二之三
いつの間に――。
三人は瞠目した。
灰色の猫はもうどこにも見えないし、いつの間に入れ替わったのか、まるで彼女たちには見当がつかないのだった。幻術なのか、妖術なのか、ただの奇術なのか……。
「山羊には喰わせるに適した草があるのじゃ。草ならなんでもよいというわけではない。下手な雑草を喰わせて、腹を壊したらなんとする」
彼女たちの驚愕をよそに、老人は語っている。
そして、湯呑みを両手で包むようにもって、ごくりと茶を飲むのだった。
「あ、あの、私たちは……」
碧は動揺しつつも、とにかく挨拶をせねば、と口を開いたがへどもどしてしまって、うまく舌が回らなかった。
「藤林の娘が、なに用じゃ」
なぜ自分が藤林の家のものだとわかったのか、碧はぽかんと口をあけて老人をみやった。
「そんな仰々しい刀を背負っておれば、ぼけたじじいでも藤林の者だとさっしがつくわい」
碧はさらに驚愕した。この老人は、暁星丸のことまで知っているのか。しかも、刀袋に入れてあるのにもかかわらず、である。もっとも、その刀袋に小さな家紋が染め抜かれていたのに気づいたのは後日であったが。
「脳みそが干からびるほど
読心術でも使えるのか、老人は碧の脳裏の考えに的確に答えるのだった。
「おぬし程度の小娘の底の浅い思考など、心が読めんでも、たいがいわかる」
「は、はあ」
「わざわざ藤林の娘が、暁星まで持ち出してわしを訪ねてくるとは……。恭之介がなんぞしよったか……」
老人は、白髪白髯の中で苦虫をかみつぶしたような顔をした、ように碧には思えたのだった。
そうして少女くノ一たちは、果心居士にあがれとすすめられ、囲炉裏の周りに腰をおろした。まだ狐につままれたような顔のままで。
碧は自己紹介をし
居士は黙然と聞いていたが、話が終わると、髪と髯の間からぎろりと、奇妙なほど大きな眼で碧を睨むように見つめた。
「恭之介めが」としわがれた声で吐き捨てるようにつぶやいた。「あの男、わしの伝授した忍術だけでは飽き足らず、おかしな妖術まで身につけよったか。不肖と云うてあれほど不肖の弟子はおらん」
あの時、――関ヶ原の戦いの時に佐和山の山村で出会った少年に、ふと気まぐれに忍術を教えてみたくなって、果心居士は彼を育英した。少年の何が老人にそんな気を起させたのか、今もってわからないが、花神恭之介は真綿が水を吸うごとく、教えたことを確実に身に付けた。忍術だけでなく、幻術の類も教えたが、すべて短期間に習得したのだった。
彼の天賦の才は忍術幻術だけにとどまらなかった。頭が切れた。あいまいな問いかけも、指示も、的確に判断して間違えることがなく、すべて遺漏なくこなした。神童すぎて可愛げがないほどの、怜悧聡明な頭脳を持っていた。
居士は花神の才能を愛した、そして恐れた、心の奥底で嫌悪すらしていた。
面白いと思ったのだ。期待したのだ。この男なら、閉塞した忍の世界に風穴を開け新鮮な空気を取り入れてくれるかもしれない。泰平の世の中でしだいに衰退していくしかない忍の世界に、技能に、変革をもたらすかもしれない。
しかし実際、その
――ああ、あやまてり。
老人はそのあばらの浮き出た胸の内で、悔恨し懊悩した。
かの男に忍術を教えたは、我が人生最大の過ちであったか。しかし邪道に走った最愛の不徳漢をどう誅滅すればよいか。干からびたこの脳みそで、どれほど熟考しようと、いかなる思案が浮かぼうか――。
彼の視界、――ぎろりと碧を見つめるかたわらに、袋から出された、
――この娘に……、この暁星丸にかけてみるか。
それもこの老人特有の、気まぐれから発した思い付きであったかもしれない。
「娘」
「はい」碧が端然と答えた。
「その宝刀の由来を知っておるか」
「詳しくは、存じませんが……、人ならぬ者をも貫ける霊剣であると伝え聞いております」
「刀自体は、さしたる名刀でもない。暁星丸が霊剣であるゆえんは、その
「はい、まぐれのようなものでしたが」
「うむ、まぐれをまぐれのままにしておいては、
「なにか、妙案でもございましょうか」
「妙案も妙案」
「それは」
「この先に、滝がある。お前、そこで打たれて来い」
「はあ」
「わしがよいと云うまで打たれて来い。打たれ続けよ。滝の下からいっさい動くでないぞ。飯はそこな供の者たちに喰わせてもらえ。糞尿は垂れ流せ」
「え……?」
碧はこの老人のあまりにもデリカシーの欠けた指示に、耳を疑う思いがした。いくらなんでも、歳頃の娘に発していい言葉ではないだろう……。
「着物も着るな、素っ裸で落水を浴びるのじゃ。よいな」
碧は口をあんぐりとあけて、老人の顔をみた。この庵に着いてから、何度目の驚愕であったろう。
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