第17話

 さて最終日。ここは一つ鬼門だ。いつまでもすれ違っていてはいけないので、そろそろ対面で会わなければなるまいというタイミング。

「今日は自由行動だから、結構時間あるよね」

 とは朝飯中の香織の弁。梅干しを隣近所からかき集めてほおばる様は無能極まりないが、言っていることは蓋しその通りだ。

 今日は京都市内自由観光の行程。意識の高い人は京都大に行ったりもするのだが、入学前に大学に行くことにどれほどの意味があろうか? かといって、河原町をぶらぶらというのも錦市場なら5秒で毟り取られて終わり、それ以外なら渋谷原宿に行った方がマシ。さもなければ寺社仏閣巡りということであるが、それは初日に済ませた。

「意外にやることありませんわね。足を延ばして姫路城でも行きますか?」

 歴女風ユーモア欠落症のウィキペディアンこと美麗が提案するが、流石ミス机上のくーろんず。京都から姫路は新快速でも果てしない遠さだ。東京観光で言えば掛川城に足を伸ばすようなもの。伸ばしすぎ。無能である。

「意外と京都ってやることないのよねえ。嵐山で川下りというのも一日使うし……」

 川を下っても仕方がない。どうやって川を下りながら告白させるのか。ファイト一発的吊り橋効果というのもありっちゃありだが……。

「ねえねえ、ホントに今日告白させるの?」

 香織が尋ねる。更には山のように梅干しの種が積んである。当分鰻は食べられなさそうだ。

「もちろんそうよ。なんで?」

「いや、一昨日学校で告白させる話にしていたじゃない? あの噂を使わずに、京都で告白させるのなんか勿体ないなって思って?」

 笑止! 浅はか! 高笑い!

「いい? すれ違い作戦の最高潮が今日なのよ。ようやくすれ違いが終わって会えると思ったら、ギリギリのところで気持ちだけがすれ違う。そういうクライマックスのあとに、伝説の樹の下で告白させるのよ」

「いや、別に伝説の樹とは言ってないけど……」

「つまり、今日のテーマは『気持ちのすれ違い』よっ。アンタたちも付き合って貰うからねっ」

 ええー、というブーイングが聞こえるが、ここが肝なのだ。友達想いのところを見せて欲しい。所詮モブ共なのだから。

「よし、決めた。最後の場所は……花背峠よっ」

 京都で一番の峠、それが花背峠。

 なのだが――。

「「……どこ?」」

 がっくり。とにかく説明する。

 後から思い返すに、この頃は少し――いや、かなりハイになっていた。それは自分の不安を隠すためだったのだろう。


   ☆


「本当にここにマコトがいるんだな?」

 花背峠のふもと、自転車に乗った五反田がいる。

「ホントよホント。だいたいアンタもライン受け取ったんでしょ? 信じなさいよ」

 香織が電動アシスト機能の付いた自転車に跨りながらそう言う。

「いや、そんなこと言われても……」

 五反田の視界からは山しか見えない。そして京都の下界から自転車でここまで来ただけで、もう体力の八割くらいは失われているようだ。

「ほら、ついていってあげるから、ここで決めなさいよ。男なら」

「いや、でも……」

 五反田の眼前に聳えるのは、わけいってもわけいっても深い山。自転車だと30分ほどこぎ続ければ頂上につけるだろうか。

「いい自転車乗ってんじゃんそれ。カーボンのいいやつでしょ?」

「京都の友達が貸してくれて……って、香織のそれ電動アシストじゃないかよ。それ貸してくれよっ」

「だめよ。私はこれで上るんだから。さ、ごちゃごちゃ言ってないで行くわよっ」

「で、でも……」

「デモもアジもないでしょ! 足着いたら会わないってマコトも言ってたわよっ。ほら、ファイトよファイトッ」

「いや、これ絶対ヤバいだろ。上見えないよ……」

「ええい、男らしくないっ」

 香織が強引に五反田の背中を押し、仕方がないと諦めた表情で五反田がベダルを踏み出す。


 頂上で腕を組んで五反田を待つ。なんなら「ナオトLOVE」の鉢巻きも巻いている。香織からの連絡では、10分前に百井別れを通過したとのこと。順調にいけば、今頃岩場で水を汲んでいることだろう。作戦通りに行けば、仲睦まじく二人でえっちらおっちら来ているはずだ。今視界の隅に入った、二頭の鹿のように。

