第五章 驀進無窮

五之一

 大久保彦左衛門は、肩を怒らせ、眉間に大きな皺を寄せて口をへの字に強く引き結んで、青筋を立て――字義どおりにほんとうにこめかみに今にも切れそうな血管を浮かびあがらせ、住吉に設置された本陣の幔幕の間から外に出た。

 大股に脚を前後させ、急ぎ足に歩を進め、足の裏を一歩一歩大地に叩きつけるようにして、歩く。まるで一歩足を踏みだすごとに地面が揺れそうな具合であった。

「まったく、なんなのだ、あのくそじじい。この俺に使い走りをさせたうえに、云うにことかいて変人とは、なんという暴言かっ」

 そんなことを大声でつぶやき・・・・ながら、歩いているものだから、足軽雑兵の類からいっぱしの武将まで、ぎょっとして首をすくめたり、面倒そうなものを見る眼つきで脇によけたりするのだった。

 ――茶臼山の山頂に、妙な爺さんがいる。

 先行して陣の設営にあたっている黒鍬衆の差配からそんな報告があったのは、つい先刻の話である。

 その老人は、ぼさぼさの白髪しらが白髯しろひげ、うす汚い着物を着てあかざの杖を突いているという。傍らには美形だが背の高い娘がひとりいる、のだそうな。

 その程度のこと、いちいち本陣にまで報告にくる馬鹿は、普通いない。兵士たちが叩き出すか、抵抗するなら斬って捨ててしまえばいいだけの話だ。

 しかし、その娘が滅法強い。

 ということは、やりこめられた兵士や人足たちがいる、ということなのだろう。

 そのうえ、その老人を見知っている者がいて、

 ――どうやら、果心居士らしい。

 ということになった。

 その報告を耳にした大御所徳川家康は、顔をしかめ、面倒な奴が現れたもんじゃと溜め息まじりにつぶやいた後、おおちょうどよい、彦左衛門がおるではないか、変人には変人をあてるが一番、お前ちょっと行ってその爺さんを追い払ってこい、と来たものであった。

 それで、大久保彦左衛門は怒り心頭、というわけであった。

 彦左衛門は、後年「三河物語」を著す人物である。想像力が豊かで、妄想癖も人並みはずれて豊かである。その手の人間の例外にもれず、この男も一度自分の思考のうちにとらわれると、周囲の景色は一切見えなくなる。

「ふん、今度書く伝記に、あることないこと散々書き連ねてやろう。そうだ、三方ヶ原の敗走中に、糞を漏らしたことまでしっかりと書きあらわしてやろうか。その時になって吠え面をかいても遅いぞ、狸じじい。後世の笑いものにしてくれる」

 人目もはばからず、独言しながら、馬を駆り(馬上でも愚痴は続いた)その老人と娘のいる茶臼山までやってきた。

 ちなみに、三河物語には家康脱糞のエピソードは描かれていない。

 山頂に登るとそこは、山を覆う木々もまばらで、大坂一円を見渡せるほどひらけていて、なるほど、なかなか見晴らしのいい場所である。物見櫓を築くのにうってつけのこんな場所に居座られていたのでは、陣を敷く徳川軍としては邪魔でしかたがない。

 その果心居士らしい老人は、岩に腰かけて大坂城を眺めていて、そのかたわらには背の高い娘が立っていて、向こうの木には、老人の乗り物であろうか、驢馬ろばが一頭つないであった。

「おい、そこな物乞いじじい!」彦左衛門は、大股に歩み寄りつついきなり云い放った。「邪魔だ、どこぞに消え失せろ!」

 五十もなかばの教養をつんだ旗本とはまるで思えぬボキャブラリーである。

 果心居士はまったく何も耳に入らぬ様子で平然と景色を眺めている。が、娘のほうは、じろりとこちらをにらみつけた。

 百姓娘のような身なりであるが、なるほどけっこうな美人である。だが、明らかに勝気な性格が表れた刃物のような鋭い眼つきが難点であった。

「また来たのか、鬱陶しい」

 唾を吐くように、その娘は云った。性格だけでなく、口もそうとう悪いようだ。

「この山は大御所家康の軍が陣どる手筈になっている、戦略上重要な拠点だ。お前らのような薄汚い爺や小娘が、物見遊山にふらふらと出歩いていい場所ではない。とっととね」

「なにを、このおいぼれ」突っかかってきたのは、娘である。「さきにここに陣取っていたのは、あたしらだ。こっちが先にいたんだから、後からきたお前らがどこかへ行け」

 完全な激情型の男である。彦左衛門は、はじかれたように刀の柄に手をかけた。

「なんだと小娘っ、斬り捨ててくれる、そこへ直れ!」

「誰が直るか!」

 云い返すと同時に、娘は腕を構えた。何か体術のようなものを身に付けているらしい。

「いい度胸だ、小娘。名を名乗れ。わしは大久保彦左衛門だ。お前をぶった斬る者の名だ。しっかり頭に刻み込んで冥土へ行け」

「私は伊賀藤林衆のらんだ」

「伊賀?乱破らっぱか?」

討魔忍とうましのびだ!」

「なに、討魔!?」

 しのびのくせに、ずいぶんはっきりと自己紹介をする娘の言葉に、不意にひらめくものがあった。

 もちろん、すべてが虚言である可能性もあるが、人を騙すのに、討魔忍などと名乗るのも妙な話だ。

 彦左衛門は腕をおろして、身構えをといて、

「討魔?」

 ともう一度訊いた。

「それがどうした」

「討魔忍というからには、妖怪を退治できるということか?」

「あたりまえだ」

「ふむ」

 と彦左衛門はなにか考えるそぶりでしばらく空を眺めていたが、

「ちょっと待っておれ」

 くるりときびすをかえして、その場を離れた。

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