雨ノ原荒廃都市
夜狐。
第1話 影の洪水。
…では、次のニュースです。
突如発生した雨雲の影響により、一昨日から日本全国で異常な豪雨が確認されています。
各地の大型河川などでも氾濫水位に近づいており、一部地域では避難勧告が発表されました。
気象庁は今回の豪雨について「前例のない異常気象だ」とコメントしており、「各自自分の身は自分で守れるように行動してほしい」と呼びかけました。
また、この雨がやむ見込みについては「現時点では予測できない」とコメントしました………
「……」
パタン、と、今や少数派となったガラパゴス携帯の画面を私は閉じる。
途端に、今まで意識の外に追いやっていた周囲の雨音が強くなった気がした。
例年見ない大豪雨によって、道路には川の流れのように雨水が流れ、耳は傘や地面にぶつかる雨粒の音で覆いつくされている。
少なくても私が生きてきた中で、此処まで酷い豪雨は初めて見たと思う。
日本特有のばらつきのある家々が立ち並ぶ何でもない住宅街の歩道に、私は一人立っていた。
目線をふと上げた先には、降り続く雨によって光が薄められた交差点の点滅信号がある。
足元のアスファルトの上には水の流れができている。
ズボンは雨に濡れ、靴の中なんてとっくに浸水している。ここまで酷いと傘が守ってくれるのは上半身くらいだ。
「はぁ…」
こんな雨の中、傘一本で外に立っていたら溜息も付きたくなる。
ただ、それは雨に外にいることに対しての溜息であると同時に、自分のした行動に対する溜息でもあった。
朝から雨だった今日。私…
殴る蹴るがあるようなものではなく、所謂口喧嘩と言うものだ。
原因は二日前に遡る。
二日前の朝から、私の家では不用品やガラクタを片付ける作業が行われていた。
ずっと続く雨の中、家の中だけでも綺麗にして快適に過ごそうという考えのもと家族全員、もとい両親と私の三人がかりで家の中から不要物を搔き出す計画だった。
しかし想像以上に物は多く、最終的に片づけが終わったのは昨日の夜だった。
そして今日、朝起きてある問題が発覚する。
「…ねぇ、私の部屋にあった書類の束ってどこにしまったか覚えてる?」
そう尋ねるのは私の母親だ。
話を聞くと、自身の部屋に保管していた書類の束が丸々どこかに行ってしまったという事らしい。
ただ、書類なんて山ほどあったため、どの書類の束だったのかは私には分からなかった。
「うーん…書類はたくさんあったから、まとめて入っている場所にあるんじゃない?」
私はその時、恐らく大事なものなら残しておくものとして保管されているのではないかと考えていた。処分する前に劣化具合とかを見ているはずなので、少なくとも処分はされていないだろう。
その後、父親も母親から尋ねられていたが、少々悩んだ後、
「書類はたくさんあったし、分からない…」
という事だった。
そもそも父親は力仕事を押し付けられて…担当していたので、書類を目にすることはあっても整頓などには参加していない。
分からなくて当然と言えば当然だ。
しかし、どうやら母親にとっては相当大切な書類だったらしい。
その後、外に出した束を探したりなど、この大雨の中でも必死で書類を探していた。
……そしてお昼を回った頃だったかに、私は呼び出された。
目の前には明らかに不機嫌な母親と、雨に濡れてぐちゃぐちゃになった書類があった。
その後はもう…ご想像の通りである。
なんでその書類が処分に紛れていたのか。それは私のミスだった。
書類の見た目は明らかにボロボロなわら半紙に手書きでメモのような文字と落書きのようなものがついているものだった。
最後にまとめて書類関係のゴミを運び出していた私は、その束も処分品だと思って外に出してしまっていたらしい。
母親はあらかじめ私にその束について捨てないように忠告していたらしいが、二日にわたる片づけで疲れていた私は、返事半分で答えてしまったのかもしれない。
でも、私は言われたことを覚えていなかった。
更に片付けにはもともと乗り気ではなかったため、少しイライラはしていたんだと思う。
その場で大喧嘩が始まり、そのことに気付いた父親が仲介に入ろうとするも、上手くいかず…最終的に我慢できなくなった私は、携帯と傘を掴んでこの雨の中外に飛び出した。
今思えば、素直にミスを認めていればまだ良かったのかもしれない。
そうであれば、今頃こんなことにはなって無いだろう。
『あ~あ…なんで変な意地張っちゃったんだろう…』
透明なビニル傘を通して鉛色の空を眺めながら、頭の中でそんな後悔を呟く。
「はぁ…」
再びため息をつく。
だが、それはさらに強くなった雨音に搔き消された。