 花背峠は、京都最大の峠。ここを通って京都から小浜に人々は足を向けた。所謂「京都」の北の端といってもいいだろう。

 その花背峠の頂上まで、私は原付で進んできた。ここまでオール山道。原付で気合を入れて30分弱かかった。素人の自転車では足をつかずに来ることすら難しいだろう。

 改めて考える。ここで告白を断ってよいものかどうか。これは一種の賭けである。ここまで引っ張って引っ張って、そしてようやく苦労して告白にこぎつけたところを無下にするのは、果たしてヒロインのやることだろうか……。

「やっぱりよろしくないんじゃありませんこと?」

 同じく原付で来た美麗が……の前にそもそも、

「それ、サイクロン号じゃん。しかも50ccの。どこで貰ったのよそんなの」

 カラーリングが技の一号。こんなもんは立花さんからしか貰えないはずだが、

「普通におやっさんに」

「いや、おやっさんって誰よっ。しかも、マフラー赤いし、ジャンパー黒いし」

「? 何かおかしくて?」

 もういい、お前どっちかというとマリナさんポジションだからな。

「でもパンタロンは白色じゃありませんよ?」

「分かってんじゃねーかっ」

 いかん、勝負の前に不必要な体力を使ってしまった。神聖な告白前としては、この女は情報量が多すぎるから引っ込んでいてもらおうかしら。

「でも実際のところ、このチャンスを逃すとかなり厳しい戦いになりますわよ?」

 確かにそうだ。ここを女子高生大崎マコトの終着駅とするのも悪くはないし、これ以上のチャンスはもう訪れないかもしれない。別に伝説の樹の下でなくても告白くらいは成功するだろう。

「アンタ、ふざけた格好してる癖にもっともらしいこと言うじゃないのよ」

「ぶっとばしますわよ」

 よし、ここで告白を断らせる案はキャンセルとしよう。心の準備をして、告白を受け入れよう。

 そう思うと、この場所は中々静謐な気配だ。肌寒いが、薄っすら霧に囲まれていて所々に雪が残っている。周囲には動物の気配もするし、心なしかナウシカな気分だ。どっちかと言うとサンかもしれない。ひょこひょこと鹿が首を出している。この時期はハンターが餌をそこかしこに撒いていたりするので、表に出てくることもあるのだろう。

 胸に手を当てる。息が白い。

 男に告白されるのは当然初めてだ。田端とか五反田はノーカウント。彼らはなんというか……遊びだったかもしれない。ファーストキッスにお父さんをカウントしないのと同じ、女の子は都合の良い生き物なのだ。それくらいのワガママは許して欲しい。

 そう思うと、想像以上に胸が高ぶってくる。もしかすると、心の準備が出来ていなかったのかもしれない。随分軽く考えていたのかもしれない。

 人一人の思いを受け止めるのが、突然怖くなった。あんなにじらしてじらして、という戦法も、今思えばあまりに直接的な好意を一身に受けるのが怖かったのかもしれない――いや、そうだ。クリスマスや正月、バレンタインにしても、二人きりでの特殊な状況下や、あるいは思いを直接的に伝えるのを嫌がった結果の戦法だった。

