小さな幸せ

武蔵山水

小さな幸せ

夢の中に出でる女たちは果たして一体何を意味しているのか、私はそれを特に知りたく思ってフロイトの『夢判断』を購った訳であるが未だ読まずいにいる。その『夢判断』は現在私の本棚のスタンダールの著であり大岡昇平が訳した『恋愛論』の隣に寂しく突っ立っている。


 私の夢に女が出てきた。そしてそれは私が好きだった女であった。私は女が夢にいでれば(その女に好意を持っていれば殊更に)性的な夢になる傾向が強いのである。今回の夢もある意味では性的な欲求を夢の中で叶えんとする夢であったのかもしれないが直接的な性行の描写がなかった事から普段の性的な夢とはだいぶ違った。私はその夢より想起したのはある意味でのかつて存在した田園の幸福に対する観念、つまりはノスタルジーといったところであった。

 好きな女とは必ずしも付き合えるわけではありはしない。宝がいつも手に入れるとは限らないと同義である。思い返してみれば私はその夢に出たる女に対しては思惟的な恋愛感情というものは存在していなかった。これは自らの性生活を告白する事が恥ずかしてくて表現を濁している訳ではなく事実そうなのだ。私は夢に出たる女に対しては同時期に恋愛していた女への助言を求めているに過ぎぬ存在であった。しかし夢に出たる女とは出会ったその刹那より意気投合し行動を共にしていた。女は私にとても優しかった。その優しさは果たしていかに表現しようか。例えるならば無償の愛情を提供した、とでも言ってよかろう。また別の言い方をすれば私の弱みを無意識に守備をしていたのだ。

 女は私と頻繁に行動を共にした。そして何気なく声を掛けるその声は常に私が心に装備したる重厚な鎧を溶解させた。常に私は女の前においては私という形成されつつある社会性を持った私、以前の私にしたのである。

 恋はその根底に欲求がある。欲求とはそれすなわち高みを望まんとする意思である。そしてその意思は時として人を迷妄の最中に導く。恋の獲得に人は無理を自己に強いる。対象が自己とは決して相見えることはないであろう存在であれば存在であるほど人はそれを会得せんと躍起になる。果してそれは良い事なのかもしれない。誰かが言っていた「恋は盲目」というのは畢竟するにその高望みを得るために躍起になり当たりが疎かになるという様態を要約した箴言であろう。

 身の丈に合った恋愛をしよう、それこそ私が提言したい言説なりしが些か聞こえの悪いのは承知である。しかし恐らく、身の丈にあった恋愛を見つける事が又はそれに気づくことの方が恋愛の中で最も難しい事ではなかろうか。それは自己の無知を自覚するのと同様である。行き過ぎた時間を省察するのは誰でも出来うることである。また来る未来に思いを馳せつことも然りである。だが、只今を見続けることは一番難しい。人間にとって只今こそが身の丈にあった座標点なのである。只今を知るからこそ幸せを見る事ができるのである。そしてそれをし続ければこそ不断の幸福を得るのである。

 では以上の事を踏まえつつ夢に出たる女の話に戻ると私は事実、その女と付き合うべきであった。この際、恋愛の主体性の問題は棚上げにさせてもらって個人的な領域の問題にする事をご容赦願いたい。

 私は夢に出たる女と時を共有する事に自然な快を感じていたのである。彼女の優しさはまるで母親の愛情に似ていた。それに甘んじた私は彼女の心情というものを些かも垣間見ることのできない愚か者であったことは言うまでもない。結局のところ私は彼女とは違う女と交際し破局した後、非常にみっともない体裁を彼女及び周囲に晒した。結果的に、私は彼女から離れるに至った。そして過ぎ去った時、初めに私は彼女と共にいた幸せに気づいたのだった。

 

 この小説は結局のところ過ぎ去った時と遊び戯れたに過ぎないが私はこのプロセスを経て改めて過ぎ去った優しさに気づいたのであった。現状の私がただできる事は国に帰った彼女の幸福を祈るのみである。

 決して最早、愛す機会を失った彼女の幸せを祈るのみである。

(了)

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小さな幸せ 武蔵山水 @Sansui_Musashi

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