第7話
かんこーん、と六限の英語の終了を知らせる鐘が鳴る。
級長が号令をかけ、一日が終わる。
「ほんじゃあ、帰るとしましょうかね」
鞄に教科書を詰め込み、香織に向かってそう言うと、
「何を言ってんの。アンタ部活あるでしょ」
そうだった。設定によると野球部のマネージャーらしい。マネージャーなんて何が楽しくてやってるんだと思うが、実際働きぶりを体験しておくのも悪くはない。それに、いきなり辞めたら不自然極まりない。
「ちなみに香織は、」
「私は陸上部。もう、まだボケてるの? しっかりしてよッ」
背中をパシんと叩かれる。
女子同士のスキンシップはやっぱり最高だ、とか思いにやにやしていると、
「マコト――やっぱりもう一回、保健室行く?」
そう何度もセクシーな女医がいる保健室のお世話になる訳にはいかないので、「ううん、大丈夫だから」と言って荷物を纏める。
香織も「そう? ならいいけど……」と渋々の表情も、「じゃあなんかあったらいつでも言ってね! 五反田に言ってもいいけどッ」と言い残してグラウンドに去って行った。
しまった、野球場の場所を聞いておくべきだった、と思うもアフター・ザ・フェスティバル。仕方がないので周りを少しきょろきょろすると、野球部っぽい鞄――例のテカテカしたアレ――を持った少年を教室で発見。
声を掛けようと思ったが――辞めた。何が悲しくてイガグリ頭との会話で女子高生の青春の一ページを浪費しなくてはならないだろうか。そんなことをする必要があろうか、いや、ない!
そう思った瞬間、意図せずして涙が溢れる。世界の秘密に気付いたためだ。
そう、私が高校時代に女子とほとんど会話を重ねることが出来なかった理由はここにあったのだ、と気付いてしまったのだ。野球の話しかできない童貞のイガグリ頭と喋って時間の浪費をするよりも、軽薄そうでインディーズでCD出せそうと言い張るバンドマンと喋っていた方が清潔感もあるしよほど楽しいのだ。イガグリとの比較では、圧倒的に彼らの方が話術に長ける上に、話題も豊富。しかも蝶よ花よと扱ってくれる。これではイガグリの勝ち目は絶対に、ない。永遠に、だ。
さて、涙をふきふき甲子園を目指す野球場にからがらたどり着いた。もちろんイガグリとは会話をせずに、奴をつけて、だ。
「こ、こんにちわー」
まずは部室に挨拶をせんと扉を開けると――
一言で言うと、地獄絵図が広がっていた。
あたり一面の肌色! 男の上裸を見るのも目の毒なのに、下のマツタケやらエリンギやらも見てしまった。シメジっぽいのもあった。
生理的にムリ、という表現をここまでまざまざと実感できるとは思わなかった。いや、実感したかったワケではないが。
「――し、失礼しましたッ」
ばったーん、と扉を閉める。中から男どもの下卑た笑い声。そりゃあ面白かろう。ピチピチの女子高生、それもどちらかと言うと、いや、結構かわいい部類の女の子が顔を真っ赤にして恥じらう姿。私が高校生の時分なら、末代まで語りつくほどのオカズにする。
――チ、チクショウ。
草むらで仕方がないので体育座り。国鉄よろしくのスト敢行だ。
でもストライキと言っても案外ヒマなので、野球部員を観察する。掃除当番がなかったであろう野球部員共が、グラウンド整備に一生懸命だ。体育で使ったのだろうか、少しグラウンドが荒れている。六月の頭。グラウンドは少し乾燥していて、ホースをもった部員が水撒きに勤しんでいる。時折ふざけて水を替えられた部員が歓声を上げる。のんびりとした青春の一ページをなぞるようだった。
「なーにしてるんですか?」
高校時代を思い出しほっこりしていると、振り向くとこれはッ、という美少女。
「もう、朝に五反田さんが言ってましたけどホントに調子悪いんですね。元気印のマコトさんがそんなんだと、こっちまで調子狂っちゃいますよ~」
敬語を使ってくる、ということは年下。だとすると、
「ゆかりちゃん?」
自信なさげにそう言った。ソースは昨夜盗み見た大崎マコトの日記。
なんでもこのゆかりちゃんというカチューシャの似合う娘、トンでもないドジっ娘らしい。日記曰く、「あのxxx(とてもじゃないけれど、罵倒の言葉が激しすぎて思い出すことすら憚られる)、絶対やると思ってたけど、ついに砂糖と塩を間違いやがった。ご丁寧に、おにぎりに入れたのが砂糖、ドリンクに入れたのが砂糖だ。一粒で二度おいしくねーんだよこのxxx(とてもお披露目できない表現)!」とのこと。