 結果ここまで心の準備も、覚悟もすることなく、来てしまったのだ。

 うつむく。顔色は、恐らく悪いだろう。気温のせいだけではないことは、美麗にも見て取れたらしい。

 私の握った拳を、両手でほぐして繋いでくれた。

「――ありがとう。ちゃんとするよ。今回は」

「――そうするのがいいですわ」

 うんうんと二人して頷く。

「元五反田親衛隊会長の妹としても応援してますわよ」

 そうして、ウインク。いきなり冗談を言われると、緊張と緩和そのままに、少し涙がでて、少し笑顔もこぼした。

 ありがとう、少し勇気も出た。覚悟もできた。

 あとはナオトが来るのを待つだけだ。今度会ったら、絶対こう言ってやるんだから。


 好きです――夢で何度も言えた言葉なのに、あなたの瞳を見ると唇が凍ります……でも、好きです。


「ちなみに――」

 手を握ったまま、美麗が聞いてくる。

「ここでもすれ違いを計画していたと思うんですけれども、その場合はどのようにすれ違うおつもりだったのですか?」

 今聞く? それ。恩義があるから答えるけど。

「……原付で下り思いっきりぶっ飛ばして、ぜえぜえはあはあ言ってる横をブチ抜くつもりだった」

 握られていた手が、一瞬冷やっとした。

「……聞かなかったことにしておきますわ」

「……うん。聞かなかったことにしておいて」


   ☆


 そのあとすぐ、汗水を垂らしながらナオトが坂を登って来た。その後ろからメガホンを片手に、原付で香織ものし上がってくる。ハルヒかお前は。

「ほら! ラスト1ハロンよっ。ゴールはもう目の前ッ」

 ナオトの全身に力が入る。フラフラと左右によれていた車輪は、もう真っすぐに頂上、その先の私を向いている。

「……がんばって」

 胸の前で自然と両手を握る。ここに真っすぐ飛び込んできて欲しい。苦痛に歪んだ顔が凛々しくてたまらない。

 あと30メートルくらい。霧の向こうに君が見える。

 あと20メートルくらい。その目線は強い意志を持ち私を見据える。

 あと10メートル。「頑張って!」と私は叫ぶ。

 そして――、

「ハアッ、ゼーッ、ゼーッ、ハアッ――うっつ」

 五反田が頂上にたどり着く。自転車を壁に寄せ、その場にへたり込む。

 私のためにここまで頑張って来てくれたのだと思うと、素直に感涙。でも流石にいきなり抱き着くのは、香織も美麗もいて憚られる。一旦五反田の呼吸が落ち着くまで待とうと思った。

 しかし、

 ――待てど暮らせど。

 全然ナオトの呼吸が戻らない。体感だと何分ほど待っただろうか。実時間的にはそんなに経過していないはず。それほど私は愛を伝え伝えられ伝え合う機会に飢えているのか。

 そうこうしているうちに、なんと田端が自転車で上がって来た。

「いやー、香織に撒かれちゃって大変だったよ。なんか途中しかも沢山いたし。奈良の鹿連れてきちゃったかも……なんつって」

 つって、じゃないわよ。久しぶりに見たけど、今お前の話聞いてないから。私が聞きたいのはこの男からの、そして私の口から紡ぎ出る愛の告白。欲しいのは、それが出来るタイミングというか雰囲気。お前は呼んでないっ。

 香織の方に不安げに目をやると、目を合わせて香織がサムズアップ。

「田端、お疲れっ。でね、ちょっとこっちに……」

 と言って、自転車に乗せたまま山の反対側に誘導する。所謂裏花背だ。同じような坂道が続いているので、おそらく一度下ったら帰ってはこれまい。合掌。でもあなたが今は邪魔なの。ごめんね。ちなみに美麗は原付でAKIRAのブレーキ練習をしている。死ぬほどうるさい。オリンピック開会式狙いか? 結局足でブレーキしてるじゃねえか。それだと逮捕しちゃうぞだろ。

