士は生きていて三人の真横に立っているようである。
「かの男が刮目しろと云ったではないか。ほんとうに眼をこすれ。こすってあれをよっく見てみよ」
碧は、じっさい眼をこすったわけではないが、云われるがままに濃紫のオノゴロの姿を凝視した。
「あれのどこが神じゃ」
「し、しかし、あんな生き物は、いまだかつてみたことがありません」
「たわけ」あきれたように居士の声が云う。「神などはこの世に存在せぬ。神などという存在は、人の心に住まう概念にすぎぬ。人が思い描く幻想にすぎぬ。あれは、あの槍につけられた魂魄石に吸収された信者たちの妄念が、霊気を媒体に具現化された、神のようなもの、じゃ」
「だからといって、あんな巨体に太刀打ちできるとは思えません」
「碧よ、お前、見た目以上に頭がかたいのう。いまくどくどと教えた、あれは生き物でも、神でもない、ただの霊気のかたまりじゃ。相手が霊気にすぎぬいじょう、見た目が鯨のように大きかろうが、蟻のように小さかろうが、わしの伝授した旋律の律動でどうとでもできるわ」
断言されたところで、碧の疑念がはれるわけではない。そんな碧の心をみすかしたように、居士の声が言葉をつづけた。
「迷うな、恐れるな。己を信じよ。行け、我が弟子たち!」
そう締めくくるように云って、居士の気配は消えていった。
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