九之十九

 断崖を形成する地質はもろく、手でつかむ岩、足をふむ亀裂をひとつ間違えようものなら、もう何十メートルあるかわからない、闇に沈む地上へと真っ逆さま落ちていくであろう。

 嵐は、隆起にのせた足に力をいれて、充分な強度があることをしっかりと確かめると、ひといきに膝をのばし同時に手をのばし、目前の岩をつかんだ。

 そうして、ひとつ舌打ちをした。

 思っていたよりも断崖がそりかえっている。反りのない登攀とうはんルートを探そうにも、辺りはもう暮色が漂いはじめてい、もたもたしていては断層を登り越えるまでに陽が沈んでしまいそうだ。普段の嵐ならまるで気にならない、背中にしょった碧のふた振りの愛刀が、異様な重量をもって、嵐を断崖から引きはがそうと背中を引っ張るようだ。

「ううむ残念じゃ、もっと陽の高いうちであったらよい眺めであったろうに」

 嵐の一間ほどしたをついてきている鬼巌坊が周囲の景色でなく頭上の一点を眺めながらそう云った。

「余計なお喋りしてると、このままてめえを突き落とすぞ」

「お前の自尊心はそんなものか。自分が乗り越えなくてはならない相手を、崖から突き落として勝利して、それで満足か」

「まったく、ああいえばこういう」

 嵐はいつもの忍装束に着替えていて、短い裾から陰部が見えないようにふんどし状の下着はつけているものの、やはり男に好奇の眼でのぞき見られるのは、(たとえ男勝りではあっても)女として気味の良いものではなかった。

「だいたい、こんな断崖絶壁を登らなくっちゃならない羽目におちいったのは、誰のせいだ」

「お、それを云うか。嵐よ、お前もあのとき同意したではないか」

 真聖神惶教の行列の後に続いて諭鶴羽山地に踏み込もうとした嵐と鬼巌坊であったが、行列の最後尾が樹間の闇に紛れて消えると、教団の巫女姿をした少女がひとり、ゆらりと幽鬼のように山道にあらわれた。

 そうして、少女はなにか呪文を唱えると、しばらくして姿を消した。行列を追ったようすだった。

 不審に思いつつも、ふたりは山道へと足を踏み入れたが、その踏み入れた足をすぐにとめ、二、三歩同時に後退した。

 ――これは、さすがにいかんな。

 鬼巌坊が苦笑まじりに云った。

 ふたりの行く手にはすでに妖気が満ち満ちていた。肌をぴりぴりと刺激する嫌な黒い霧がただよっていて、行列との間に何匹もの妖魔の気配が濃厚にさっしられた。

 さきほどの少女が、いってみれば妖魔結界のようなものを張ったようだった。

 さしもの武術の達人ふたりでもだじろいだ。これほどの数の妖鬼妖魔を相手に行列を追っていくのは、命を落とさぬまでも骨が折れる。目的地につくころには、疲労困憊して闘いにもなにもならぬであろう。

 そして、妖魔たちを避けに避け続けて、おそらく行列が向かっているだろう諭鶴羽山の山頂へ向かっているうちに気がつけば妖魔に取り囲まれて、もはや逃げ道は断崖を進む以外ほかにない、という状況に追い込まれてしまったわけであった。

「あたしの尻を眺める余裕があるんなら、おまえ先にのぼれよ」

「おいおい、わしを先にいかせると上から突き落とされかねん、というてさっさと先に登りはじめたのは、お前さんのほうじゃないか」

「くっそ」

 ののしりつつ嵐は、オーバーハングを避けて左へ左へと身体を移していった。あまり時間はかけたくないがしかたがない。

 つま先をひっかけた岩が割れ、嵐は右腕一本でぶらさがる。崩れた岩が暗黒の地上へ落ちていく。

 ぎょっとして鬼巌坊が身をよじって落石をかわした。

「おぬし、本当にわしを突き落とすつもりじゃなかろうな」

 鬼巌坊の嫌味を無視して、嵐はふたたび移動を開始した。

 向かう諭鶴羽山の頂上には、櫓のようなものが築かれて篝火が燃えてそこだけが眼に刺さるような異常な明るさをしていた。

 ふと嵐は動きをとめた。岩壁にはりつくようにしてぴたりと身体をくっつける。

「どうした嵐よ」

「うるせえ、じじい、喋るな」

「じじいはなかろう。もう少し年長者をうやまえ」

「喋るなって云ってるだろう」

 声を落として、しかし針のようにとがった声音で嵐が云った。

 鬼巌坊もはっとしたようすで身体を壁に寄せた。

 ふたりの上方、十間ほどの崖の端から、青白い巨大な顔がのぞいていた。蜘蛛鬼であった。人間の気配を察したものか、じっと様子をうかがっている。

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