 ――そんなことに構ってはいられない。邪魔者が全て消えた今、いよいよ真剣にナオトに向き合うべきだろう。

 今、山肌に寄りかかる私の左側に、座り込んで目を瞑っているナオトがいる。目線を合わせるために、私も座り込んでみる。かすかに視界に入るAKIRAや鹿は無視する。

 端正な顔立ち。この顔が、私を想って右往左往したあげく山を越えてきたのかと思うと、なかなか嬉しくもあり、プレッシャーもある。

 ナオトの目が開く。視線に気付かれたのか。その拍子にこちらから目を逸らしてしまう。見つめ合うと素直におしゃべりできない。目線の先にはナオトではなく、その先の鹿。

 しかしナオトは構わずに喋る。

「……ここ何日か、君にずっと会いたかった」

「……」

 返す言葉がない。会おうとしなかったのは私の方だ。もっとも、ナオトはたまたま会えなかったと思っているかもしれないので、そのことは墓場まで持っていこう。

「君に伝えたいことがあるんだ」

 きた。はっきりとした宣言の前振り。

「……私も」

 そう答えるしかなかった。愛が胸を叩いている。身体中にあふれる衝動。こちらからやっぱり言うべきだろうか。

 ――やっぱり言えない。唇が凍る。

 勇気を振り絞って、ナオトの目を見る。照れると無口になってしまう。1メートル以内に近寄っている、そのことだけで私の頑張りは限界だ。

 視線が絡み合う。お互いの視線の先には、

「……鹿」

「うん。鹿。……鹿?」

 鹿?

 首を振って見渡すと、周りにぐるりと鹿。

 きゃっと言ってナオトの胸に飛び込む。ナオトの汗ばむ匂いがまるで――、

「……鹿ね」

「え、そう?」

 自分の肌着を嗅ぐナオト。その姿さえも凛々しいのは、恋が盲目の証左か。

「……確かに。鹿だ」

 やっぱり、鹿よね。

 ぐるりと鹿に取り囲まれている構図は変わらない。心なしか、その陣が少しずつ狭まっているような気がする。

「奈良公園で鹿に揉まれたわね、あなた」

「え?」

 え、ではなくばっちり鹿の臭い。

「この鹿はそれに惹かれてるんじゃないの?」

「えっ、じゃあどうすればいいんだよ」

「いや、どうするって言われても……」

 じり、じりと鹿が迫ってくる。もう手を伸ばせば、その頬に触れられそうだ。なお私とナオトは既に距離ゼロ。パーソナルスペースもへったくれもない。鹿にスペースが脅かされているからだ。

 ほろり、と涙が出てきた。自分でも気が付かなかったが、ナオトが、

「……悪かったよ」

 そういって、涙を指で拭ってくれた。そしてそのあと両手でぎゅっと抱きしめられた。

「……ううん、こっちこそ」

 抱きしめ返す。鹿に囲まれながら。もはや愛を確かめ合ったと同然だ。あとは言葉を交わすだけだ。

 しかし鹿が鼻先でつついてくる。群れは十頭前後だろうか。私の腹を、背中を、まさぐってくる。どうやら私は雌につつかれているのだが、ナオトは雄につつかれている。奈良公園のそれとは違い、ばっちり角がある。自転車用のヘルメットを被ってきたのはムダではなかったようだ。背中に攻撃を受けており、その余波でヘルメットにガツガツ角が当たっている。生命の危機だ。

「ずいぶんあなたばっかり攻撃を受けているわね」

 鹿の頭を手でいなす。

「私は鼻を擦りつけられているだけだけれども」

 角でカバンが破られようとしている。鞄を食む鹿も出てきた。

「心当たりは山のようにあるけれど……目下鞄が良くなさそうだね」

「何が入っているの?」

「いや……大したものは入ってないけれど……痛っ」

 角が脇腹に刺さっている。そのポケットから、何かのカスがほろほろと零れ落ち、そこに鹿が群がる。

「……それ、何?」

「バギーちゃんのかけら」

「ほんなら鹿はガッちゃんの親戚か」

 あるいはドラム王国の人か。鹿だし。

「あ……原因が分かったっ。鹿せんべいだ。奈良で買ったやつ、余ったんだよ。持って帰ってきちゃった」

「バカ、絶対それじゃないッ」

 長いこと人間やってるけど、鹿せんべい持って帰るやつを初めて見た。よりによってそんな男に恋してしまったなんて、涙がちょちょ切れる。

 いよいよどうにもならないくらい鹿が迫って来た。早く対策を練らないとと周りを見渡していると、

「あ、ちょっと何やってんのよっ」

 鞄から鹿せんべいを取り出す五反田。

「いや、危ないから出しちゃった方がいいかなと思って」

「バカ、そんなわけないで――」

 言い終わらないうちに、鞄のファスナーに僅かな隙間が出来る。そこめがけて、鹿という鹿が首を突っ込んでくる。当然、中心のナオトはもみくちゃにされて、私も余波を受けざるを得ない。大き目の鹿になぎ倒され、幸いにも転んだ先の鹿がクッションになったが、その私の上を鹿が渡ろうとしている。鹿で黒い影が出来る。視界はもはや鹿が七分で空が三分。これはもうシャレにならない。

