雲の糸

花籠 コノハ

1.絃

 今日も、空は青い。

 下書きすらされていないポスターから目を離し、窓の外、遠くの空を見た。今日も快晴、空は澄んでいる。そのムラのない水色に呼ばれたように立ち上がって、窓の枠に手をかける。弱弱しく今にも消えそうな風が、薄く汗の張った頬を掠めていく。

 高校に入って初めての夏休み。私は、文化祭のポスターのアイデアが出てこないまま、すでに1週間を過ごしてしまった。締め切りにはまだ時間が残されているが、アイデアスケッチすら終わらないのは不味い、という焦りから、ここ最近は何も語らないスケッチブックとにらめっこばかりをしている。焦ってしまうからなのか余計にアイデアが出にくくなっているような気もするが、のろのろしていて危機感がないよりはいいだろう。

 鞄からお気に入りの紙パックオレンジジュースを取り出して、外を眺めながらストローで吸い出す。自然豊かななんちゃらかんちゃら、というキャッチフレーズを掲げている高校というだけあって周りは山と田んぼと民家という、田舎という言葉をそのまま体現したような景色が広がっている。

_____________この場所は静かでいい。

 私が住んでいた家、もとい神社はそこそこ参拝客がいてうるさかった。嫌でも耳に入ってくる人の邪な願望、欲塗れの祈り。本当に最悪だったのが誰のことかも分からない恨みつらみを聞かされたときだった。心の声なんて聞こえないに越したことはないと、痛感させられた。今でも教室や近所のスーパーはうるさいけど、人を意識しなければほとんど聞こえなくなった。……それでも聞こえてくるときはあるが。

(絃ちゃん……どうしたのかな……。なんか困ってるのかな……。)

 正直、アイデアが全く出てこないことに関しては困っていたけど余計な心配をされて、心の声が聞こえてくるのはそれはそれで困る。

「心音、大丈夫だから。自分のポスター書き終えちゃいなよ。」

「わー、絃ちゃん。びっくりしたー。」

後ろを振り返ると心音が顔を覗き込むようにして立っていた。


 心音の心の声は、初めて会った時から単純で、優しかった。普段は聞かないように意識しているけど、聞こえても大丈夫な唯一の他人と言っても過言ではない。

「絃ちゃんすごいよねー。私の気配とか心とか分かるみたい。超能力者みたいだよね!」

(私の心の声とか聞こえてたらおなか空いてるのとか分かるかな。今日はお昼持ってくるの忘れたから一回家に帰らないといけないんだよね。)

 彼女は悪いことを考えていない。不快な感じはしない。世間を知らない無垢な子供の様な、春先の暖かい風のように柔らかい心で話している。

 ただ、正直なところ、人の心の声というものは、聞こえてくるだけでも十分疲れるのだ。彼女はあまりにも、考え方が幼稚すぎる。純粋なんて言えば聞こえはいいが、騙されやすいとも言い換えられる。聞いているこちらが心配になる。心臓に悪い。

 そもそも、心を読むというのはそんなにも魅力的なのだろうか。

「心が分かる……か。仮に心の中を読まれたら、不快じゃない。自分だけの秘密が外部に持ち出されるかもしれないのに。それに、読む側も気持ちのいいものではないと思うの。」

私は彼女に問いかける。心を読まれることの恐ろしさを。同時に読むことの恐ろしさを。彼女の純粋さにメスを入れるように、鋭く返す。

柔らかな心も、単純で悪意のない思考。だが、高校生にもなってそれはちょっと目、というか耳に余るというか。

 蝉がサイレンのように、けたたましく鳴き出した。心音は少し考えるように上を向く。がすぐにこちらを向きなおして言った。

「うーん。確かに秘密は誰にでもあるし、見られたりするのは少し怖いかもね。」

ですよね。

 そう、思って「心を読むなんて怖いこと言わない方がいいよ」なんて言おうとした。彼女は、「でも」と続けた。

「心を読めたら、話すことが苦手だったりする子の気持ちとか、汲んであげられないかなぁ。それに、絃ちゃんには私の気持ちが分かるのかもしれないけど、私には絃ちゃんの考えてること全っ然わかんないよ。もっと話してほしいなぁ、って。」

「……あぁ。」

 私は呆れているのか、安心しているのか分からない腑抜けた声で返す。この子は、本当に、人の悪意に触れてこなかったんだろうか。というか普通の人は悪意とか触れないのか。それとも彼女のような「いい人」の周りには「いい人」だけが集まるのだろうか。そもそも彼女は。

 いや、そんなわけない。人は、ほぼ、全ての人は、欲を抱え、闇が根底にある。何人も、友達だと言ってきたやつはいた。最初は良かった。どこからか、恐ろしく察しの良い私を気味悪がって避けるようになった。神を信じるやつは、大した努力もしない癖に、私利私欲の為にやってくるやつの方が何倍も多かった。

結局人間なんてそんなものでしかない。親切とか、友情とか、一見無価値なそれは損得、利益が目的なのだ。醜い。損得勘定が醜いのではなく、それを隠していることが醜い。気分が悪い。

 彼女が、いつかそういう感情に染まっていくのを、子供のような無垢な感情が汚されるのを考えるのは、気持ちが悪い。

「絃ちゃん?」

「え?うん、どうしたの?」

 心音の心の声が聞こえないほど考え込んでいたのか。

「熱中症じゃない?お水飲んだ?」

「オレンジジュースあるから大丈夫だよ。ありがとね。」

そっかー、と心音が安心したような顔をする。どことなく、その顔が子供を心配する母親のようだった。

「そうそう、心が読めてたらっていう話なんだけどね。」

彼女はまださっきの話をするつもりらしいが、今更何を言っても遅い気がしたので、大人しく耳を傾ける。

 彼女は遠くの山を見て、一呼吸置いた後、懐かしそうに語りだす。


「昔、いつだったかは忘れちゃったけど、川に遊びに行った時の話。すごい、かっこいい女の子に会ったんだ。」


________彼女の話に引き込まれ、心の中の光景が見えてくる。


 人が心に濃く残っている話をするとき、その話の光景が半ば幻覚のような形で見えてくることがあった。人とほとんど会話をすることが無くなった今ではほとんど見ることは無い。この、ぐらりと、見える景色が変わる瞬間が少し苦手だった。


 それは、彼女がまだ6,7歳頃の話だそうだ。


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