影猫と穏やかじゃない昼

 黒蜜夜花はその昔、父親からとある宝石を渡されたことがある。


「贈るなら絶対に、君だと思った。酷いことに、なるかもしれない。けど、大丈夫。きっとそれが、君を守ってくれるから」

「……あ、ありがとう……ござい、ます」

「敬語は、よしてくれ。僕は君の、お父さんなんだから」

「……うん」


 七歳の夜花はこの時、初めて父親と顔を合わせた。

 生まれた時から母親と、母方の祖父母と叔母の五人で暮らしてきて、その生活に父親が関わってくることはなかった。

『私のお父さんはどこ?』

 小さな頃に何度も訊ねたが、誰も詳しいことは教えず、『今は無理だけど、きっといつか迎えにくるから』と、それしか言われない。

 次第に、その質問をすると叔母が不機嫌になることに気付いてから、夜花は何も訊かなくなった。

 だが、ある日。

 学校から帰ってくると、母親が誰かと電話をしていた。

 嘘よ、だの、どうしたら、だの、目に涙を浮かべながら誰かと話しており、今まで母親のそんな姿を見たことがなかった夜花は身動きもできず、受話器が置かれるまで、じっと母親を見ていた。

 通話を終えてから、夜花の存在に気付いた母親は、勢い良く夜花の手を掴み、言ったのだ。

『お父さんに会わないと』

 ランドセルを下ろす暇もなく、そのまま母親と家を出て、途中でタクシーに乗り、着いた先は病院。

 夜花はただ、母親に手を引かれただけだ。

 受付をしたのも、どこからかやってきた黒服の大人達への説明も、目的地に向かうのも、全て母親に任せた。

 七歳の夜花には、何も分からない。

 そうして連れてこられたのは、広々とした個室。

 ベッドには白髪混じりの、穏やかな顔をした中年男性が一人、上半身を起こしてそこにいる。

 その男が夜花の父親で、背中を押されて、言われるがまま、父と娘は初めて会話をした。

 人見知りをして上手く話せない夜花を、父親は目を細めながら相づちを打ち、そこまで弾まないまま続いた所で──父親は吐血した。

 怯える夜花、慌てる黒服の大人達。

 父親は大丈夫と言いながら、汚れた口元を手で拭い、夜花に、ベッドのすぐ傍にある机の引き出しを開けてくれと頼んだ。

 震える身体でどうにか近付き、引き出しを開けると──そこには色褪せた銀色の、ロケットペンダントが入っていた。

「手に取って、中を見て」

 蓋を開けてみれば、夜花の親指くらいの、黒い正方形の石が入っていた。

「それはね、僕の家で代々、引き継いできた物なんだ。そんな形を、してるけど、本物のダイヤでね、」

 そして父親は、一際優しい笑みを浮かべた。


「贈るなら絶対に、君だと思った」


 その後、父親の主治医が来て、初めての対面は強制的に終了した。

 だが、病室から出た夜花と母親は黒服の大人達に囲まれ、駐車場まで連行され、黒塗りの車に乗せられる。

「お二人の安全の為、これからは主が用意していた屋敷にて、暮らして頂きます」

 最後に挨拶を、と母親はスマホを渡され、どこかに電話を掛ける。

 夜花は何も分からなかった。

 不安で、不安で、首にさげたロケットを、両手で握りしめていた。

 その内、叔母の怒号がスマホから聴こえた。

『──この不倫女! 娘にいらない苦労を押しつけるな!』

「……私達のことは、どうか忘れて」

 電話を終えた母親は、そのまま夜花を抱きしめた。

「ごめんなさい。ごめんなさい、夜花」

 気付けば母親は泣いていた。

 病院に着くまで、病室にいる時、駐車場に連れてこられてから、溜まった涙が落ちることはなかったのに。

 夜花は何も分からず、不安で、怖くなって、ロケットを握りしめることしかできなかった。


◆◆◆


 あれから、十年。

 黒蜜夜花は女子高生となり、たまに命を狙われながら、毎日を過ごしている。


 一応、母一人娘一人、広すぎる屋敷で平和に暮らしてはいたのだ。ほんの二年前まで。

 夜花が中学三年生になった頃、一人の少年が彼女に会いにきたことで、平和な日常は終わりを告げる。


「はじめまして、姉さん」


 その少年は、在りし日の父親とそっくりで、


「あなたの弟の、音夜だよ」


 どことなく、夜花にも似ていた。


「父さんから宝石もらったよね? アレは本来、男の子が持つ物なんだよ。……妾腹の娘が持ってていい物じゃない」


 その頃には、夜花も自分の立場を理解していた。

 だから、本来どうするべきか、頭では分かっていたのだ。

 でも、夜花はそうしなかった。

 父親から贈られた、唯一の形見を、握りしめることしかできない。

 それが少年の怒りを──音夜の殺意を助長させるとしても。


「お前らがいなければ、母さんはもっと長生きしたのに!」


 いつの間にか、その手にはハサミが握られて、夜花目掛けて走り出す。

 夜花はロケットを握りしめながら、その場から動かず──叫んだ。


「助けて■■■っ!」


 夜花の影から何かが飛び出し、音夜の顔面にぶつかる。

 いきなりのことに彼は尻餅をつき、手に持っていたハサミは地面に転がった。

「……そいつが、もしかして」

「……ありがとう、■■■」

 夜花の前には、彼女を守るように一匹の黒猫がそこにいた。

 毛を逆立たせ、低く唸り声を上げるその黒猫は──夜花の影から出てきたものの正体。

「すっかり懐柔してるみたいだ。妾腹の娘の分際で。……そいつは、我が家の長男を守らないといけないのに!」

 音夜は立ち上がろうとするが、その瞬間、彼の手や足に鋭い痛みが走る。

「……っ!」

 地面に転がり苦しむ音夜。

 黒猫は優雅に、血に汚れた前足を舐める。

「……謝って済むことじゃないけれど、色々ごめん。でも、宝石も、この子も、あなたには絶対に渡せない」

 夜花は黒猫を抱き上げ、その小さな頭を撫でた。

「私が死ぬまで、待ってくれないかな? あなたの子供か孫に渡してあげるから」

「──ふざけるな! それは僕のだ! お前を殺して、僕が手に入れてやる!」


 こうして、夜花の穏やかじゃない日常が始まってしまった。


 音夜本人、あるいは刺客から命を狙われながらも、彼女の影に住まう黒猫──影猫に守られて、どうにか彼女は女子高生にはなれた。

 ただ、普通の青春は送れず、母親とも離れて暮らすことになり、不誠実な父親への憎しみが募ることもあるが、


「ぷにぃ!」

「……あなただけは、私から離れないでね」


 影猫の存在だけが、夜花の苦しみを癒してくれるのだった。

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