……特に行く当てもなく飛び出してきてしまったから予定もない。
ふと外に意識を向けると、ボーっとしてる間に雨はさらに勢いを増したようで、足元の水も目に見えて増えている。
頭を冷やすには最適かな……なんて、雨による気温低下を少し肌寒く感じながらそう思う。
この時期の雨なら温水が降ってくるのも珍しいものではないのだけど、ここ最近降り続く雨は冷たく、黒い。
黒いというのは色がついている訳では無いと思うのだけど、空も分厚い雲に覆われて太陽が中々顔を出さないからそう見えるのだろう。
「…どこか雨宿りできる場所見つけないと」
せめて雨が防げる場所に行きたい。
一瞬家まで引き返そう、と思ったけど…今から家に帰るというのもなんだか親に向ける顔が無い。
…いや、この雨の中がむしゃらに走ってきたのだから、どれくらい距離があるかもわからないというのが正しいのかもしれない。
最終的に5分ほど悩んだのち、
『ここはどこかの店や施設に逃げ込むのが良いかも』
という結論に行きついた私は、足を掬われないようにしながら黒い水の流れを横切り、歩き出した。
…バシャバシャと流れに逆らいながら、しばらく歩いたところだった。
近くのコンビニに避難しようと考えていた時に、町から明かりが消えていることに気が付いた。
最初はてっきりまだ明るいから付けていないと思っていた。
…のだけど、コンビニであれば流石に明かりは付けているはずだし、そもそもこの雨を降らせている分厚い雨雲のせいで周辺は薄暗い灰色に包まれている。
…しかし、現に目の前にあるコンビニに明かりは灯っていない、というか、開いていない。
閉店してしまったのかな、と最初は考えたのだが、どうやら周囲の家にも全く明かりが無い。
「…雨で停電したのかな」
ヒヤッとした嫌な予感をかき消すように、そう呟く。
…が、かき消せない。
ドロッとした嫌な予感が、頭に張り付く。
停電だけであれば中に人がいるはず……
それにいくら雨だとはいえ、周囲に人気が無さ過ぎる……
…なんて、普段は気にも留め無いような些細なことまで考えてしまう。
周囲には雨に濡れ、完全に色が変わったコンクリート塀とアスファルト。
信号はそういえば動いている。
街灯もついている。
…しかし、それ以外が無い。主に人の活動が見えない。
普通は車の一台や二台は走っているものだけど……
……聞こえるのは激しく雨粒が地面に打ち付けられている音だけだ。
まるでこれは……
「皆、消えた…?」
まさかそんなわけが、と思っている部分はあった。
……しかし、そう呟いた瞬間、背後にぞっとした強い悪寒が走った。
思わず振り返る。
……そこには、川のように渦を巻きながら流れてくる大量の黒い水が映っていた。
容易に私の身長を飲み込むような黒い水の濁流。
思わず目を疑った。
おかしい。
さっきまでそんな気配は一切なかった筈なのに…!
そう頭の中で呟いても、非情な黒い濁流は着実にこちらに迫ってきていた。
なんで?
雨の流れとは比較にならない濁流が急に出現した。
川の堤防が決壊したの?
いやこの付近に大きな河川は存在しないはず。
ではどうして?
雨水の流れ?
いやそんな次元では無い!!
そんな自問自答を一瞬の間に頭の中で繰り返した。
しかし答えは見えない。見えるはずが無い。
答えは黒い水に飲みこまれているように全く見えない。
…次の瞬間、私は濁流から逃げるように走り始めた。
こんなのは考えている場合じゃない!!
あの水は…普通じゃない!!
…そう私の本能は判断していた。
あれは普通の水ではない。
光の反射すら許さない…いや、光のない場所のような…
「…っあぁ!?」
…雨水で滑りやすくなったアスファルトを、全力で走れる時間はそう長くは無かった。
キャパシティオーバーして最早意味をなしていない側溝の、金属の蓋の上に差し掛かった途端、一気に足が前に滑り、私は、半ば後ろ向きに黒い濁流に倒れこむ形で水に飲み込まれた……
濁流に飲み込まれ、視界が埋まる。
目の前の景色が暗黒に飲まれて消える。
体の感覚が水の冷たさと、もう助からないという感情で消えていく。
……これは普通の濁流ではない。
こういう真っ暗なものを何と言ったっけ…
薄れる意識の中、ふと頭の中で考える。
……音もなく出現して、私や街を飲み込んでいったこの暗黒は。
この水は。
久しく見ていない夏の太陽の対局だ。
冷たく、暗く、周囲から熱や活気を奪う。
…そうだ。この水は、
『…影だ。』
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