「イヤーッ、ちょっと、冗談でしょっ。こんなの、こんなのってないわよ――ッ。誰かーッ」

 心からの叫び。観念するしかないのか。女子高生人生、こんな鹿にまみれて涙を飲まなくてはならないのか――。

 そのとき、さっきのAKIRAもどき――美麗の声が響いた。

「――今日の相手は鹿男ですかね。動物愛する私としては苦しいのですが――」

 語った後、ブオン、と音だけがけたたましい。一瞬鹿の動きがとまった。

「マコト、今行きますわよッ」

 ノリダーを載せたバイクが唸りを上げた。今度は音だけでなく、視界の隅で美麗のバイクが突っ込んでくる。鹿たちが慌てふためいて散り散りになる。

 美麗ッ、と叫ぶ間もなく片手でピックアップされ、気づいたらバイクの後ろに乗らされていた。

 そのまま一目散に駆ける。花背の急勾配を駆ける様は、さながらヤックル。

「ちょ、ちょっと、五反田はどうするのよっ」

「あの甲斐性無しに構っているヒマはありませんこと! 彼なら自分でなんとかしますわ」

「いや、なるわけないでしょ! あんなに鹿に揉まれていたのにっ」

「大丈夫。とにかく大丈夫ですので、背中をボカボカ殴るのをやめてくださいませんこと? それで――」

 サイドミラー越しに美麗が視線を走らせる。その鏡の向こうには、追いすがる鹿。

「背中からおせんべいを出してはいただけませんか。こんなこともあろうかと、買っておいたのですわよ」

 どんなことだよ、宇宙にでも行くつもりだったのか、というツッコミを堪えて、数枚の鹿せんべいを取り出す。

「それを投げて追い払うのですわっ」

「簡単に言うけどッ」

 フリスビーの要領で鹿せんべいを投じる。バイクの上でバランスを保ちながら投げるというのは中々困難で、いくつかが谷底に散っていく。それでも、手首のスナップを利かせて投じた何枚かは、見事鹿に当たった。

「やったッ」

 ミラーに視線をやり、勝ち誇る。が、

「おバカな娘! 気を散らすのが目的なのですから、当てる必要はなくってよ! 鹿せんべいで鹿を攻撃する人がいらっしゃって?」

 チクショウ、正論だ。頬を染める。

 その後は、投げること無く、静かに鹿せんべいを置いた。一枚置く度に鹿の姿が少なくなり、鞄の中の鹿せんべいがなくなった頃には追っての姿はもう見えなくなった。

 後は霧の中を駆けるだけ。顔が霧に濡れ、涙の跡を隠す。


   ☆


 結局、集合場所にも新幹線の乗り場にもナオトは現れなかった。新幹線の乗り場でダダをこねたが、「あとからくるから、ね!」という担任の言葉と、香織と美麗の羽交い絞めにより強引に新幹線に乗せられた。

