第5話 不吉なトマト、異郷のカエル

 エルグランドの令嬢と貴公子の間に恋が芽生えたら、連日サロンと夜会を出入りして二人の間に立ちふさがる山谷に挑むのだが、現在のエリザとミカエルの場合は一泊二日の公式行事中である。

「おはようございます」

「ああ、おはよう。よく眠れたか」

 目的地まで越えるべき山谷は一つもなく、朝食を取って一刻ほどで現場に到着、後はカエル慰問をこなして帰城するだけだ。もう少し二人の共同作業的な行事を入れてくれればよかったのにと、ミカエルは心中でひっそりと悲しんだ。

 いや、ミカエルを思って最小限の行程を組んでくれたエリザを恨んでどうするのか。懐の小さい自分を反省していたところで、ミカエルはエリザが眉を寄せたことに気づいた。

「どうした」

「その……実家のトマト畑がお化けガエルに食い荒らされる夢を見ました」

 エリザは苦笑いして、少しやつれた様子で目を伏せた。

「可笑しいですね。カエルはトマトを食べません。それにうちのトマトはもう収穫が終わったと聞きました」

 それはエリザにしては珍しく気弱な声音で、憂いを帯びた灰色の瞳がどこか儚げだった。

 言っているのはトマトのことで、全然儚くない現実的な夢だったが、ミカエルにはそれは寝起きゆえにエリザが打ち明けた本音にも思えた。

 エリザは融通が利かなそうに見えて、最後はミカエルに従ってしまう。ミカエルがエリザをカエル事変の担当者にしたのも、夏の間、自分の側を離れてエリザに実家に帰ってほしくないからと気づいているのかはわからないが、結局今年も彼女は帰らなかったのだ。

 自分は仕官という立場を崩さず、エリザはミカエルから宝石もドレスも受け取ったことがなかった。十二歳から働きづめで、サロンにも劇場にも出かけたためしがない。その彼女を確実に喜ばせてやれるのはきっと実家の家族とトマト畑に違いないのだが、エリザのいない毎日を想像するだけで気分が暗くなる自分では、その数日間の許しが出せなかった。

「許してくれ。君にはトマトの栽培よりやってほしい仕事があるんだ」

 けれどミカエルは、世間でいう恋人同士と同じステップが踏めなくてもいい。差し当たって昨日のダンスでは、二人手を取り合って笑えるとわかってうれしかった。

「今日、目的地に着いたら公式に求婚する。覚悟をしておいてくれ」

 まだエリザとの間に目に見えない山谷がある気がするが、とにかくカエル慰問のときに婚約発表をするのは決まりなのだ。ミカエルの両親に至っては結婚式で初対面して仲良く暮らしていたわけで、出会って十年後に結婚する自分たちは遅すぎるくらいだ。

「今年の夏は、お化けガエルに忙殺させて悪かったな。欲しいものがあったら何でも言ってくれ。できる限り叶えてみせる」

 ミカエルは笑って朝食の席にエリザを促したが、エリザが本当に困っているときは言葉も出なくなることはまだ知らなかった。

 白い光が窓から差し込む中、グヴィン伯が手配したテーブルにはまだ朝露に濡れている果物が並べられていた。昨日の酒席で疲れた胃をいたわるように、温かなミルクも添えられていた。

「殿下、我が城での一夜はいかがでしたか」

「愉快で快適な一夜だった。心より礼を述べたい」

 グヴィン伯とミカエルが談笑するのも、エリザは上の空で聞いていた。頭にのしかかるのは「結婚」、自分には遠いと思って考えたこともなかったその通過儀礼だ。

 エリザは初の女性仕官だが、後輩の仕官令嬢も今は大勢いるわけで、中にはヘレナのように結婚している令嬢もいる。二十二歳の今、親戚の結婚式にだって何度も行ったことがあるし、実家の弟だってもう結婚している。身の回りで結婚が遠い話かというと、そんなことは決してない。

 ちらと隣の席に座るミカエルをうかがう。家族と同じくらい長い時間一緒に過ごした人、エリザが生涯を賭してお仕えすると決めた大切なお方。一日の仕事を終えて、一人になったときに思い浮かべると……心の中がもぞもぞとしてくるのは、まだ本人に伝えたことはないけれど。

「……殿下、お待ちください」

 ミカエルが食卓のトマトに手を伸ばした時、エリザはとっさに止めていた。

 言葉をやめて振り向いたミカエルとグヴィン伯、その前でエリザは泣くのをこらえるような声で言っていた。

 どうしたと、ミカエルが優しい声で問いかけて顔をのぞきこむ。半分仕事の時間で、エリザはこんな風に自分のことで頭がいっぱいになっているのが情けなかった。

 エリザは首を横に振って、仕事をしなさいと自分に言い聞かせる。できるでしょう、十年間そうしてきたのだからと心で繰り返すと、胸に詰まった感情が少し落ち着いた。

「グヴィン伯にも失礼と承知で申し上げます。このトマトは殿下に差し上げられません」

「まさか」

 さっとグヴィン伯が顔色を変えてトマトの皿を引き寄せる。すぐさまナイフで切り分けると、彼は頭を下げて詫びた。

「殿下、私の失態です。これは殿下にお出ししてはいけない食事でした」

「どういうことだ?」

 ミカエルが毒を疑って席を立ちかけると、エリザは進言の口調で言った。

「これは収穫の早すぎるトマトなのです。酸味とアクが強すぎて、弱った胃腸を直撃し、時に腹痛を起こす。それはそれで問題ですが、最大の問題は」

 グヴィン伯とエリザは辺境に住まう者同士目線を交わし合って、力強くうなずきあう。

「食べたのを後悔するくらいに不味いということです」

 ミカエルは息をついて席に掛けなおすと、力が抜けたように言った。

「……毒ではないんだな。ならいい」

「よくありません。トマトが不味いなんて許せない」

 トマトの一大産地オーギュスト伯領の令嬢として、エリザは首を横に振る。

 自信を持ってお届けできる美味しいトマトが、収穫の時期を間違ったがために食卓で嫌われるという悲劇を何度も見てきた。仕方がないのですよ、雨とか暑さとかいろいろありましてねという実家の使用人たちの苦い顔が頭をよぎる。

 ある日、待てばいいのにとぼやいたエリザに、そういう気の長い人ばかりじゃないのよと友人のヘレナが答えた。短気を起こして婚約破棄なんかしちゃだめよと、笑って付け加えた。王子に限ってそんなことはないでしょうけど、とも。

 婚約……婚約破棄? ヘレナが最近人気と言っていた本のラインナップにもその言葉が並んでいて、エリザはなぜか心で繰り返していた。

 窓の外でけろりとカエルが鳴いている早朝、エリザの心はすでに異郷の物語へ飛んでいた。

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