二之四
「わたし、考えたのよ」
鶫が裸で淀みの脇の岩に腰かけて、爪先だけを川水に浸して、話した。
「そもそも、松永弾正をからかった時に、果心居士がすでに老人だったというのが、間違いなんじゃないかしら」
「だから、なんだよ」
興味なさそうに嵐が答えた。これも一糸まとわず、淀みのみなもで彼女お得意の背泳ぎをしながら、器用に会話するのだった。
「だからね、この三日いっしょにすごしてわかったけど、態度も話しぶりもずいぶん
「はあん、どうでもいいけどね」ここまでの道中ではあれほど居士の年齢にこだわっていた嵐なのに、実際会ってみたら、もうどうでもよくなったのであろうか。
「食事を作って出すでしょう。こうして腰をかがめて前のめりになって、膳を置くの。そのとき視線が、私の顔じゃなくて胸をみてるのよ」
「男なんて、みんなそんなもんだろ」
「いやいや、百歳のいやらしさじゃないわ、あの目つき」
「そりゃ、お前の乳が無駄に大きすぎるから、つい見ちまうんだろうさ」
「ふん、あんたはつい見られるほどのものをくっつけていないから、気楽でしょうけど、いつも男にじろじろ見られるのは心労がたまるのよ」
「へいへい、そりゃうらやましいこって」
「なによ、この洗濯板」
「うるせえ、そんな邪魔なもん、ないほうが便利なんだよ」
「はいはい、それはうらやましいことで」
ふたりは、滝壺の、背丈ほどの深さで六間四方ほどの水たまりで、水にたわむれつつ雑談に興じているのだった。
そして、もうひとり、碧だけは滝下の岩の上にたって、合掌して、落水を浴び続けている。切り立った崖の上から一条の光芒を描くように清冽な水が人ふたり分くらいの肩幅で流れ落ちていた。
滝に名前はない。正確に述べると、現代に名が残されていない。
ここは山麓が複雑に入り組んで、九十九折りになった谷間を縫うように流れる神崎川という川で、その川に、御在所岳からの流水が五丈ほどの高所から流れ落ちている場所である。川の蛇行している突端で、周りは樹木が生い茂って木漏れ日が美麗な斑模様を滝壺に描く、心の癒されるような静謐な空間であるのだが、残念ながら、この物語から百年ほど後に、上流での土砂崩れが原因ですっかり流れが変わってしまい、現在では消滅してしまって、樹々がみっしりと生い茂って、滝があった痕跡すら残っていないのである。
ちなみに、この滝は、民間では存在が伝承されていたのだが、綿密な調査研究がおこなわれて、この場所に滝があったことが立証されたのは、西暦二〇一四年のことであった。O大学のS.U.教授が、執念の研究のすえにたどりついたとのことである。
碧が滝壺に立って、もう、丸三日になる。同じ態勢で立ち続け眠りもせず、身体も冷え切って唇は真っ青だったし、もはや何かを考える気力さえもなくなってしまっていた。立っているのが不思議なほどで、鍛え抜かれた碧の肉体でさえも、もはや限界が近づいているようだった。
最初の一日くらいは、まだ余裕があった。
花神恭之介に対する憎しみも胸の中に燃え続けていて、ふと彼の笑顔や、彼との逢瀬を思い浮かべては、流水さえも蒸発させるほど身を焦がして憎悪を募らせていくのであった。
嵐と鶫は、指導料の名目で、果心居士の世話をさせられていた。食事を作ったり、畑の作物の手入れや家畜の世話、夏にはえたままほったらかしにされていた雑草の草むしりなど。
その雑用のあいまに、ここにきて碧に握り飯を食べさせてくれ、そのついでに水浴びをしていくのである。以前も述べたが、もう旧暦の九月の中頃で、現代の暦で云えば十月中旬である。水だけでなく気温自体も肌寒い季節なのに、彼女たちは平気な顔で水浴びを楽しんでいる。
しかし、碧は全身が蒼白である。最初のうちはよもやま話に興じるふたりをたしなめたり、過酷な修行の不満を八つ当たりする余裕もあったが、今ではもう声を発する力すらない。花神に対する憎しみすら頭をよぎらなくなるほど思考力もない。
――もう限界だ。
などと言葉を心に浮かべることすらできない。
眼はかすんで、全身は麻痺したようにまったく感覚がなくなり、立っているのか寝ころんでいるのか、起きているのか眠っているのか、なにも理解できない、ある意味では無我の極致に達していると云えなくもない状態である。
そうして、身体がふらふらと前後左右に揺れ出して、意識が遠のきかけた寸前であった……。
「まあ、こんなもんじゃろう」
間近で声がした。
果心居士が眼の前に立っている。
碧は閉じかけた眼を、かっと見開いた。倒れかけた身体をすっと立てた。反射的に。
そこには人が乗るような岩などもないのに、水面に何気なく立って居士が云った。
「おい、そこのお供たち、この娘を助けてやれ」
嵐と鶫も突如あらわれた老人に、眼を見張っていた。嵐など驚いた拍子に、ちょっとおぼれかけたほどである。
すぐに嵐が泳いで碧のところにきて、背負って浅瀬をつたって鶫の待つ岩のそばまで運んで、ふたりで身体を拭いて、こすって温める。碧は立ってはいるものの、全身を小刻みに震わせ、形の良い乳房も震わせ、凝固した尖端すらも震えている。
いつもの野良着をはおったところで、居士がふいに暁星丸を投げてよこした。
身体が硬直していたが、碧はとっさに手を伸ばして受け取った。
「抜け、払え」
嵐と鶫は、居士の冷酷なまでの云いように、きっと老人を睨んだが、碧は、云われるがまま、あやつられるように、目の前の岩を、抜き打ちに斬った。
と、さっきまで鶫が腰かけていた、両腕を広げたほどの幅の岩が、大根のようにすっぱりと斜めに切断され、滝壺にずるずるとずれ落ち、しかし水しぶきもあげず、そっと川底に落ちていくのだった。
「忘れるな、今の感覚」
そのしゃがれた声を耳にしたのを最後に、碧はぷっつりと意識を失ったのだった。
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