春のあなたへ 「春」「時間」「家の中の主従関係」 作・匿名
「おはよう。」
できるだけ柔らかい声で、私はあなたに挨拶をした。
「そろそろ12時だよ。朝ごはん…じゃなくて昼ごはんかな?一緒に食べよう。」
「…うん」
布団にくぐもった妹は元気なく、けれども返事を返してくれた。毛布をはがすと、まぶしさに目を細めながら体を丸める。背中まで伸びきった髪がそれに呼応するようにだらりと動いた。片手にはゲーム機を握ったままだ。
それには気づかないふりをしながら、私は彼女の手を引く。妹をリビングに連れ出し、あたたかいうどんを食べさせるために。せっかくの休日は、2人で過ごす時間を長くとりたかった。
しかし、彼女のよどんだ目はなにも気にしていないようだった。
私が都会に出て働きだして数年がたったころ、突然かかってきた電話によってこの生活は始まった。妹が警察に捕まったと告げる、母の泣き出しそうな声を私は今でも忘れられない。よくよく話を聞いてみればいわゆる軽犯罪で、万引き未遂を発見されたため厳重注意を受けたということだったらしい。人殺しではないことに私はまず安堵した。しかし、妹の心はそのとき殺されていたのかもしれない。帰ってきた妹は、すべてを拒絶するような目をしていた。いつも基本的に明るかった彼女がなぜ?…なんて陳腐な言い回しはしたくないが、その暗い様子は長く続きすぎた。気分転換に私の家で過ごさないかと提案したら、力なくうなずいたので強引にここに連れてきた。押したら流れるような、その危うい様子が悲しかった。
彼女は常に何かを眺めている。液晶の画面でも、本でも、街の風景でも。傍観と没頭が入り混じった真剣さに、私はその理由を見出した気がした。自分を消そうとしているのだと。現実の思考をしないための逃避だと。そういう痛いほどの思いに触れて、私は何もしないわけにはいかなかった。彼女が現実から逃げ続けるのであれば、私は彼女を引き留める杭にならなければ。いつかは時間がすべてを癒してくれる。それまでは彼女の体を生の世界にとどめておきたいと願った。こうして、私は現実世界でのあるじの役を彼女の前で演じ続けることを決心したのだ。
「…おいしい?」
私は妹の目をのぞき込んで言う。彼女は口の端をゆがめながら肯定した。そしてテーブルの上の花瓶に気づく。
「花…」
「そうだよ。もう春だから。なにか、華やかなものがあるといいと思って」
彼女はしばし押し黙った。おずおずと花を視界に入れる。その瞬間、彼女の感情が確かに動いたことを、私は感じた。ゆれる。あなたの目が現実を写した。
「…おはよう。」
私は心の中で、つぶやいた。
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