週刊少年の塩マンガよろしくの、なかなか科学的な栄養補給をしている部活らしい、という情報とこのドジっ娘がそれはもうテンプレートなドジっ娘であるということ、更にこの「マコト」ちゃんがなかなかハラグーロであるということ、この三つの情報が凝縮されたとても示唆深い一節であった。
「もう、しっかりしてくれないと、私まで調子狂っちゃうじゃないですか~」
もともと調子狂ってるから、マイナス×マイナスで丁度よくなるのでは? という直球ど真ん中な皮肉を飲み込み、
「アハハッ。ごめんごめん」
と笑って誤魔化す。笑って誤魔化せるのがサラリーマン根性だ。
それからひとしきり、誰それのマツタケが大きくて、こいつがしめじでという話でバーバルなセクハラを展開して、ドジっ娘の「はわわわわ~」をリアルで聴く楽しみを粛々とこなしていると、汚物は消毒な部室からいがくりな野郎共がぞろぞろと出てきたので、テキトーに話を打ち切った。
ドジっ娘が「私の彼、しいたけみたいなんですけど大丈夫ですかね……」と言い残していたが、それは聞かなかったことにする。それ、性病じゃない?
☆
太陽が山の稜線に傾こうとしている。
一日このチームを見ていて思ったこと。
誰がどう見ても、五反田と田端のチームであるな、ということである。
まずエースの五反田。超高校級、とはお世辞にも言い難いが、なかなかどうしていいピッチャーだ。身長が高いのは前述の通りだが、実は腕も長かった。でもを生かさない右投げのサイドスロー。スピードは冬に差し掛からんとするこの時期で、一三〇キロ程度は出ているだろうか。コーナーにばっしばしと決まる様子をみると、大崩れは決してしないように見えたし、なによりスライダーがいい。
右打者のアウトコースにバシリと決まるのは当然のことではあるが、インコースにもしっかりと投げられる。この二球種だけでも、クジ運がよければ、東東京のベスト8くらいは狙えるのではないだろうか。
そして田端クン。まず身体能力が高い。ウォーミング・アップでの短距離ダッシュでも、まわりのイガクリが平凡――あるいは凡庸――であることを差し引いても、ズバ抜けたものがある。
そして内野ノックで見せたあの守備力。どうしてこんな高校にいるのか不思議なくらいのスーパープレイを連発する。さながらメジャーリーガーだ……と思っていたところ、どうやら帰国子女らしい。
「でもやっぱり、帰国子女には見えないですよね~」と言った直後に、ドリンクサーバーをひっくり返したゆかりちゃん。こっちの靴までびしょびしょだよ! 「はわわわわ~」じゃなくってさ。
いいよいいよ、と笑って誤魔化して水道に向かう。幸い濡れたのは靴だけだったので、ローファー片手に水道に向かう。
誰かが打つノックの「ガコッ」という音が、水道の音に負けずに聞こえる。下手な奴がノック打っているのだろう。根っこか先っぽか分からないが、そんな打ち方していると受ける方も練習にはならんだろうに。
へりに腰かけ、砂糖水でべったべたになった運動靴を洗う。この時期でも、外に干しておけばすぐに乾くだろう。それよりも、ローファーで野球場に入るのはちょっと気が引けるな。今日はもう帰ろうかな、と思って夕焼け空をふと見上げると、
「よう」と顔を出したのは例の田端クン。
「またゆかりちゃんが何かやらかしたんだって?」
あらイケメンね、と思ったのは「マコト」になってから何度目だろうか。この世界の人間はイケメンが多すぎる。
と、言ってもバリュエーションは豊かである。五反田が爽やか系のイケメン。ジャニーズ系。「姉が勝手に応募して……」とかいうタイプ。ジュノンボーイ選手権入賞待ったなしだ。
対するこっちは、もう「ザ・野球部!」って感じの、好感度が持てるタイプのイケメン。商社の就活なら採用待ったなし、なイケメンだ。プロ野球AI、というよりは甲子園の星。
ちなみに代官山は花輪クンだ。ヘイボーイ、僕の別荘に来ないか。ヘイボーイ、空を見ろ――。
「どうしたぼうっとして。まだやっぱりどこか悪いんじゃないか?」
スポーツ刈りのイケメンが覗き込むようにこちらを見ている。仲間にしてあげますか?
