2021.8.8.九州大学文藝部・三題噺執筆会

九大文芸部

一衣帯水の神 「曇り」「リボン」「最後の流れ」「春」「時間」「家の中の主従関係」 作・糸乃蜘蛛

昔は私もすごかった。




散歩の途中に会ったその人、いや、人ではないらしい。川の神だと名乗られ、冥土の置き土産をくれてやると声をかけてきた。若くもなく老いてもいない、何とも言えないその神様は、雛型の老人台詞を吐いた。とりあえず、昔話を聞きたい風に装っておく。そんなに聞きたいか、なら話してやろう、という要らない前置きをして、川の神様は話し始めた。




揚子江もかくやというほどの大河だった。カナロアとやり合ったこともあるほどだ。その武勇伝ももはや誰にも思い出されることなく消えていくんだろうな。そんなに聞きたいという顔をしても無駄だ。私は他の事を話すためにお前を呼び止めたのだ。




そうそう、那智さまとは仲良くしてもらってたな。春の大宴会、あれは楽しい限りを尽くしたものだった。知っているか、雪解け水は甘露水と比するのも馬鹿らしいほどにおいしく酔えるのだよ。ヨルズには毎年毎年後始末が大変だと文句を言われたが、夏から秋にかけてはあいつもうるさいことこの上ない。おあいこだよ。




全ての事が些末に思えたが、些末なことも目を凝らすとなかなか面白いものだ。そう、お前たち人間の事だよ。赤ん坊を洗われたりしたことがあったな。祝福がどうのとか騒いでいたが、私にはよくわからなかった。ただ、赤ん坊の幸せを一心に願えるいい奴らだったことくらいはわかる。ごてごてしたリボンがあしらわれたブーケが流れてきたこともあった。チャペルから出てきた花嫁が流したものだった。皆が花束を胸に笑顔だったのだから、そのおすそ分けのつもりだったのかもしれん。私は渋々その花束を海の神に渡してやった。そのころには海の神と張り合うだけのものを私は持っていなかった。




気にも留めていなかったことが気になりだしたとき、私は焦りを感じだした。土が崩れてきて、セルヴァンスが一休みできるくらいには私の威厳もなくなった。猛暑の日照りが恨めしくなった。少し空が曇っただけでうれしい感情が湧いてきた。気まぐれな雨師を小声で呪うようほどに私の心は狭くなっていた。




線のように、という表現が当てはまるころにはもう達観していた。どう消えるか、それだけを考えていた。聞くと、人間も同じようなことを考えるらしいな。だからこそ、お前にもこの話を聞かせるべきだと思ったのだ。




ただひとかけらの雫の神になった時に、私は思う。私が消えるのは那智がいなくなったからでもない。カナロアが私を認めなくなったからでもない。雨師のせいでもないし、天帝に唾を吐こうなどとは思わない。私はprovidenceによって消えていくのだ。誰しもが丸い家の主従関係からは逃れられないのだよ。




それならあなたは神ではないのではないですか、と聞いたか?




その通りかもしれない。私はただ、providenceに抗って最後の贈り物を届けようとしている一介の意思に過ぎないのだよ。




そういって神様は姿を消した。平たい地面を一筋の雫が伝っていく。

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