七之九

「おうい、恭之介」今まで高見の見物を決め込んでいた鬼巌坊が、唐突に声をかけた。「やせ我慢もたいがいにしたらどうだ?」

 碧の憎しみの眼差しを真っ向から見返しつつ、花神恭之介はくすりと鼻で笑った。碧を、ではなくみずからを嘲ったような笑みであった。そうして目線を碧からはずさずに云った。

「ふたりを頼む」

 その声に応じて、

「よしっ」

 鬼巌坊が縁側から立ち上がり、嵐に向けて歩みだした。

 彼とともにいた幸徳井祥馬も庭に降り、すぐさま呪文を唱え始めた。足元の地面に五芒星の魔法陣が煌々とした光を放ちながら描かれ、白い巨大な狐の妖怪が、まるで地獄から這い出すように姿をあらわした。そして祥馬と妖狐灼昂しゃっこうは重なり合い、一体化した。妖狐は跳ね、鶫の前に立ちふさがる。


 碧は、右腰の忍者刀を抜いて、二刀流の構えをとった。

 ひびの入った右腕がずきりと痛んだが、まるで気にもとめなかった。埋火となってくすぶっていたいた眼前の男に対する憎しみが、果心居士が倒されたことによって猛烈な炎となって燃えあがっていた。アドレナリンが大量に分泌されて痛覚を麻痺させていたと云っていいだろう。

 恭之介は刀の切っ先を碧の鼻先を刺すように伸ばし、紫黒の瘴気とともに威圧してくる。

「まだ遅くはないぞ」

 恭之介の赤く妖しくつやめく唇が静かに動いた。

「私のもとへ来い」

「誰が……」

 碧は怒りに油をそそがれ、憎悪を爆発させるように云った。

「お前のような冷酷非道な悪魔に魂を売るものか!」

「かつて、愛しあったふたりの思い出さえも、捨て去ると云うのか」

「そんなものは、とうに捨てた。お前が極悪人だと気づいた瞬間にすべて捨てた!」

「そうかな」

「捨てた」

「ならば、藤林の屋敷で私を斬ったとき、なぜ命を奪えなかった。真に私を憎悪するなら、あの時、あの瞬間にすべてを終わらせることができたはずだ」

「あの時は、まだ、お前に未練があった。確かにあった。だがもう今はない」

「いや、まだあるな。お前は私を愛している。心の奥底に、まだ私への情愛が潜んでいる」

「そんなものはありはしない」

「いくら自分自身の気持ちを偽ろうとも、愛を愛と認めずとも、心の深淵に私への想いが潜んでいる」

「しったふうなことを云うな!」

 憎悪をみなぎらせ右手の暁星丸を振った。

 だが、その刃は、恭之介の身体から放出される瘴気に阻まれ、岩に喰い込んでしまったように動きをとめた。

 恭之介の唇が小さくゆがんだ。その突き出された左腕から発せられた衝撃波によって、碧は宙を数間舞って背中から地面に落ちた。

 ――心をみだすでない!

 無様に苔むした地面に横たわる碧の耳もとで、ふいに果心居士の声がしたようだった。

 あの灰になって消えたように見えたのは、本当は居士の幻術で、実はまだ生きていて、どこかから思念を飛ばして語りかけているのではないか、とさえ思えるほど現実味のある叱声であった。

 碧は唇を噛んで立ちあがった。

 だがしかし旋律の律動がまるで機能していない。

 あの御在所岳での修行で大木を切り倒した時のような、高揚と冷静が同時に心身を満たすような感覚が、まったく湧きあがって来ない。

 これでは、恭之介の身体を覆う瘴気を切り裂くなど、不可能に近い。

 深呼吸を繰り返し、碧は少しでも千々に乱れた心を整えようと懸命であった。

 かつて居士は云った、魂魄石と碧の持つ魂心体の旋律がひとつの律動となって交わらねば、暁星丸の真の力は発揮できない、と。

 ――心を落ち着けなくては。

 かつての愛情とこんにちの憎悪が錯綜し、モザイク画のように細切れになった心象が混濁していた。混濁した想いをすべてを無にしなくてはならない。無心にならねばならない――。

 しかし、恭之介は碧の心が整うのを待ってはくれぬ。

 その長身の身体が、すっと地をすべるように動いた。

 瞬間、まさに、まばたきをひとつする間に、恭之介は碧の間近に身を寄せていた。

 碧がはっとした時には、恭之介の刀が振り下ろされていた。

 反射的に右手の暁星丸を振るって迫る刀を受け、同時に、左手の忍者刀を相手の空いた脇腹に向けて薙ぐ。

 だが、やはり瘴気がはばむ。

 恭之介の切れ長の眼が、鋭利にきらめいた。

 直後、碧は瘴気で顎を打ちあげられ、大きくのけぞって、一間ほども後ろさがりによろめいた。

「やはり」花神恭之介はまるで確信を得たようにしたり顔で云った。「やはり、お前は私を斬れぬ。愛しているから斬れぬのだ」

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