「ううん、なんでもない! でも、まだちょっと本調子じゃないかも」
ニコっ、と愛想笑い。実は前夜のうちに結構な練習をした。当然だ。自分の武器を認識して、それを磨くことこそ成功への近道なのだ。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。
ところがところが、目の前のイケメンは「うーん」と眉間に皺を寄せるばかり。どうした、この百万ドルの笑顔には興味ないのか。もしかして、あっちの趣味の人? 私は割と理解がある方ですよ?
「……ごめん。あの時、俺が助けてやれなかったから」そう言って、深々と頭を下げて、「本当に申し訳ない」
この世の不幸を全て背負い込んだような顔をして謝られても、困る。
「で、でも私がひっくり返ったのって、確かサッカー部のアホ共のせいじゃなかったっけ……?」
状況を思い出す、ことは出来ないので代わりに香織の言葉を思い出す。
「いやもうホント信じられなくて、あのサッカー部のアホコンビ。フツー教室でボール投げる~? しかも足じゃなくて、手でさ~。サッカー部なら足使いなさいよ足ッ」
怒りのポイントが若干ずれている気もしたが、その後も罵詈雑言のフルコースを堪能し、最後にはサッカー部の顧問の授業が分かりにくいところまで話が及んだところで、一旦停止させた。放っておくと、ドーハの悲劇まで話が及びかねない。
「結局のところ、サッカー部のボールが当たって失神したのね?」
岡野がいかに足が速かったか、を力説せんと香織が両手を掲げたところでの急ブレーキになってしまったので、
「あ、うん、そう、そうなのよ」と挙げた拳の落としどころに困った香織。
「そうなのよ、だから別に田端があんなに落ち込むことなかったのにね」
「田端クン?」
「そう、田端ヤスシ。たまたま近くにいただけなのに、あんなにあたふたしなくてもいいじゃない、ってくらいあたふたしてんのよ。男だったら堂々としてなさいよ、まったく」
「へえ」と言うより他はない。なんでも、香織曰く、田端という男は、学級委員で、成績が優秀で、帰国子女で、野球部で、香織とは長い付き合いで、昔は背も小さく泣き虫で、でもアメリカから帰ってきたら――という話をまたまたさんざん聞かされる羽目になった。
なるほど分かり易い、と思う。どう見てもこの女は田端という男にホの字なのだ。良く見ると目がハートになっていないか? と思わんばかりの愛情溢れる演説が続く。ギレン総帥やガー様の演説にも勝るとも劣らない、聴衆の心を揺るがす名演説だった。二十一世紀の、日本の平和極まりない高校の、昼休みの屋上だけれども。
「――とにかく、田端っていうのはそういうやつで、放っておけないのよ! ……別にアイツなんか好きでも何でもないんだからッ」
出た、ツン様! ――という顔でニヤニヤしていると、香織が、
「べ――別にそんなんじゃないんだからッ」と言って顔を真っ赤にして横を向いた。
嗚呼、役得也。女子高生に生まれたからにゃ、エッチなことでもせんとお天道様にバチが当たると思っていたが、これはこれで青春を満喫しており、これで顔向けが出来ようというものよ――誰にかは知らんけど。
チャイムが響くまで、香織をあの手この手でイジっていた。女子高生、最高!
