潔白を信じて

 午前10時を過ぎた頃、木場は花荘院邸に到着した。漆塗りの門を潜り、邸内に足を踏み入れると、たちまち昨日と同じ見事な庭園が眼前に広がった。松や銀杏、それに楓の木々が水鏡に映り、空の青さも相まって見事なコントラストを創り上げている。静謐な空間の中で時折風が木々を揺らし、はらはらと舞い落ちる葉の姿がまた何とも美しい。

「うーん、何回見ても綺麗だねぇ」茉奈香が感嘆の息をついた。「東京都内、知られざる紅葉の名所! ってSNSにアップしたらバズりそう」

「怒られるから止めとけよ。ここ、一応個人の家なんだからな」木場が釘を刺した。

「わかってるよ! ちょっと言ってみただけじゃない!」

 茉奈香が頬を膨らませた。連日の捜査だというのに、朝から元気な奴だ。

「えーと、花荘院さんはいるかな?」木場が額に手を当てて辺りを見回した。「昨日案内してもらった部屋は確か……」

「あ、見てお兄ちゃん。若宮さんがいるよ!」

 茉奈香が木場のスーツの裾を引っ張った。木場が振り返ると、茉奈香が指さした先で、若宮が履き掃除をしているのが見えた。木場に背を向けた恰好で、肩まで伸びた黒髪が草色の着物にかかっているのが見える。あの上に割烹着でも着ていたら、遠目からは女中さんにしか見えないだろう。

「どうする? 若宮さんに声かける?」茉奈香が尋ねた。

「そうだな。花荘院さんが家にいるなら、若宮さんに呼んでもらった方がいいと思う」

「もし先生いなくても、若宮さんから話を聞けるしね。おーい、若宮さん!」

 茉奈香が声を上げ、若宮が竹箒を履くのを止めて振り返った。黒髪が顔にかかり、片方の手でそれを払う。その何でもない動作でさえも、若宮がすると色っぽく見える。

「おや、あなた方は……」若宮が柳眉を上げた。

「連日すみません」木場が頭を下げた。「ちょっと花荘院さんにお聞きしたいことがあるんですが、今はご在宅ですか?」

「先生は本日、講演のために外出されております。お戻りになるのは夕方になるかと」

「やっぱり……」

 木場ががっくりと首を垂れた。うすうす予感はあったが、実現すると自分の浅はかさが身に染みて辛い。

「ですが、警察の方が先生に何の御用でしょうか?」若宮が怪訝そうに尋ねてきた。「御友人の件であれば、昨日お話は済んだはずでは?」

 木場は返答に迷った。若宮に正直に話してしまってもいいものだろうか?被害者が13年前の誘拐犯であったことや、花荘院の娘がその被害者であったことを。

「実はね、若宮さん。先生、ひょっとしたら今回の事件に関係あるかもしれないんです」

 木場の逡巡を嘲笑うかのように、茉奈香があっさり暴露した。木場は思わず白い砂利の中にずっこけそうになった。

「お……おい茉奈香! 勝手に喋っちゃダメだろ!」

「いいでしょ。どうせ遅かれ早かれ警察が話聞きに来るんだから」茉奈香が悪びれもせずに言った。「それに、ここまで来たのに何の収穫もなしで帰るわけにもいかないし」

「いや、そうだけどさ……」

「……失礼。あなた方は、いったい何のお話をされているのですか?」

 若宮が口を挟んできた。上目遣いに、訝しげな視線を木場に送っている。こうなったら仕方がない。木場は腹を括って話し始めた。

「実は昨日、被害者の身元がわかったんです。被害者の名前は黒川伊三雄。13年前に誘拐事件を起こし、つい1ヶ月前まで服役していました」

 その名前を口にした途端、若宮の切れ長の目がみるみる開かれた。

「……まさか、あなた方は……楓様が誘拐された事件のことを仰っているのですか?」

「はい。若宮さんもご存知なんですか?」

「ええ……当時私は、すでに先生の門下に入っておりましたから、楓様とも面識はありました。いらっしゃるだけで場が華やぐような、とても愛らしいお嬢様でした……」若宮が顔に苦渋を滲ませた。

「花荘院さんの奥さんともお知り合いだったんですか?」茉奈香が尋ねた。

「ええ……。入門した当時、私は弟子の中でも最年少でしたから、奥様は私を実の子どものように可愛がってくださいました」若宮が悩ましげにため息をついた。「稽古で遅くなった時には夕食をご馳走してくださり、屋敷に泊めていただくことも珍しくありませんでした。奥様が亡くなった時……私は肉親を失ったような悲しみを味わったものです。

 私が内弟子になったのは、先生や奥様から受けた御恩に報いるため、先生の身辺のお世話をさせていただこうと考えたからなのです」

 木場は頷いた。若宮と花荘院一家の間には、木場が想像していた以上に深い繋がりがあるようだ。

「花荘院さんは、黒川によって娘さんを殺された」木場が言った。「つまり花荘院さんには、黒川を殺害する動機があるということです。そこで念のため、花荘院さんの一昨日の行動をお聞きしたいと思って来たんですが……」

 木場が若宮の顔をちらりと見た。若宮は薄い唇をぎゅっと引き結んでいる。尊敬する師匠が、殺人などするはずがない――。そう言い出したいのを堪えているのだろう。

「一昨日でしたら、先生は1日屋敷にいらっしゃいましたよ」

 若宮がぽつりと言った。

「その日は1日稽古がございましたから、数十名の弟子が屋敷に出入りしておりました。もちろん、私もその中に」

「夜はどうですか?」茉奈香が口を挟んだ。「昨日は確か、どこかにお出掛けされてましたよね?」

 被害者の死亡推定時刻は18時から22時半、重要なのは夜の方だ。

「ご覧になっていたのですか」若宮が意外そうに眉を上げた。「昨晩は、さる大学教授の方と会食がございまして、私も同行させていただいたのです。ですが一昨日の夜は、先生は屋敷から一歩も出ておられませんよ」

「その辺りのこと、もう少し詳しく教えてもらえますか?」

 木場がスーツのポケットから手帳を取り出して尋ねた。若宮は一瞬ためらったが、すぐに頷いて話し始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る