果心居士異聞─花月

春野わか

第1章 流転

 その日は快晴だった。

 天正十年、六月二日早朝。


 大和守護職である筒井順慶は、大和の郡山城から織田信長の命で京都本能寺を目指し馬を歩ませていた。


 博多の豪商島井宗室を招き、信長秘蔵の茶器三十八種を披露する豪華な茶会に参加する為である。

 信長父子に加え、近江坂本城主明智光秀、丹後宮津城主細川藤孝等、詳細は分からぬが堺見物を終えた浜松の徳川家康も招かれるらしいと耳に入ってきていた。


 政治色の色濃い茶会。


 主賓が博多の豪商島井宗室であるのは、長宗我部と毛利を制圧した後の九州討伐を見据えた懐柔策ともいえた。


 片や島井宗室には、信長が欲する天下三肩衝の茶入れ「楢柴肩衝ならしばかたつき」を献上する事で、天下統一に王手を掛けた権力者の強い庇護を得ようという狙いがあった。


「蒸し暑いな」


 旧暦の六月である。

 現代ならば夏至は過ぎ、後数日で半夏生という時節だ。


 昨日も一昨日も雨が降った。

 梅雨はまだ明けておらず、また今日も雨かもしれない。


 暑がりの順慶の坊主頭を陽が照らし、額に掛けてうっすら汗が滲んでいた。


 蝉が鳴き始めるのはもう少し先だ。


「京までは後半分程であろうか」


 後ろから差し出された白い手拭いを掴みながら背後の若者に声を掛けた。


 奈良街道をこの儘北上すれば、本能寺までは凡そ五里の距離といった地点だ。

 茶会の後は四国出陣となるが、大軍を率いている訳ではないので再び郡山城に戻る事になる。


 馬の歩みを早めれば、昼頃には到着出来るだろう。


 声を掛けられた順慶秘蔵の忍び月読丸は、無言で女性のような麗しい顔を綻ばせた。


「休憩しよう」


 元より只の呟きに等しい言葉に返答は求めておらず、馬の手綱を引き歩みを止める。

 竹筒の水を口に含み、小用を済ませ軽く伸びをした。

 暫し供の者達と休憩がてら談笑している所に、思いがけない報せが入った。


「茶会は中止? 」


 順慶は口を大きく開けた後、本音を隠せず眉を顰め微かに溜息を洩らした。


「は!上様は四国に御出陣されるとの事で急遽安土に戻られた由にございます」


 主君信長の唐突で性急であるのは承知しているが、此処まで来て突然の予定変更にやれやれと首を振る。


 だが敵対する毛利、長宗我部の動きに異変でもあり、茶会を催している場合ではないと判断したのかと気持ちを切り替え、武人の顔付きで家臣達に命じた。


「仕方がない!郡山に戻るぞ」


 それから、驚天動地を揺るがす危急の報せが順慶にもたらされたのは、二里程大和への道を引き返した頃であった。


 ───


 筒井順慶は、その報せを大和への帰路の途上で知ったと伝わる。


 京都の本能寺に向かっていた所、俄に信長が四国に出陣する為安土に戻ったと聞き、慌てて郡山城に引き返そうとしていたらしい。

 明らかに嘘の情報は、何者かの策なのか。


 とにもかくにも、二度目の報せに関しては嘘では無かった。


「馬鹿な! 日向守(明智光秀)が謀反じゃと!! 」


 それを知った順慶の第一声は大きかった。

 だが、その後が続かない。


 双眸は見開かれ、面から血の気が失せ緊張で引き攣っている。


 その場にいる誰もが順慶と同様の気持ちであったが、信じられないからこそ、明智光秀の謀反が真であると即座に悟った。


「相分かった」


 順慶の胸中は千々に乱れていたが、今出来る事はそれしかない。


「殿、都の様子、私が探って参りまする」


 静かな声音で、そう進み出たのは美形の忍び月読丸である。


「月……気を付けよ。危険と思わば直ぐに戻れ。明智の者に囚われたら直ぐに儂の名を出せ。さすれば斬られる事はあるまい」


 随分甘い言い様だが、月読丸は順慶にとって只の忍びではないのだから仕方がない。


 二人は男色関係にあり来世まで誓う仲であった。


 本音を言えば行かせたくはないが、契り合うた仲故に、止めても聞かぬ事は目を見れば分かる。


 それに今だからこそ、彼に頼むしかなかった。


「はっ!承知! 」


 月読丸は掠れた低音で短く言うや、馬首を都の方角に向けると素早く駆けて行った。


 その後ろ姿を見送りながら、順慶の脳裏に明智光秀と最後に会った時の情景が浮かんだ。


 武田討伐の功で駿河国を拝領した徳川家康が、信長への礼の為に安土を訪れたのは、今日から凡そ二週間前の五月十五日の事だ。


 その時接待役を命じられたのが明智光秀。

 順慶も安土に呼ばれ、光秀とは顔を合わせている。

 備中の高松城攻略中の羽柴秀吉からの援軍要請で、光秀が饗応役の任を解かれたのが十七日。


 出兵の準備の為に近江坂本城に戻る時に挨拶を交わしたのが最後である。


『特段、変わった様子は無いように思えた。強いて言うならば疲れているようには見えたが──』


 そこで、ふと思い出したのが十九日の出来事である。


 






 


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