☆
とにかく、そんな香織がホの字の田端クンがそこまで責任を感じる必要がないのである。
だから、
「いやいや。田端クンは全然悪くないって! そんな顔して謝られても困るって!」
執拗に謝罪を続けようとする田端クンの頭を上げさせる。過剰な謝罪は、気づかないうちに被害者を追い込むぞ。
「いやでも、それではこっちの気がすまないし――」
はー、っとため息をつきたくなる理論だ。
「いや、その理屈は間違っている。謝罪はまず何の為に行われるのか。そもそも、謝罪とは誰のためにあるものなのか。それは言うまでもなく、被害者のためのものであり、決してその所有権は加害者に帰属されない。加害者が被害者に誠意を示すため、とのたまう人間もいるがそれは大いなる勘違いと言えよう。誠意は言葉でなく金額、という有史以来の掟があるように、その金額の添え物、あるいはそれとなく誠意を伝えるための手段として、謝罪の言葉があるだけだ。それを鑑みて、キミの態度はどうだ。『こっちの気がすまない』だと? その言葉には被害者に対する労りや申し訳なさは寸分たりとも感じられない。謝って早く楽になりたい、そういう子狡さ、もとい狡猾さすら感じられる。――そんなつもりはなかっただと? いいか、言葉っていうのはそれが発せられたら、もうそれがどこに行こうがどう伝わろうが、それは話者にコントロールできるものではないのだよ。それこそ野球と同じだ。投手の指を放たれたボールは、スタンドに飛び込もうが、キャッチャーミットにおさまろうが、それはもう投手にどうこうすることは出来ないのだよ。だから君たちは日々鍛錬を積んで、出来るだけスタンドやヒットゾーンに打球が飛ばないように、それを球が指を離れるまでという短い時間に、そうならないよう工夫を凝らすのではないのか? 一体何年野球、いや、人生をやってるのか? ――え、17年? あ、そういえばそうよね。高校生よね。それならまあ――いいか。ウン。そういうこともあるわよね。やっぱり高校生は素直が一番で、世の中の不幸を背負い込んだような顔をしていても問題はないと思うよ。むしろ、その責任感にあっぱれを贈呈したい気分だよ。あっぱれ!」
――ということを考えるその間、ゼロコンマ二秒だ。蒸着だってできやしないこの短時間に、ここまで屁理屈をこねられるこの大人の思考力に恐れいなないてくれ。ヒヒーン。
そう、私は大人なのだ。だから大人の対応を見せつけなくてはならない。
「うーん、じゃあねー」
少し小悪魔っぽく田端クンを見上げる。このAGEHA感、自分が体現できようとは。
どうしよう。この申し訳ない、という感を前面に押し出している顔を見るに、どんなことでもしてくれそうな気がする。でもまさか「カーンチ! セニョリータしよ!」という訳にはいかないが、この乙女の肢体――カラダ、と読む。エッロ!――の火照りはもう玄界灘の潮風だ。どうする、どうする俺!
そして出てきた結論が、
「ノック打たせて!」
「へ?」
☆
「オラオラオラーッ。寝てる暇なんかないんだよ! いつまでグラウンドとチッスしてるんだい!? ママのxxxより美味いのかコノヤロー!」
日没間際のグラウンド。我が心の師ハートマン軍曹直伝の叱咤激励がグラウンドにこだまする。
ショートの守備位置についているのは、田端クンただ一人。いや、それどころが内野の黒土の中で唯一立っているのは彼だけだ。
三塁、二塁、一塁は死屍累々。送球を受けるべき一塁手もとっくの昔にどこからか防球ネットをもってきて、その後ろでひっくり返っている。
「カンッ!」と小気味よい音をノックバットが奏でる。綺麗なバックスピンのかかった打球が、二遊間を襲う。
出足の大分遅くなった田端クンが、ユニフォームを泥だらけにして飛び込んで、なんとか捕球。立ち上がって一塁にストライク送球するが、
「だから何べん言ったら分かるんだい! 飛び込んでとっても練習にならないんだよ! 足を使って、足を!」
「はい!」
威勢のよい返事ももはや一つだけ。最初は田端クン一人から始まった内野ノック。チームメイトがやいのやいの囃し立てる中、苦笑いでショートの守備位置についたその笑みは、一球目で真剣な表情に、二球目でちょっとつらそうな顔に、三球目で唖然とした表情に変わった。オーディエンス共の嬌声もその頃には止んでおり。十球目を打つころには三塁、二塁、一塁にそれぞれ一人ずつが配置されるに至った。
しかし続けること一時間。三塁手は執拗な前方ダッシュに体力の限界を迎え、二塁手は逃げ出し、一塁手は「もうだめデブー」と言い残しネットの後ろでひっくり返っている。あとはショートをツブせば終わりだ。
「ド、ドーラ様がいる……」
と半分ビビりながら球出しをしてくれるのはゆかりちゃん。最初は。
「えー、マコト先輩ずるーい」
とか寝言を言っていた彼女ももはやボールを寄越す機械と化した。さっきから一言も発していないのは、恐怖か、疲労か。多分前者だろう。だってハートマン軍曹、怖いからね?