「……大丈夫って言ったじゃない」

 加速していく米原駅を見ながら、ボックスの向かいに座った美麗を非難する。

「大丈夫ですわよ、これホントにホント」

 八つ橋をほおばりながら言われても説得力がない。ほれ、あなたもと言われても、とてものどを通らない。じゃあ私が、とばかりに横から香織がつまんで頬張る。

 窓を雨のつぶてが打ち、流れていく。

「やっぱり、作戦が良くなかったんじゃないの?」

 柔らかい八つ橋に飽きたのか、堅いほうに手を伸ばす香織。

「ほらなんだっけ、すれ違い戦略とやらがさァ」

 ううん、と唸るしかない。

 バチが当たったのかもしれない。ゲームの上での相手だと思って、策を弄したのは、やりすぎだったのかもしれない。

 いや、これでも大分手を緩めた。カジノでせしめた金を使って、壮大なドッキリを仕掛けてやることもできた。私のステータス上、今はTASプレイ並みに小金を揃えている。それを使えば、どんな作戦でも展開できたかもしれない。流石にいきなり平安神宮に呼び出して挙式、というのは難しいかもしれないが、それに近いドッキリはできた。いきなり挙式、というのも、シチュエーションとしてもそこまで悪くはないはずだ。少なくとも、エンディングの分岐シナリオの一つにあってもよい。

 ではなぜそれをしなかったのか。それは――、

「本気になっちゃったもんね。作戦なんか意味ないって思ったんじゃない」

「……うん」

 心の本音を突きつけられた。

 そう、知らず知らずのうちに惹かれていった。最初は単純なシミュレーションゲームのように楽しんでいった。しかしいつしかキャラクターに愛おしさすら感じていた。それはナオトであり、横でツンとして見せても、実は気を使ってくれている香織であり、「あたし、このパイ嫌いなのよね」とうそぶいて見せるお嬢様風不思議ちゃんであったり。ちなみにそれはにしんではなくニッキだ。そもそも八つ橋はパイじゃない。

「でも、ほとんど告白みたいなもんだったじゃありませんこと? 私からは二人はかなり密着して見えましたことよ?」

 言葉を返す代わりに、生八つ橋を受け取る。

 そうなのだ。惜しいところまでいった。いや、惜しいなんてもんじゃない。頬と頬が触れ合うところまでいった。もしこちらの勇気があれば、あった瞬間に抱き着いて告白できていたはずだ。ああ、あの時まで戻ることができたらと思う。時間さえ戻れば……。

 ――戻せる。

 そう気づいた瞬間、下着に手を突っ込もうとしたが、すんでの所で思いとどまった。流石に公序良俗に反するだろう。理性が私の右手を押し戻した。

 しかし、私は帰れる。どの瞬間かは分からないが、少なくとも鹿に襲われる前までは戻れるだろう。ふもとだろうか。二日目の温泉だろうか。それとも初日の新幹線? どこでもいい。とにかく、戻れるんだ。

「やっぱり本家の方がおいしいわね」

「いや、総本山も負けていないませんわよ。それどころか、もしかしたら堂々と最後発のおたべの方がおいしいかもしれませんわね」

「本舗も悪くはないわ」

 八つ橋談義に花を咲かす二人に、「ちょっと、トイレ」と言って足をどけてもらう。窓際の席からは動きにくい。

「……どこに行こうというのかね?」

 どきっとした。もしかして、全てバレているのか? いやいや、そんなわけがない。私の体には数字も何も書いていないことはさんざん確認したし、絵画を修復することを生業とするおばさんも存在しない。ここにはラベンダーの香りではなく、ニッキの香りしかしない。

「……だからお花を摘みに」

 平静を装って答える。

「ならいいんですわよ。てっきりどこかに消えてしまうのかと心配しましたわ」

 よっこらせ、と美麗が足を窓の方に寄せる。納得したのかどうかは分からない。でも表情を見ることはできない。美麗が窓の方を向いたからでもあり、また私の泳いだ目を見られたくなかったからだ。

「逃がしちゃだめよ――」

 通路に出た瞬間、香織が背中から声を掛ける。心臓が大きく跳ねたが、

「――って先生に言われてるんだけど、流石に新幹線からは出られないわよね。名古屋までには戻ってきなさいよ」

 大丈夫。バレていない。

 うん、と適当な返事をして、クラスメイトの脇を通り、自動ドアを開ける。

 トイレへとすべりこみ、座る。

 思いついたときには最良の案だと思い、右手を下着にねじ込もうとした気持ちは、今は少し萎んでいた。だからまだ、下着は脱いでいない。

 もしも私が右手をそこに挿し込んだら、一瞬の静止もなく、新幹線のトイレのように超高速で私をどこかへ連れ去ってくれるだろう。

 でもそうはしなかった。もう少し考える必要があるのかと思ったのかもしれない。だから、まだ下着は脱いでいない。座っただけだ。

 思う。本当に戻っていいものだろうか。

 理屈で考えれば、絶対に戻るべきだ。そうしなければ、私は救えない。唯一無二のチャンスを葬り去ったかもしれない。いや、実際そうだ。私のために三日三晩駆けずり回って得た、五反田にとっての最後のチャンスだ。それを反故にしたのは、私だ。

