混乱のテンパリング

「では」

「ありがとうございました」

 魚村がスタッフ用出入口を開ける。家に帰って着替えをスーツケースに、日用品をボストンバッグに詰めた私は、スイートラジオに向かった。後ろからは尾けてきてはいなかったようだが、かなり遠回りしてスイートラジオに向かった。

「茂樹くん、この前の同棲の話なんだけどさ」

「どうしたの」

「少し早めていいかな」

「いいけど……何かあったの?」

「喫茶店のモリブデン415に行ったときに、誰かにつけられてたみたいなんだよね」

「見たところここまでは来てないみたいだけど」

「それから、そのモリブデン415でこの前言ってた魚村さんに話を聞いてきたんだけどさ」

「ほう」

「水上に引き揚げられない氷山の全容を見るには合計4つの目が必要だ……って茂樹くんに伝えておいてほしいって言われたんだよ。でもまったく意味が分からない」

「……魚村くん、なかなか良いことを言ったね」

「どゆこと?」

「まさにその通りでね、僕たちは大事なものを見落としていたみたいだよ」

「……?」

「ヒシマキはたいした脅威じゃないって言ってたんだろ?」

「うん」

「それ以上の脅威が、すぐそこに迫ってるってこと……魚村くんも感づいてるとはね」

「……もしかして」

「とりあえず同棲の話だったね。すでに片付けは終わってるから住めるよ」

「ありがとう」

 私は居住スペースに入ると、持っていたスーツケースとボストンバッグを床に置いた。この前は黒く汚れていた床はきれいに磨かれている。茂樹くんがきれいにしてくれたのだ。

「もしかして……茂樹くんはもうその大きな脅威が何なのかわかってたりする?」

「まだ確証はないけど」

「……知恵は多いほどいいって言うし、私にも教えてくれる?」

「うーん……」

 茂樹くんはかなり悩んでいたが、うなずいて話し始めた。

「田中さんっているだろ?」

「あの……元店員の?」

「そう。あの人は妙に怪しいんだよ」

「どこが?普通に見えたけど」

「あの人はかつて店にいた頃、僕に対してあまり協力的ではなかった。僕を嫌っていと言ってもいい。そんなあの人がここまで行動を変えているのが本心からの行動なら、今更スイートラジオにここまですり寄ってくるのはいささか不自然だ。優花さんに対してそのことを伏せていたのも疑わしい点で、『あの頃の過ち』が何を指すのかは分からないからなんとも言えないけどもしかするとスイートラジオを潰さなかったことかもしれない」

「潰さなかった……って?」

「田中さんはスイートラジオのレシピを盗もうと思えば盗める立場にいたからね」

「……もしかして」

「そう、僕は田中さんがレシピを公開することを危惧しているんだ」

「……そうか、レシピは店の命でもあるんだ」

「機械化できるレベルのレシピだから、再現しようと思えばいくらでも再現できる。そういうことだよ」

「なるほど……となると危ないのはレシピの棚か」

「来月までになんとか手を打っておく必要がある。なんとしてもレシピを守らないと」

「そうだね」

「レシピはすでに僕の頭の中にあるから破棄してもいいんだけど、後継者がまだ見つかってないし、さすがにそれはまずい気がする。なんとしたものか……」

「偽レシピを用意しておくとか?」

「うーん……」

「とりあえず方法を考えようよ」

「そうだね……まあいいや、そういうことなんだ。で、今夜何にする?」

「キッチンってどうなってるの?」

「換気扇が強い以外は普通のキッチンだよ」

「へえ」

「で、どうする?」

「茂樹くんに任せようかな」

「わかった。じゃあビーフシチューで」

「ありがとう」

 ビーフシチューのおいしさは言うまでもなく悩みが吹き飛ぶようなものだった。私は茂樹くんが入った後の風呂につかって、頭の中を空っぽにした。風呂から上がると、茂樹くんは机に向かって何かを書いていた。

「何書いてるの?」

 茂樹くんに聞くと、茂樹くんはペン先をノートの上で滑らせながら言った。

「作戦だよ」

「なんの?」

「このスイートラジオを守るための作戦さ」

「はええ」

「じゃあそろそろ寝ようかな」

「まだ9時だよ?」

「明日はちょっと早起きしたいからね」

「早起きって何時?」

「3時」

「朝の?」

「昼だったら寝過ぎだよ」

「それもそっか……って何するの?」

「田中さんが店に来る時間よりも前に作業が終わるように……ね。その頃を見計らってちょいと細工をしておかないと」

「細工って……」

「もちろん違法なものじゃないよ。でもそれぐらいに起きておかないと時間がかかりすぎるから」

「なるほど、さっきの作戦だね」

「そうそう。作戦としては、抑止のために防犯カメラを設置しておく。それからレシピの控えを書き換える」

「というと?」

「レシピの原本は手持ち金庫に入れてから銀行の貸金庫に入れてある。それで、この店に置いておいた控えがあるんだけど、その控えを暗号にしておくんだ」

「暗号にするって……解読されたら終わりじゃん」

「そもそもレシピはこれまでも暗号だったんだ。だから、それを消して新しい意味をなさない暗号を書き込んでおくんだよ」

「なるほどね……ところで、盗聴とかされてないの?」

「大丈夫」

 茂樹くんはそう言うとノートを指した。そこには「嘘を言っておく」という文字。そしてノートには、茂樹くんの本当の作戦が書かれていた。

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