「ハイ、これでラスト!」
繰り出すのは、ショート(から見て)左の緩いゴロ。シートノックで一番サマになるやつだ。
重い足を動かし、それでも軽快にサバき、流れるように一塁に送球――すると同時にグラウンドに倒れ込む田端クン。
それを見て満足気に頷く私。バッターボックスを軽く足で馴らし、「じゃああとはよろしく」と唖然としたままのゆかりちゃんに言い残して、女子更衣室に消える、ところまでで一幕。女子高生はクールに去るぜ。
☆
「いやいやまさか、大崎さんがあんなにノックを打てるとは」ポテトをつまみながら田端クンがそうごちる。
「まさに鬼軍曹」
「いやだなァ、もう。花の女子高生捕まえて『鬼』だなんて」
練習後、シャワーを浴びてさあ帰ろうかしらん、と思ったところで田端クンに呼び止められて、「ちょっとマクドでもいかない?」との文言にホイホイついていった私。
五反田には「今日は一緒に帰れないから~」という一言と、軽めのスタンプ――ジブリなキャラクターが微笑んで手を振っているもの――を送っておいた。別に付き合ってるワケではないので、一緒に帰らなくとも問題はないだろう、という判断だ。
女子高生が男子高生と話す話題として適切かどうかの判断はしないが、ひとしきり野球の話題で盛り上がる。松坂世代がまた一人、だとかセンバツの注目校、だとか。野球と政治の話はしてはいけない、というのは飲み会のお約束ではあるが、まあ男女で会話する分には問題はないだろう。
大切なのは、いかに盛り上がっているか、である。少ない人生経験ではあるが、合コンの場に思いを馳せれば、話題の如何に関わらずその場でも盛り上がりが、その後の釣果に大きな相関があるというのは経験則。おそらく真理ではないかと思う。マコトだけに。
喋っている途中も、チラと田端クンを盗み見る。頬が上気しているように見えたのは、果たして練習の疲れのせいだけか。どうだい、勃起してやいないかい――という言葉をグっと呑み込み、女子高生らしくおしとやかに、チェーンのハンバーガー屋で時が過ぎるのを待つ。
そう。男女の親密さとは、時間×質で醸成されるのだ。かの有名なつり橋効果も、心拍数の上昇が相手へのトキ☆メキと勘違いする、というのが世に伝わる理屈ではあるが、個人的な見解に依ればアレは「質」がトンでもないから、あの短い時間だけでも好感度赤丸急上昇なのだ。
「いや、でもホント今日はありがとう」
夕闇迫る夜の帳、時刻は丑三つ時――ではなく、午後九時。極めて健全な時間帯だ。
「まさかこんな時間まで話し込んじゃうとは。申し訳ない」
高校球児らしい頭の下げ方をする田端クンに、
「ううん! こっちも楽しかったから! 香織やゆかりちゃんとはとてもこんな話できないし。ぜんぜんー」
頭をぶんぶんを振る。こういうの、好きなんだろ?
話し込む間に、田端クンのおおよそのパーソナルな情報は入手できた。
野球が好き……なことは置いておいて、なかなかどうしてイイオトコなのである。健全な男子高校生を絵にかいたような日常を送っているらしく、やはりあの爽やかジャニーズな五反田とは対照的だ。多分一日二回はオネイニーに勤しんでいるはずだ。男子高校生とは、得てしてそういうもの。
そして、大崎マコトにも少なからず好感を持っている。それが罪の意識から芽生えたものかどうかはさておき――本人も分からないだろうから――それは間違いない。
どうだと言わんばかりのガッツポーズ――を繰り出したい気分だ。この私が! 女性経験がお世辞にも豊富とは言えない私がモテの世界のピラミッド、その上位に位置しているのだ。五反田と合わせて、両手に花! いや、両手に男根か?
モテたい、というのは承認欲求の一つの表れである。それを満たしている今、多少の耽美に浸ることを誰が止めることができようか、いや、出来まい! 私は今、猛烈に青春している!
