3,繋ぐ

 その日も、快晴。太陽の光が、青々とした葉についた雫を翡翠のように輝かせている。空は青かった。

 昨日のことがあって重い雰囲気と、手が止まった私の様子を察したのか顧問の宮水先生の気分転換に川のスケッチでもしようか、という話から学校の近くにある川に来ていた。

 昨日は夕立があった影響かまだ川の水位が若干高く、濁っているような気がする。

 川についた私たちはそれぞれ別々に行動、お昼の12時頃に東屋に集まるということになった。心音は私についてきた。別に、追い払う必要もなかったのでそのまま一緒に行動していた。川の近くの細い木の下に座りスケッチの用意をする。心音は口数は少なかったが心の中では何かを考えているようだった。私にはその「何か」が分からない。本人にもよく分かっていないのか、聞こえてくる声にノイズが入っている。

 ノイズの隙間から聞こえてくるのは、私がなぜあんなことを言ったか、何かおかしなことを言ってしまったのではないか、とか。もやもやと、夏の湿気を含んだ重い空気のような、はっきりとしない声が入ってくる。

 私の聞きなれた声。

 私は隣に座っている心音のスケッチブックを横目で確認する。

 まだ何も書かれていない。鉛筆が一点に止まったまま、停滞している。心音本人の様子もどこか上の空だった。目の奥がぼーっとどこかを見つめていて、陽炎のように形が定まっていない。

「熱中症?ぼーっとしてるなら水を飲んだらどう。」

心音が私の言葉にはっとして、絃ちゃんありがとーなんて言いながら水筒を取り出し

、水を飲む。心の声が次第に収まっていく。いつもに比べれば聞こえるが、こんなものは教室で聞きなれている。私は目の前の川の流れを見つめ、水彩筆を動かす。


 水の流れにフロスティブルーを重ねる。


 川で溺れている人間を助ける。それは、一般的には愚か極まりない行為とされている。溺れている者は正常な思考力を失っている。命が掛かっている状況、本能的に生き延びようとした結果、もがき、更に沈む。助けに入った者はたとえ泳ぐことが得意とされる人物でさえも大抵は一緒に溺れ死ぬ。溺れている者にしがみ付かれて泳ぐことが出来なくなる。結果、共倒れになる。現実に存在するなら、実に愚かで馬鹿馬鹿しく、美しい話だ。


 コバルトブルーにパーマネントグリーンを少し。


 私は、見たことが無かった。そんな、誰かを助けるために、自分の命を度外視して行動してしまう、することが出来るような人間を。行動が可能な、自立した人間ほど、そんなことはしない。その一方で、優しい人間はずる賢い者に食い潰されて消えてしまう。優しい人が生き残れないように設計されているのだろう。だから、子供の頃の心は、成長し、生き方を叩き込まれる中で汚れていく。


 向こう側の葉に影を落として。


 心音を助けた少女は、今どうしているのだろう。やはり、醜い、打算的な人間になってしまっているのだろうか。それとも、今横にいる彼女のように、いわゆる「人情深い」というか、優しい人間でいるのだろうか。


_________誰か助けて!!!!!!


遠くで声が聞こえた感じがした。昨日の、濃い記憶が残留しているのか。


__________って!今、助けるから!


水の音が聞こえる。足音が聞こえる。


横から気配が消えた。


「っ⁉」

 反射的に隣を確認する。心音はいない。

 周囲を確認する。心音は、川の中にいた。絵筆を筆洗代わりのペットボトルに投げ込み、スケッチブックを放って近づいていく。

 川の外には、泳ぎに来たのであろう4,5人の小学生のグループがおどおどしている。川の中には心音と、あぁ、溺れた子供が一人、川の中の岩にしがみついている。

 近づくにつれてざわざわと、心を揺らすような不安の声が聞こえてくる。その中で一つ、心音の声が強く、濃い霧の中で道を指し示す一つの光の筋のような声が聞こえる。

(助けなきゃ。助けなきゃ。助けなきゃ。)

 蝉の声が、水の音と混じり、視界を揺らす。心音は、一体何を考えている。何も考えていないのに川に入ったのか。いや、何も考えていないのか。助けることしか、眼中にない。水位は、いつもよりもほんの数センチではあるが高い。だが、そのほんの数センチは大きな意味を持っている。というか水位が高かろうと低かろうと救助のために、なんの策も無しに素人が川に飛び込むのは大きな間違いだ。大馬鹿にもほどがあるだろう!

 無茶だ心音、と叫ぼうとした。その瞬間だった。

 心音が川の中に崩れ、水飛沫が上がる。

__________しまった!

 心音が川の中で足を滑らせて溺れたのか、と思った。だが、幸いというのか、水飛沫の向こうには少年と共に小さな岩にしがみつく心音が居た。

 流されたわけではないことに一瞬安堵するが、すぐに頭を切り替える。小学生の心の声を聴き、何がどこまで進んでいるのかを把握する。

 どうやら、一人がすでに大人を呼びに行っているようだ。だが、そこから更に救助が可能な、消防署の人間あたりを呼ぶだろう。それまで彼らはもつだろうか。いや、厳しいだろう。心音はともかく、あっちの子供がどうなるか分からない。

 なんとか出来ないだろうか。せめて彼らを固定しておきたい。

 考えていると、後ろからスカートの裾を引かれる。振り返ると兄弟に連れられてきたのか、グループの中でも特に幼い子供が息を切らせて、長いロープを持って私を見上げていた。

「お姉さん。助けるなら、これ使って。」

彼女は期待している。私が助けるのを。彼女だけじゃない。他の子供たちの声は、濁った不安から、淡い期待に変わっている。私は。


___________私は覚悟を決める。


 ありがとう、と一言お礼を言い、ロープを受け取る。ロープの結びを解き体に巻き付ける。外れないように、きつく結ぶ。

 さっきまでいた木陰に走って向かい、川の中を確認する。二人はまだ大丈夫だ。木に、巻き付けようと幹にロープを回したとき。気づいてしまった。


このロープじゃ、足りない。


私が持っているロープの束はおそらくあと8メートル程度。川までは6メートル、そこから二人のいる岩までは3メートルは確実にあった。木に巻き付ければ残りは更に減る。

 ロープを持つ手が震えている。蝉の音が煩い。考える。このロープを何とか固定する方法が必要。地面に埋め込むことは出来ない。大きな石を使う?3人分の体重を支える石が河原に落ちているわけがない。何かを探さなければ。

 振り返ると、子供たちが私を見上げている。助けを求めている。

 ああ、希望はあった、見つけた。だが、どうする?上手くいく保証はない。失敗すれば3人とも仲良くお陀仏である。こんな、リスクの高いことをするのか?成功する確率は低く、その上失敗すれば死。こんな、あまりにも無謀で、馬鹿なことをするのか。私は、


__________私は。


 ロープを託す。私は、その心を信じた。信じたんだ。


 川に飛び込み、二人のいる場所まで向かう。水飛沫が視界を埋め、前を歪める。一歩一歩確実に、足元に気を付けて進んでいく。流されないように。踏み外さないように、諦めないように。流れが速く、深い、岩まであと一歩のところまでやってきた。すり足で、腕が届く場所まで接近する。

 二人に手を伸ばした。


___________________はやく_____


 少年がが手を掴み、心音が手を掴もうとした。


 その時


 心音の、岩を掴んでいた片手が離れ、体が離れる。


_________________心音!!


 叫び、心音の手を、間一髪掴んで引き寄せる。


 

 



 

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