一之十五

「おやめなされ、長門どの。貴殿には格別の怨みもあらず、先代にはひとかたならぬご恩もござる。さりとて我が大望、我が道ゆきの邪魔をいたされるなら、お手向いつかまつらねばならぬ」

 花神は慇懃いんぎんに、しかし高慢に、言葉をつむぐのであった。

 まるで、自分のほうが実力は上なのだから弱いお前は見逃してやる、そう云っているようだった。

 長門は歯噛みした。

 愚弄と云ってこれほどの愚弄があろうか。

 長門、これまで生きてきてこれほどの屈辱を味わったことはない。

 しかし、失敗であった。こそ泥と侮って、刀剣を身につけていなかった。

 すると……。

 花神の頭上、遥か上空からふわり、ふわり、数枚の紙切れが舞い落ちてきた。まるで天使の羽根かと思えるほど静かに、優雅に。

 眼前の長門に気をとられていた花神は、それに気づかない。

 はっとしたのは、その紙切れが、肩や二の腕や背中に、まるで糊か何かが塗られでもしていたように、ぴたりと吸い付いた時であった。

 その紙切れは短冊状の、文字や図が書かれた呪符であった。

「動くな!」

 渋い声音の鋭い大喝とともに、花神の右手数間先の土蔵の壁に、影がひとつ現れた。

 長門も、はっとそちらを振り向く。

「おお、又左っ」

 現れたのは、加瀬又左衛門であった。

 平素の茶褐色の着物に、鼠色の袴を着けていたが、すでにたすきをかけて股立ももだちもとっていて、戦闘態勢万全の格好であった。

「とうとう馬脚をあらわしたのう、花神よ」

 又左衛門は右手に握っていた鈎爪かぎづめを、花神に向かって投げつけた。

 鈎縄と呼ばれる、二股の鈎爪のつけねに細縄が結び付けられているもので、それが、花神の握っていた暁星丸に絡みつき、又左衛門が縄を引くと、宝刀が宙を舞うように、老人の手へと所在を移した。

 花神はなされるがままであった。まるで身体が硬直しているように。いや、完全に硬直していたのだった。

 忍法緊縛呪――。

 この忍法は魔術妖術の類いではない。呪符になにかしらの妖力が籠められているわけでもない。書かれている文字も、悪霊退散とか天魔調伏とかいう魔除けの文言であって、さしたる意味もない。これは一種の暗示術である。相手の意識を呪符に集中させ、一喝の声を投げかけ、催眠状態にして金縛りにかけるのだ。

「お頭」と又左衛門は長門に向けて云った。「いくらご自身の屋敷うちとはいえ、脇差いっぽんも帯びずに庭内をそぞろ歩き、あまつさえ、夜盗にたち向かうなどは、まったく油断でござる。この十五年の泰平に慣れて、お気が緩まれましたか」

 こんな時でも、あるじに対して容赦のない、又左衛門の小言であった。

 長門は、それを耳で聞き、眼は花神を油断なく見つめたままで、苦笑した。

「又左、説教は後の楽しみに取っておいてくれ。それよりも、この裏切り者の始末が先だ」

「で、ござるな」

 くくく、と喉の奥で笑ったのは、花神であった。

 老練の忍者である又左衛門の緊縛術にかけられて、この男はまだ余裕の笑みをもらしたのだ。

「気を引き締めなされ、お頭」

 又左衛門は忠告し、自身も気を引き締めて腰を落として身構えると、宝刀を長門に投げて渡した。一緒に何かが入った巾着袋も投げた。

「うむ」

 長門がそれらを受け取って、うめくように頷く。

 彼は、一瞬躊躇ちゅうちょした。

 ――俺にこの暁星丸をあつかえるか……?

 くくく、花神がまた笑う。

「老いたな、又左衛門」

 馬脚を露わしたついでに、慇懃いんぎんさも捨て去ったように、まったく無礼な調子で云うのだった。

「この程度の緊縛、我に通じると思うかっ!」

 叫ぶとともに、身体に付着した呪符がはじけるように剥がれ落ちた。

 同時に、

「しゃっ!」

 又左衛門の鈎爪が飛ぶ。

 花神は身をよじって左腕にそれをからませた。

 又左衛門が縄を引っ張る。

 花神はその牽引に身を任せるように、宙を舞った。舞いつつ、右手で腰の刀を抜いた。くるりとひるがえりつつ、その刀を接近した又左衛門に振り下ろす。

 そこへ、横合いから長門が飛び込んできて、暁星丸を打ちおろした。

 だが……、花神は着地すると鉤爪の緩んだ左手で、平然とその刀身をつかんだ。素手で刃をつかんでいるのに血の一滴も流れない。そして、

「お前では使えぬか、長門」

 嘲弄の言葉を吐いた。

 その手から、暗い紫色の瘴気が湧いて出ている。

 長門は、刀を動かそうとするが、いくら渾身の力を込めても、瘴気のバリアに遮られた刀身は押せども引けどもまるでびくともせぬ。

 又左衛門がまた縄を引いた。

 鈎が緩んでいたので縄が抜けてしまい、花神の左腕を軽く引き寄せただけだったが、つかんでいた宝刀からは、手が離れた。

 長門が、飛び退る。

 花神の左一間に長門、右二間の位置に又左衛門。

 完全に挟み撃つ態勢になっていた。

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