 トンネルの気圧が耳に痛い。唾を呑み込む。

 戻らないという選択肢はあるのだろうか。あるとすれば、過去に戻る際のシェイクの衝撃がある。そもそもそれに耐えられるのか。もはや限界に近いというのは代官山邸のカジノで分かったことだ。

 しかし、それは副次的な要因に過ぎない。

 胸に手を当てる。本当は何を迷っているのか。

 立ち上がる。一度外の景色を見ようと思った。あんまり新幹線のトイレの個室を占領するのも気が引ける。

 幸いにも、外で待っている客はいなかった。車両連結部から、高速で流れる景色を見ようとすると、トイレの横の喫煙所からノック。目をやると、久しぶりの保険医がいた。保険医のくせにタバコなんて、不良美女だと思う。

 再びノック。未成年が喫煙所に入っていいものかよ。でも仕方がないので、再び周りを見渡して、素早く入る。

「やあやあ、ご無沙汰だわね」

 保険医がそう告げる。そう、確かにご無沙汰。本当に最初に一度出会っただけだ。攻略対象でもなんでもなく、また普通に生活していたなら、保険医にはそうそう会いそうもない。

「ラインも交換したのに。結局連絡くれなかったじゃないか」

「ええと、おかげさまで……そんなに日常生活に不自由しなかったんで」

「まあ、元気なのはなによりだよ。便りがないのは良い知らせ、とも言うしね」

 そう言って、タバコの火を点ける。メンソール系の匂いだ。

「ほら、お前も……というわけにはさすがにいかないよな」

 保険医が大きく息を吐く。狭い喫煙室に、煙が充満する。もちろん排煙機能は十分だが、それでも一定の間は室内に煙が留まり、そしてそれは鼻腔をくすぐる。

 ――ラベンダーの匂いだ。

 間違いない。ラベンダーの匂い。そしてもう一つ間違いないのは、おそらく何かしらのフラグを立てて、ここに導かれているということ。偶然ではなく、必然だ。理由もなくこんな事態にはならない。

 どういう行動がフラグになったのか、私には分からない。でも、このチャンスを活かさない理由も分からない。

「――少し悩みがあって……」

 どうしてここに呼んだのか、という野暮なことを聞いても仕方がない。ただ今は、自分の行動の結果であるこの瞬間に、全てをぶつけるのみだ。

 それすなわち、このぽっと現れたような保険医に意味を見出し、今の悩みを吐き出すことだ。もちろん、詳細は省いてであるが。


「なるほどねえ……なるほど」

 タバコが随分短くなるほどの時間をかけて、排気の音とタバコ匂いが充満する室内で、これまでの経緯をかいつまみながら、しかし判断材料となる情報が不足しないように説明し、その上で戻るべきか、戻らざるべきかという質問をした。

