くらげと水槽
秋野いも
くらげと水槽
夜の街路で君が言った言葉が、忘れられない。
「くらげって、どんな味がするんだろう」
さっきまで、泣いていたわたしを優しく慰めてくれていた。それなのに、わたしの顔をじっと見つめていたかと思えば、イッちゃんはいきなりそんなことを言い出した。
わたしは呆れてしまった。
「くらげ、食べたことないの」
尋ねると、かぶりを振られた。
「違う。あのほら、海で泳いでるまんまのやつ。あのゼリーみたいなの」
大真面目な顔で言われたものだから、わたしは呆れを通り越して、笑ってしまった。
イッちゃんは変な人だ。ふざけていると思いきや、実は真剣だったりする。笑っているようで、怒っていたりする。本当に分からない人だ。
わたしは、イッちゃんのことを何も知らなかった。本名も誕生日も、『たしかこれだった気がする』程度にしか覚えていない。勝手に同い年の女の子だと思っているけど、実は年齢も性別もよく分からない。
不思議なイッちゃん。人と違うイッちゃん。だけど、わたしの大好きなイッちゃん。
存在が謎だ。友達?恋人?それともただの知り合い?……それにしては距離が近すぎる。
その不思議なイッちゃんの不思議な問いに、わたしは答えた。───戸惑いながら。
「別に味は同じだと思うよ。海水でちょっとしょっぱいかもしれないけど。あとくらげって、毒あるから、泳いでる状態のやつは食べられないと思う」
口にしてから、泳いでいる魚なんて毒がなくても食べない、と気づいた。
「……そっか」
なぜか納得できていなさそうなイッちゃんの表情が、少し可笑しかった。わたしはまた尋ねた。
「ねえ、何で急にそんなこと気になったの」
わたしの問いに、意外な答えが返ってきた。
「テゴメの涙が、くらげみたいに見えたから」
『テゴメ』は、わたしの名前だ。人から手籠めにされているから、テゴメ。ひどい名前だ。だけどわたしは、イッちゃんにもそう呼んでもらいたかった。馬鹿にされて、憐れまれて呼ばれたその名前ごと、わたしを受け入れてほしかった。
わたしは、イッちゃんの言葉の一部を、口の中で呟いた。
───くらげみたいに見えた。
「ほんと?」
涙がこぼれた。最初にあふれ出た涙は、イッちゃんが指で拭ってくれた。なのにまた泣いてしまった。
涙越しに、暗がりを照らす街灯と白い蛾、そして慌てた顔のイッちゃんを見た。
「わたしの涙、ほんとにそう見える?イッちゃんにとって、わたしの涙って、くらげみたいにきれいだと思える?」
イッちゃんはうなずいた。うなずいて、手を伸ばして、わたしの涙に触れた。その指の暖かさに、わたしの心が震えた。
イッちゃんは呟くように言った。
「きれいで、あんまりきれいで、見てると胸が痛む。泣いてるテゴメのほうがずっと辛いのは分かるけど、こっちも辛い。テゴメが泣くのは辛い。───テゴメの涙はくらげみたいできれいだけど、テゴメが泣くのは嫌だ。わがままだけど、そう思う」
そしてイッちゃんは、苦しそうに言葉を吐いたのだった。
「もういっそ、テゴメの涙なんて、本当にくらげになっちまえ」
この言葉が忘れられなくて、わたしは水槽を買った。
わたしは、ソファーから立ち上がって、テレビ台の脇に置かれた水槽の前まで歩いていった。
床に直に置かれた、三十センチ程度の深さのある水槽。わたしは、水槽の前にしゃがんで、その縁を指先で撫でた。
「くらげ、元気?」
ソファーに座っているイッちゃんが、ふざけた調子で訊いてきた。わたしはまたふかふかのソファーに、イッちゃんの隣に腰をかけた。
「うん。だけど、ほとんど逃げちゃったみたい」
「それは良かった」
わたしたちは笑い合う。
水槽の中には、何もいない。水すら張っていない。
だけれど、空っぽの水槽の中には、たしかにわたしのくらげがいる。わたしの涙のくらげが。
わたしが泣くたびに生まれるそいつらは、わたしが悲しみから立ち直ると、一匹ずつどこかへいなくなってしまう。
同じ家で暮らそうと決めた日、わたしとイッちゃんは、家具や生活雑貨を買いに、街のデパートを訪れた。二人で座っているソファーは、そのときに買ったものだ。
ひと通り必要なものを買い揃えたあとで、イッちゃんがわたしに、他に欲しいものはあるかと訊いてきた。わたしは、水槽が欲しいと言った。
テレビ台の脇でくらげを泳がせている水槽は、この家に住み始めたときから、ずっとそこにある。
「テゴメさ、くらげ飼うんだって言って水槽買ったじゃん。『くらげ?』って訊いたら、ちょっと怒ったよね」
ソファーの背もたれに背を預けたイッちゃんが、わたしを見つめて笑った。わたしは首を傾げた。
「そうだった?」
「そうだよ。『イッちゃんが言ったくせに』ってさ。そのあと珍しくテゴメがすねたから、ずっと前から観たがってた映画借りて、一緒に観て仲直りしたじゃん。忘れた?」
わたしは、顔が熱くなるのを感じて、うつむいた。
「そうだっけ。ごめん」
照れながら、思い出した。
勝手にすねてツンケンしていたわたしの手を引いて、イッちゃんはレンタルビデオ屋さんに入った。棚からイッちゃんが抜き出した映画のタイトルに、わたしの機嫌はころっと直った。そのまま手を繋いで帰った春の日。
「あの映画、クサいわりに面白かったね。また観よう」
イッちゃんがそう言いながら、背もたれから身を起こした。わたしの方を半身ごと向く。両腕を広げたイッちゃんは、わたしを見て目を細める。
「友情のハグをしないといけないね」
わたしは吹き出した。あのとき観た映画の、主人公の台詞だ。わたしは、そのシーンを思い出しつつ、親友役の台詞を返した。
「おれたちの仲を友情の一言で表すなんて、ナンセンスだと思うけど!」
台詞を口にして、イッちゃんの胸に身体を押し付ける。ほんと、ほんと。わたしたちの仲を『友情』だけで表すなんて、ナンセンス。
お互いロマンチストで馬鹿なわたしたち。まだ若いくせに、お互い以外を受け入れられない、困ったわたしたち。わたしたち二人の間にあるものは、友情じゃない。恋愛感情でもない。そんなストレートなものじゃ、許せない。
わたしたちは謎の動機で抱き合って、同じタイミングで笑い声をあげた。
ひとしきり笑ったあとで、わたしは大きく伸びをした。
水槽の中で泳ぐくらげが、また一匹いなくなった気がした。
くらげと水槽 秋野いも @akino-99
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