五之三
嵐は眼を疑念に染めあげて彦左衛門に向けた。
妖魔が村ひとつを丸ごと占拠するなど、にわかには信じがたい話である。
それは、隣で耳だけで話を聞いている博覧強記な果心居士ですらも同意見であろう。
以前にも述べたように、妖鬼妖魔の類が人の住む里にあらわれ人を襲うこと自体が稀である。以前の、農家を乗っ取った蜘蛛鬼を嵐たちが退治した事件も、異例中の異例の出来事なのである。
それが、村をまるごととは……。
「わしも詳しい話はしらん」無責任に彦左衛門は云う。「だが、北山郷からの伝令が、途中その村の周辺で、何人か消息を絶っていることは事実だ。どうだ、面白いだろう。興味がそそられるであろう。なんせ、村ひとつがもののけに占領されているのだからな」
嵐は口をつぐんで彦左衛門の眼をじっと見返した。その話が真実だとすれば、たしかに見てみたい気がするし、妖魔を退治してやりたいという正義感からの衝動にもかられるのだ。
ほんの短いやりとりをかわしただけとはいえ、なにか直情気質の者どうし、通じるものがあったわけでもなかろうが、
――この親爺、嘘はついていないだろう。
と、嵐には直感で思える。
となれば、熊野近くのその村までは、遠く険しい道程が続くし日数もかかるが、居士がゆるしてくれるであろうか。
嵐はちょっと眼を動かして、横目で師の動向をうかがってみた。
「いいじゃろう」
と果心居士は、まるで嵐の意中を察したように諾意を示して立ちあがった。
「まだ、本格的な戦が始まるまで、いくばくかの時日がかかろう。それまでここでただ景色を眺めているのも、芸がない。退屈しのぎに、その村の様子をみてこよう」
「おおそうか、行ってくれるか」
彦左衛門は自分の策が図に当たったと、小躍りせんばかりに喜んだ。これでこの目障りな老人と小娘を追い払えた、と実際喜びを満面に浮かべている。
彦左衛門は、三河武士の共通して持っている、愚直なまでに一本気な性格を体現しているような男である。詐術をもって人を操るような思考回路はまったく持ち合わせていない。なので、この程度の策(といえないほどの策だが)がうまく運んだだけで、単純に嬉しくなってしまうのだろう。
がしかし、居士が杖の先で、おもむろに地面に一間ほどの円を描きはじめた。
その円の始点と終点が重なるまでの行程を、老旗本は顔を渋面に戻してじっとみつめた。
「この円の内は、わしらの陣地じゃからの。勝手になにかを置くんじゃないぞ」
まるで子供が戦ごっこをしているように楽し気に云う居士に、彦左衛門の眉尻がきっと吊りあがって、
「なにぃ?帰ってくるつもりか、じじい」
「この山頂に櫓でも建てるのなら、そうさのう、ついでにこの円の上に屋根でもつけておいてくれると、老体にはありがたいの」
彦左衛門はもう、絶句している。ただ歯ぎしりしながら、またこめかみに青筋を立てている。
「では、嵐よ、行こうかの」
果心居士は、地面に投げ捨てられた銭袋をひろいあげると、驢馬のつないである木の所まで歩き出した。
茶臼山から降りて四天王寺を過ぎて奈良街道を東へ向かえば、はるかかなたに生駒山地の堂々とした連なりが視界にうつる。
現代のように、大坂城周辺から生駒山麓までの間を、ビルや工場や住宅がひしめき合っているわけではない。戦場から離れてしまえば、田畝と雑木林と点在する集落があるだけの、のどかな風景が広がるばかりであった。
その牧歌的風景のなかを、驢馬に跨がる老人と、その轡を少女がとって、のんびりと歩く。
「妖鬼が村ひとつを占拠することなんてあるのかね?」
「いったいどんな妖鬼なんだろう?」
「あたしひとりで充分なんじゃなかろうか?」
話しかけてみたが、居士はまた黙りこんでしまって何も話さない。
気持ちが乗らなければ、嵐が何を訊いても答えてはくれない老人だし、かと思うと、彦左衛門に対して発したように、人を喰ったようなことを飄然と口にする。
しかし嵐は人の人格をあれこれ考察したりするような精神的悠揚さはない。ただ、そういう人間なのだ、と割り切った付き合いをするだけである。
なので、居士がどんな気まぐれで、もののけに支配されているというその村まで脚を運ぶつもりになったのか、などと詮索したりもしない。さっき茶臼山で語ったようにただの暇つぶしくらいなものだとしか思わない。
それよりも目下、嵐の胸中を締める優先的事項は、あの大久保なんとかという親爺である。
あの高慢で居丈高な物言いをする老武士の鼻をどうやって明かしてやろうかと、そんなことに頭を働かせているのであった。
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