 保険医は、ふうっと息を吐いた。

 緊張が狭い喫煙室に走る。身構える。

「なるほどねえ――で、それで、全部か?」

 ドキっとする。隠していることはあった。時間を駆けていること、そもそも自分が大崎マコトではないこと、そんなことはとうてい言えない。

「全部か……っていうのは、どういう意味ですか?」

「自分の胸に聞いてみな」

 ふう、と大きく吸い、もみ消した。

 いけない、このチャンス、逃したかのかも――と思ったが、保険医は指を一本立て、箱からもう一本引き抜いて火を点けた。

 その一本の意味するところは、これが最後のチャンスだということ。そのくらいは、人の心の機微に疎い私にも分かった。

 ナオトは勇気を出して私に何度も告白しようとした。今度は私がそれに答える番だというのは、自分の中でさんざん問答した。

 今が、本当のその時だ。目を伏せながら、息を大きく吸い、

「先生、あの、私、実は――」

 言う、言え、言うんだ――。

「――時間を遡れるんです。何度も、そうやっていました。だから、今回も時を駆けてもう一度告白するチャンスを貰おうって、そう決めているんです」

 一息に言ってしまった。

 ちらり、と顔を上げて保険医を見る。どうだろうか、また頭をぶつけたと思われたのだろうか。それとも、もっと重要なことを言わなくてはならないのだろうか――。

 にやり、とタバコを咥えた口元が笑った気がした。タバコを持っていないほうの左手で、肩をポンと叩かれる。

「そうかー、時間を戻れるのかー。なるほどなるほど。それでもう一度告白のチャンスが欲しいと」

 トン、とタバコの灰が落ちる。

「でもそうすると、五反田がかわいそうじゃないか?」

 そんなことはないだろう。ナオトは告白の機会を得る、私はそれに答える。それ以上のハッピーエンドはないはず。

「どうしてですか? 彼の気持ちを考えて、私もリスクを負って戻ろうとしているんですよ。それのどこがいけないんですかッ?」

 最後は食ってっかかるようになってしまった。でも、ウソ偽りない私の気持ちだ。彼に報いたい、その一心だ。

「でもねえ――なかったことにするんだ。五反田、かわいそうだな。せっかく思いを伝えたのに。あ、でも本人は気づいてすらいないから別のいいのか?」

「――! そ、それは……」

 戻ることが、何かを無に帰してしまうということ。はっきり言って、全く考えていなかった。そもそも、ゲームのリセットボタンのように使っていたこの時間を戻るという能力が、何か悪い影響を与えるという発想が全くなかった。

 だって、ゲームだから。ゲームだと思っていたから。

 でも、今までを振り返ってみると、本当にゲームだったのだろうか。

 目覚めた保健室、手をつないだ帰り道、初めてのデート、クリスマス、正月……どれもこれもが、色鮮やかに記憶に残っている。今は――それをゲームだったなんて切り捨てることはできない。どの場面も、どの友達も、現実にいる。手触り感を持って、自分の意志で動いていた。私が支配できるようなもんじゃなかった。

 それをなかったことにするなんて――ありえないのか?

 手を握りしめる。今日は何度そうしただろうか、しかし胸が痛い。締め付ける。私は彼らにもっと誠実にならなくてはならなかった。

 私が察したことが分かったのだろう。役目は終わったとばかりに、

 「……なーんちゃってっ。まあそんな深刻になるなよ。君くらいの年の女の子にはよくあることなんだからさ」

 と冗談めかして付け加える保険医。

 口元から視線を上げると、全部お見通しよ、という顔をしている。一体、どこまでを分かられたのだろう。

 二本目のタバコももう大分短くなってきた。車内アナウンスが、電車が岐阜羽島に停車したことを知らせた。

「……ありがとうございました。自分のことは――あとは自分で決めます。自分の意志で、友達に報います」

 ん、という返事が背中で聞こえた。最後の一服の邪魔はしない。

 

 心に決めた。私は、友達を信じる。今までくだらない策を弄してきたけれど、そんなものはもう全部いらない。もし戻れるなら全てなかったことにしたいが、オートセーブがそれを許さないだろうし、友達の一つ一つの行動の結果をなかったことにすることなんて、私にはもうできない。


 私は、この世界を信じる。


   ☆


 席に戻ると。香織は目を瞑っていた。起こすのも申し訳ないので、体が当たらないように窓際の席に戻る。

 なので、

「よかった。もう戻ってこないと思いましたわ」

 と美麗から声を掛けられたときには、驚きと質問の意図に返事を窮した。

「……名古屋で降りるわけないでしょ」

 答えた先の顔は、含むような笑顔。先生と同じく、全てを見透かすかのような。

「私はそれで良い選択だと思いますわよ」

 そういって、香織と同じように目を瞑った。


 あとは、修学旅行の典型的な帰りの車内。山のような八つ橋の包装紙と共に、岐路を過ごす。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る