大型ショッピング・モールから二人で線路沿いを歩く。少し会話が途切れることもある。その間に、田端クンの頭のモーターが唸りを立てているのが手に取るようにわかる。なぜなら、私がそうであったからだ。私は君の十年後を見ている。
「や、休みの日とかは真はなにしているの?」
おお、合コンめいた! と思いつつも、
「うーん」と考え込んでしまう。
何故ならその答えは私も知らないからだ。仕方が無いので、
「香織と遊んだり、あとは家でテレビ見たりとかかなー」
極めて無難な回答を繰り出す。当たっているか間違っているかは知らないが、無難。
「へ、へー」
一瞬会話が止む。また田端クンの頭がぐるぐると回る。
頑張れ! ともはや気分は応援団。頑張ってこの女をオトすんだッ。抱け―っ!
「どんなテレビとか見てるの? バラエティとか?」
この場合のベストアンサーはなんだろうか。正解ではない回答は沢山思いつく。生活笑百科とか新婚さんいらっしゃいの視聴に精を出しています、というのはまず間違いだ。大相撲を幕下の取り組みから延々見てます、というのも違う気がする。かくなる上は――
「ウチTVK入るから、ベイスターズの試合とかかな」
「じゃあさ!」
田端クンが食いつく。がっつくなって。ほら見ろちょっとこっちもビクってなっちゃったじゃないか。
「じゃあ、今度見に行かない? 神宮に」
「いいよ」
「実はさ、たまたま親父の仕事の関係でチケット持っててさ、こう見に行く相手を探していて、もし空いてたらでいいんだけど、」
「だから、いいよって言ってるんじゃん! どうしたのよ、もう」
お決まりのようなパターンに、お決まりのような反応。これぞ様式美、というものを堪能してしまった。ゴチになります。
「ホ、ホントに! ありがとう! じゃあ日程は――今週の土曜日とか、どう?」
スマホのカレンダーをちらりと見る。季節は十月、木枯らし一号にはまだほど遠いこの時期の予定は空白である。
「――大丈夫! 楽しみね!」
とびきり(当社比)の笑顔でお返事差し上げる。やにわ、田端クンが私の柔らかい手を握って、
「ありがとう!」と大音声。すこしビクりと体が強張ると、
「あ、ごめん……俺帰国子女だからさ。なんというか、感情表現がちょっと出過ぎるきらいがあって……」
パっと手を放し、手で頭をぽりぽりと掻くタバタくん。
――なんて健気なんだッ。はっきり言って、彼は恋をしている。それが私に恋をしているのか、はたまた恋に恋して恋気分なんかは分からないが、心ここにあらず浮つき、だ。
それから私の家路を二人で帰る。やれドラフトが、やれ保険医の先生がエロイだ、などと話題は尽きない。
遅れて来た青春を謳歌している自分に気付く。少女漫画なら、そろそろ最後のコマで星空――都会にも関わらず!――をバックに、二人の会話と「アハハ」という書き文字が浮かんでいる頃合いだろうか。なかなかサマになる青春だ。
「じゃあ俺はこのへんで! また明日、学校で!」
私の家の前までたどり着くと、田端クンがそう言って踵を返した。
「あれ、家どこだっけ?」と私が言うと、
「え? ――ああ、そうか、そう言えばなんか記憶喪失だとか五反田のヤツが言ってたっけ」そうして頭をポリポリと掻き、
「いや、さ。なんか家まで送らなきゃ……って思って。俺の家、ここからちょっと戻るんだ、実は」
――キュン死に~。もうもはや悶絶して地べたを這いずり回りたい気分だ。こんな生きた化石よろしくなオオサンショウウオな男が、この腐れきった鋭いメスを入れられがちな現代社会に現存していたとは!
