六之十五
真田丸の陣所に佐助が飛び込んだ時、眼を丸くしたのは真田幸村の隣に座っていた
「なんだその女は、けがをしているのか、大丈夫か、どこの娘だ、お前さらってきたんじゃなかろうな」
矢継ぎ早に攻め立てたる。
「以前お話しした、九度山で出会ったくノ一のひとりですが」
と、もう熱で意識が朦朧としている碧を佐助は板の間に寝かせながら、ここに来る途中に聞いた、ことのあらましを語って、ちょっと失敬、などと云いながら碧の胸元に手を入れて書状を取り出して、それを幸村に渡すのだった。
幸村は袱紗を開いて、
「たしかに、高台院様から秀頼様へ宛てた書簡のようだ」
云って隣に座る小助に手渡した。
穴山小助は幸村の側近であり、真田十勇士のまとめ役でもある初老の男であった。幸村と兄弟なのではないか、と周りから思われるほど、遠目で見ると容姿がよく似ている。
幸村は、眉根をちょっと寄せて、思案顔をした。
――面倒なものを持ち込んでくれた。
手紙は秀頼とひいてはその生母である淀の方へ宛てた、徳川との講和を促す内容のようだが、いかんせん、今はその時期ではない。
もちろん、ある種の策略のひとつとして講和を相手に打診することもあるが、真実和議を結ぼうと思うのなら、絶妙の機会をとらえなくてはいけない。
端的に云えば、戦で自軍が有利に立っている時が、その好機である。
今日の戦いは豊臣優勢で幕を閉じた。このような戦いを、数日続けた頃合いがベストタイミングであろうか。
ちなみに、大御所徳川家康も同じことを考えている。それは周囲の者さえも意をはかりかねるほど強固なもので、合戦の裏で講和の使者を交わしながらも容易に許諾せず、さらに、(これより数日後の話であるが)朝廷から送られてきた仲立ちの勅使さえも、追い返してしまうほどであった。
豊臣方としては是非とも有利な条件で和議を結ばねばならぬ。
豊臣家は千尋の断崖のふちに追い込まれている。ここで下手な条件を飲んで中途半端な和議を結べば、豊臣は滅亡への断崖を転がり落ちるばかりであろう。
おそらく大野修理も同様のことを考えて、――つまり、下手なタイミングで書簡が秀頼や淀の方の手に渡り和平を唱え始められてはたまらないと考えて、書簡奪取を目論んだに違いない。
なので、
――今はまだ早い。
と幸村も考える。
ここは大野修理や後藤又兵衛などと図って、頃合いを見計らい、修理から秀頼様にこの書簡を渡してもらうのが、この無用の長物を有効活用する最善策であろう――。
「佐助、その娘を屋敷まで運んで介抱してやれ」
幸村はいつものように使い走りをさせるような気軽さで云った。
「けど殿、こやつ徳川の間者ですよ」
「九度山でやんちゃ姫が世話になった恩もあるしな」
「こいつらが騒動を持ち込んだようなものですがね」
「まあいいさ、ここで恩を売っておくのも、悪くはなかろうて」
「はいはい、ではそういたしますよ」
佐助の軽薄な返事に、小助の顔色がさっと変じて、
「殿に対してなんだ、その口のききかたは!」
叱声を聞き流して、佐助は碧を背負って足早に陣所から退散するのであった。
杉谷善珠が、闘いに横槍を入れてきた男の影が、真田の忍者だったと気づいたのは、彼らが逃げ去ってしばらくたってからのことである。
煙が眼に入ってしくしくするのを、井戸水で洗っているうちに、ふと思い当たった。以前まだ建築途中だった真田丸を見学に行ったときに、佐助をみかけていたのであった。
怒りの収まらない善珠は、即座に真田丸に乗り込み、番士がとめるのを押しのけて、陣所に乗り込んだ。もはや博徒の殴り込みのようなものだ。
「おいっ、真田左衛門!」
「なにかな、女傑どの。そう怒っては美人が台無しだな」
平然と答える幸村を一目見て善珠は、
「すけ……、さま」
遅ればせに敬称を付けて、美人だなんてそんな、などともごもご口のなかで云いながら、そそくさと尻からげにしていた裾をおろして、襷をほどいて小袖を整え、髪を撫でつけ、眼を泳がせて、今まで怒りで上気していた顔を、別の理由で真っ赤にし、
「あ、あの、こちらの忍者が、刺客を……」
しどろもどろに云う。
「ああ、あのくノ一のことか。あれなら、うちで捕縛したが、いけなかったかな」
「いえ、その、そんな……、書簡が……」
「うん、書簡もわしがあずかったよ」
「はあ」
「お、よく見れば、修理殿のところの巴御前ではないか。なんだったら、そなたに書簡を渡しておこうかな」
「いえ、それは、お殿様のほうから、修理、さまに……」
あきれて物が云えないのは、ゼニヤスとトロハチである。日頃、男の悪口しか云わない女親分が、うなじを赤く染めて、ころりと男にまいってしまっている。彼女の後ろでふたりは顔を見合わせた。
善珠は突然ひざまずいて、額を床にすりつけんばかりに平伏し、後ろのふたりにも強要した。
そして、いぶかしむ幸村に向けて素早くにじりよって、その袖をつかんで懇願するように云った。
「私を、あなた様の巴御前にしてくださいませ」
幸村は困惑の態で手下のふたりに眼をむけ、ふたりはその視線に困惑して頭をかくしかなかった。
渋い顔で成り行きを傍観していた穴山小助は、さらに顔を渋くして溜め息とともに首を左右にふった。
この日、真田十勇士に三人の補欠が加わった。
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