感謝と罪悪感と
真っ暗な世界、遠くからは雨音が聴こえる。
黒蜜夜花はゆっくりと瞼を開け、不鮮明な視界の中、しばしぼんやりする。
──自分は誰か?
──ここはどこか?
何もなければ苦もなく一瞬で分かること。
しかし夜花の脳が昨日の出来事を思い起こしていく内に、そうではないことを彼女に知らせる。
黒蜜夜花、二十代半ばのフリーター。
彼女は昨日、自分の家には帰らなかった。
帰れなかった。
視界はすっかり鮮明に。夜花は身体を起こし、カーテンの閉められた窓に視線を向ける。
激しくもないが弱くもない、そんな雨音が聴こえてくるその窓から、晴天に比べれば弱々しい光が溢れている。
──雨はいつから降っていたのか。
──家を出た時には、もう。
──強くないことが逆に、鬱陶しかった。
溜め息を一つ溢し、ベッドから出ようとして、手に何か当たる。
柔らかい。
掴んで、持ち上げる。
「……っ」
それは黒猫のぬいぐるみ。
寝そべりタイプのそれは、小さな子供だと両手で抱えるのが大変そうな大きさで、首に青いリボンが巻かれている。
「……」
なんとはなしに手足を揉み、そのまま抱き締めた。
思い出す、思い出す。
──雨が降る中、家を出た。
──どうしても許せなかった。
──これでもう、何度目か。
思い出し、思い出す。
──焼き増しの台詞に殺意を覚える。
──もう疲れた。
──行かないでと掴んでくる手。
──けれど力は込められていない。
思い出せど、決意は変わらず。
──もう、終わりだ。
──でも、どうしよう。
「姉さん」
自分とよく似ていながら、少し低い声。
そんな声と共に扉は開かれ、青年が入ってくる。
「……
夜花は彼の名を呼ぶ。
黒蜜音夜。
彼女の二歳年下の弟だ。
「何で起きてるの、まだ四時間しか経ってないよ」
「……寝てていいの?」
「いいよ、お客さんなんだから」
声にはほんのり、苛立ちが含まれている。
「……ごめんなさい」
日付が変わった一時間後、夜花は弟が一人暮らすマンションに押し掛けた。
同……居人と喧嘩して、飛び出してきたのだ。
許せなかった。
彼は何度も、夜花との約束を破った。
もう、許したくなかった。
「姉さんは悪く……ううん、少し悪いかも。あんな男やめなよって、僕何度も言ったじゃん」
呆れたように言いながら、夜花の隣に腰掛ける音夜。
「だって……だって、だって!」
「ごめんごめん、今のは僕が悪かった。忘れて」
「……」
忘れたい。
夜花は彼とのことを、全て忘れたい。
でも、まだだめだ。
彼の家は夜花の家。
あの家には荷物が残されている。
夜花は、抱えたままの黒猫のぬいぐるみを、更に強く抱き締める。
「……この子の兄弟、どうしよう」
「……え? 実家から持ち出してたの?」
夜花と音夜は昔、祖母からそれぞれ黒猫のぬいぐるみをもらった。散歩の途中で立ち寄った店で、一目惚れしたらしい。
何から何までそっくりなぬいぐるみ、区別をつけるため、音夜の黒猫には青いリボン、夜花の黒猫には赤いリボンが巻かれている。
大好きな祖母からもらったものだからと、成人した今なお、二人とも大切にしていた。
実家から出ても、それぞれの住処に連れていくほどに。
「……仕方ない。僕がなんとかしておく」
「でも」
「いいからいいから」
有無を言わさず横たわらせ、タオルケットを上に掛ける。
「姉さんが寝てる間に、話をつけてくる。その時に、あの子も連れてくるよ」
「……音夜」
「全部悪い夢だったんだよ、姉さん。次に目が覚めた時には、忘れていいんだから」
後のことは任せたよと、黒猫の頭を撫で、音夜は部屋から出ていった。
天井を見上げながら、しばらくは何も考えず、黒猫をひたすら抱き締めた。
その柔らかさに、温もりに、だんだん瞼が落ちてきた時、何となく思い出す。
夜花が泣くたび、落ち込むたびに、音夜はこうして、自分の黒猫を抱かせてくれた。
何も変わらない、優しい弟。
いつまで甘えるんだろう。
いつまで甘えていいんだろう。
夜花はもう、何も考えたくない。
程なく、彼女は眠りについた。
次に目が覚めた時、タオルケットは床の上、腕の中には二匹の黒猫。
弟への感謝と、罪悪感で、少し吐きそうになり、誤魔化すように、夜花は黒猫達を強く抱き締めた。
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