しかし大崎マコトは花の女子高生である。ここですべき最善な選択は、
「え――」
と顔を若干紅潮させ、両手で口を覆う。完璧な少女漫画しぐさだろう。現実では、フラッシュモブでプロポーズされた場面でしかお目にかかれない仕草だ。でもこの場ではおそらくこれが百点の回答のはず。ソースは別冊の方のマーガレット。ちゃおだとちょっと幼いからね。
果たしてこの戦術は、対して何も言えなくなった田端クンを見るに、大成功を収めたと言えるだろう。
「じゃ、じゃあまた明日!」
と言って東京ミッドナイト(午後九時半)を駆けて行く彼の背中を、愛おしそうに見送るワ・タ・シ。
彼が曲がり角を見えなくなったところで、力を抜く。さながら高級飲食店のお見送りだ。キャバ嬢とは違うのは、敵がタクシーに乗っていないところ。
☆
ふう、と一息つき制服のままベッドに倒れ込む。疲れ、というよりはある種のロールをプレイしきった、しかもかなり上手にやりきったという満足感が私を支配していた。
一応日記に今日一日をしたためておくか、と立ち上がると窓を叩く音。
あれま、猫でも来たのかな、と思い窓を開くと、
「いやに遅かったじゃないか」
とジャニーズな声。五反田だ。
「結構心配したんだぞ」
薄暗い中で顔を見れば、少し拗ねたような顔。
ははあそう言えばこの男も私にホの字であったな、と思い出す。モテるナオンは辛いぜ。
「田端クンといただけだし、別になんもなかったよ。家まで送ってもらったし」
田端、と言った瞬間に目を見開き、
「お前、田端といたのかよ!」
若干慌てたような声。ははあ、と状況を悟り、
「なによ――田端クンといっしょにいちゃ悪いワケ?」魔性の女モードで行こう、と判断する。
「今日ノック打ったお礼にって、田端クンがマクド奢ってくれたの。別にこっちから頼んだワケじゃないけど、断るのもアレじゃない? だから別にいいかなー、って」
「でもお前、そんなこと言って――」
彼の言葉が続かない。本当は「俺というものがありながら」とか、「ふしだらな! このアバズレ!(意訳、ないし超訳)」ということを言いたかったんだと思うが、彼にその権利はないのである。
すこし押し黙って、
「まあ……田端となら安心だろう」そう言って、一人でウンウンと頷く。「香織もあることだしな、ウン」
なんでそこで香織の名前が? と尋ねると、
「そりゃあ、誰がどう見ても香織は田端のことが好きじゃないか。田端が転校してきてからこっち、もう見てらんないぜ」
ということらしい。
要すれば、「品川香織が田端ヤスシが好きなのは周知の事実であり、誰もが知るところである。それは田端本人も認識しているハズであり、だから迂闊に大崎マコトには手をだすまい」ということらしい。それで先ほどの「ウンウン」という自己完結があった、というワケだ。
「でも私、今度の土曜日田端クンと野球見に行くんだけど」
「な、なにーッ」
欄干に両手をかけ、こちらの家に乗り込まんとする勢いだ。若いっていいな、とは思いつつ、
「ちょっと、そんなに大きな声出さないでよ! たかだか野球見にいくだけじゃない」
「そりゃびっくりもするだろう! だって――二人きりなんだろ? それって――」ひと呼吸置いて、「それってデートってことじゃんかッ」
何を今さら、と思うが少し考え直す。
そうだ、デートなのだ。まあそれ自体は特段問題があるワケではないが、枯れた社会人のおじさんが、合コンで会った女の子と「まあとりあえずいっぺん会ってみるべ~」というのとはワケが違う。彼らの世界では、男女一対一のデートいうのは、それはそれは尊いもので、おそらくは交際を前提としたイベントになるのだろう。かつては私もそうだったかもしれない。がしかし、積み重なる年月により当該の感覚は忘却の彼方に消え去ってしまっていた。
それを今、五反田の一喝で思い出したのだ――だからどうした、という以外のなにものでもないが。
「まあデートくらいはするんじゃない? しかも、田端クン『お礼がしたいから』って念押ししていたし」
「そんなの――」方便だ! という彼の心の声は私に届いております。目は口ほどに、とはよく言ったもので、嫉妬に燃える彼の眼差しが眩しくて見ていられない。
「もう、うるさいわね」そう言って、この話はうちきりとばかりに手をヒラヒラと振って、「で、明日の朝はいつもの時間でいいの?」
聞いているのかいないのか、「フン」とむくれるかわいい五反田に対し、
「ああもうわかったわよ! 勝手にするわよ。別にアンタなんかいなくてももう大丈夫ですからッ」
いろいろありがとね! と言って、音を立てて窓を締め、これまた音を立ててカーテンを引く。「お、おい!」という五反田の声が聞こえたが、聞こえないフリ――というか、無視を決め込む。
青春してるじゃん、と思った。
日記を書いて、風呂に入り、髪を解かし、股間に手をつっこみ、また大層にシェイクされて時間を戻されて、大人しく床に就く。
翌日はあえて時間をずらし、一人で登校した。危なげなく女子高生を過ごし、放課後はまたノックの雨を降らせる。
五反田とは一日喋らなかった。ときどき視線が合うと、目を逸らしてくるのが愛おしく、ほんのちょびっツだけ申し訳ない。
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